8月の思い(5)▼父の出征
<仲築閒 卓蔵>
みなさん子どもの頃の写真を紹介している。そんな時代があったのですね。
この写真はぼくが小学校に入学した頃だとおもいます。
支那事変(1937年7月7日の盧溝橋事件を発端とする日中戦争を支那事変と呼んでいました)がはじまって間もなく、父親の一回目の招集のときのものです。後列左は母の父親で坂ノ市町の町長をしていましたね。故郷は、いまでこそ大分市ですが、当時は大分県北海部郡坂ノ市町。
朝鮮出身のO君も同級生。朝鮮出身というだけでいじめにあっていましたね。見るに見かねて「やめろよ」といったら、みんなやめましたね。ぼくが腕っぷしが強かったわけではありません。「町長の孫」という立場が効いたのです。
小学校の校門を入ると左側に(天皇皇后の写真が納められた)奉安殿。登校時に頭を下げて通らないと怒られましたよ。「戦地のお父さんに申し訳ないと思はないのか!」が接頭語です。
父は無事に帰りましたが、こんどは1941年に始まったアジア太平洋戦争で二度目の招集。勤務先は長崎の五島列島。
1945年8月。幸い無事に帰ってきました。
帰る途中に被爆したばかりの長崎を通ったのです。「崩れ残った壁に、梯子と人の影が黒く映っているのを見た」そうです。そこで作業をしていたのですね。
この写真。前列右がぼく。ぼく以外はみんな鬼籍。残っている奇跡。この「奇跡」は大事です。言いたいことを言い続けましょうよ。
作家の辺見庸さんが言っていました。「言葉を奪われているのはどちらか、戦時下の記者なのか、今なのか。今、報道規制はある。それは内なる(自ら検閲する)規制だ」と。この言葉、忘れていません。
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2021/08/09
8月の思い(6)▼「武運長久」と言っていた時代
46-s-1.jpg
<仲築閒 卓蔵>javascript:void(0)
これは父が最初の「出征」のとき、家族や親せきが寄せ書きしたものです。
当時は概ね「武運長久」だったと思います。出征した人が「いつまでも無事でいるように」という祈りの日の丸です。
「祈御奮闘」という文字もありますが、母の従弟は「御健康ヲ祈ル」と書き、母は「凱旋の日をお待ちしています」と素直に気持ちを書いています。その頃はまだ「無事で帰国を」を何の抵抗もなく言ったり書いたりしていたのですね。
それが1941年(昭和16年)にはじまったアジア太平洋戦争からガラッと変わりました。「武運長久」から「滅私奉公」です。「身を捨ててお国のために尽くす」ことが兵士の本文となったのです。
●どこかで読んだ「自由と平和のための京大有志の会」の「声明書」
戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。
戦争は、始めるよりも終える方が難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子供にも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。
精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。
海は、基地に押しつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。
血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。
学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。
生きる場所と考える自由を守り、創るために、私たちはまず思い上がった権力にくさびを打ち込まなくてはならない。
<仲築閒 卓蔵>
みなさん子どもの頃の写真を紹介している。そんな時代があったのですね。
この写真はぼくが小学校に入学した頃だとおもいます。
支那事変(1937年7月7日の盧溝橋事件を発端とする日中戦争を支那事変と呼んでいました)がはじまって間もなく、父親の一回目の招集のときのものです。後列左は母の父親で坂ノ市町の町長をしていましたね。故郷は、いまでこそ大分市ですが、当時は大分県北海部郡坂ノ市町。
朝鮮出身のO君も同級生。朝鮮出身というだけでいじめにあっていましたね。見るに見かねて「やめろよ」といったら、みんなやめましたね。ぼくが腕っぷしが強かったわけではありません。「町長の孫」という立場が効いたのです。
小学校の校門を入ると左側に(天皇皇后の写真が納められた)奉安殿。登校時に頭を下げて通らないと怒られましたよ。「戦地のお父さんに申し訳ないと思はないのか!」が接頭語です。
父は無事に帰りましたが、こんどは1941年に始まったアジア太平洋戦争で二度目の招集。勤務先は長崎の五島列島。
1945年8月。幸い無事に帰ってきました。
帰る途中に被爆したばかりの長崎を通ったのです。「崩れ残った壁に、梯子と人の影が黒く映っているのを見た」そうです。そこで作業をしていたのですね。
この写真。前列右がぼく。ぼく以外はみんな鬼籍。残っている奇跡。この「奇跡」は大事です。言いたいことを言い続けましょうよ。
作家の辺見庸さんが言っていました。「言葉を奪われているのはどちらか、戦時下の記者なのか、今なのか。今、報道規制はある。それは内なる(自ら検閲する)規制だ」と。この言葉、忘れていません。
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2021/08/09
8月の思い(6)▼「武運長久」と言っていた時代
46-s-1.jpg
<仲築閒 卓蔵>javascript:void(0)
これは父が最初の「出征」のとき、家族や親せきが寄せ書きしたものです。
当時は概ね「武運長久」だったと思います。出征した人が「いつまでも無事でいるように」という祈りの日の丸です。
「祈御奮闘」という文字もありますが、母の従弟は「御健康ヲ祈ル」と書き、母は「凱旋の日をお待ちしています」と素直に気持ちを書いています。その頃はまだ「無事で帰国を」を何の抵抗もなく言ったり書いたりしていたのですね。
それが1941年(昭和16年)にはじまったアジア太平洋戦争からガラッと変わりました。「武運長久」から「滅私奉公」です。「身を捨ててお国のために尽くす」ことが兵士の本文となったのです。
●どこかで読んだ「自由と平和のための京大有志の会」の「声明書」
戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。
戦争は、始めるよりも終える方が難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子供にも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。
精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。
海は、基地に押しつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。
血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。
学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。
生きる場所と考える自由を守り、創るために、私たちはまず思い上がった権力にくさびを打ち込まなくてはならない。
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