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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

古い写真から蘇る思い出の山旅・その80

2025年02月14日 09時23分19秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その80
「刈寄山」


かれこれ24年前2001年4月に、妻と二人で、東京都の西部、奥多摩の低山、戸倉三山の一つ、「刈寄山」を訪れたことが有った。時間的、精神的余裕の無い自営業を続けていた頃だったが、忙中敢えて閑を作り、「たまには気晴らしに・・」等と思い立ち、出掛けたような気がする。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケット型フィルムカメラ)しか持っていない頃で、拙劣忙中感な写真ばかりだが、数枚、プリントし、アルバムに貼ってあり、ブログを始めたばかりの頃に、スキャナーで取り込み、一度、ブログに書き込んだものだが、その写真が外付けHDに保管してあり、久し振り引っ張り改めて、「古い写真から蘇る思い出の山旅」に、書き加えることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・。


山行コース・歩程等

今熊山・刈寄山登山口駐車スペース→今熊山山頂・今熊神社→入山峠→刈寄山山頂→砕石場→今熊山・刈寄山登山口駐車スペース
(標準歩行所要時間=約4時間30分)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

8時30分頃、沢渡橋を渡って直ぐの狭い道路の路肩に有った数台の駐車スペースに到着。
石橋を渡り逆川を左に見て、林道を進み・・・、
木橋、道標が有ったが、分かりづらく、都立小峰公園方面に向かってしまい、Uターン、
樹林帯で見掛けた花、当時は、花名も知らず分からずだったが、後年になって、
少しづつ、分かり出し・・・。

    エイザンスミレ          ヤブレガサ

 

ヨゴレネコノメ

エンレイソウ

 

10時30分頃、今熊山山頂(標高586m)・今熊神社に到着
女性グループ等、数組のハイカーが、休憩中、

ミツバツツジ?

アブラチャン?

12時頃、刈寄山山頂(標高687.3m)に到着
尾根伝いに、和田峠へ向かうという夫婦連れと言葉を交わし・・、

 

 

 

 

刈寄山山頂からは、樹林帯を急下降、
下リ詰めると、刈寄沢沿いの狭い車道に出る。
砕石場が有り、出入りするダンプカーの砂ほこりを被りながら下り、
13時30分頃、今熊山・刈寄山登山口駐車スペースに戻り着いたようだ。
あの頃はまだ、いつでも訪ねられる山だと思っていたが、その後、訪ねる機会は無く、足、腰、痛!、痛!になった今となっては、「刈寄山」もまた、近くて遠い思い出の山となってしまった。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その79

2025年02月02日 14時32分54秒 | 山歩記

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
先日、数年前に、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留めていた記事、「5月の鍋割山・塔ノ岳」にアクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」・・、
早速、コピペ、リメイクすることにした。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その79
「2回目の鍋割山・塔ノ岳」(再)


かれこれ24年前、2001年5月に、妻と二人で、丹沢山塊の「鍋割山・塔ノ岳」を訪れたことが有った。その数年前にも、当時一時所属していた山の会の仲間と、1度、同じコースを歩いたことが有り、2回目であったが、「冬」だったこともあり、趣は、まるで違っていた気がする。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケット型フィルムカメラ)しか持っていない頃で、拙劣な写真ばかりだが、数枚、プリントし、アルバムに貼ってあり、ブログを始めたばかりの頃に、スキャナーで取り込み、一度、ブログに書き込んだものだが、その写真が外付けHDに保管してあり、久し振り引っ張り改めて、「古い写真から蘇る思い出の山旅」に、書き加えることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・。


山行コース・歩程等

大倉駐車場→西谷出合→(西谷林道)→二俣(勘七ノ沢)→後沢乗越→一ノ萱→二ノ萱→鍋割山山頂・鍋割山荘→小丸→大丸→金冷シノ頭→塔ノ岳山頂→金冷シノ頭→花立→(大倉尾根)→小草平→駒止茶屋→見晴茶屋→大倉登山口→大倉駐車場 
(標準歩行所要時間=約6時間30分)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)


当時はまだ、年中無休のような自営業をしていた頃だったが、「たまには、気晴らしに・・」、「今日しか無い・・」、等と思い立ち、天候もイマイチで、ゴールデンウイーク終盤の車の渋滞も気になったが、急遽、出掛けたような気がする。

毎度のこと、早朝に自宅を出発、
当時はまだ、園央道も無く、一般道を走り、
登山口の「大倉駐車場」に着いたのは、7時頃だったようだ。
公営の駐車場の利用時間が、8時30分~19時となっていてゲートが閉っており、
向い側の民間駐車場に駐車。
さすがに人気の丹沢、早立ちするハイカーの車が続々到着、8時頃には、満車必至。
早い時間の到着、正解だった気がする。
7時30分頃、「大倉駐車場」を出発、
静かな、たんたんとした「西谷林道」を歩き、「県民の森入口」に至ると、
そこでも、路上駐車がいっぱい。
「二俣」から、「本沢」、「ミズヒノ沢」へと進む内、
大勢のハイカーが前後するようになり・・・・、

登り詰めた尾根上、「後沢乗越」で小休憩、
西側が切り立った尾根上で爽快だったが、濃い霧に覆われて展望は叶わず、

11時頃、「鍋割山山頂(標高1,272.5m)」に到着、
晴れていれば 大展望が楽しめるところ、残念ながら 濃い霧に覆われていました。
鍋割山荘前の広場には大勢のハイカーが 休憩中。
ここで早目の昼食としたが、広場は、鹿の糞だらけ、
要注意・・だった気がする。

鍋割山山頂からは 気持ちの良い尾根歩き、
「小丸(標高1,341m)」、「大丸(標高1,386m)」、
「金冷シノ頭」から急な階段を登り、塔ノ岳に向かった。

13時頃、「塔ノ岳山頂(標高1,490.9m)」に到着、

 

山頂の広場は、濃い霧に覆われていて、視界は、5~6m程度、
「尊仏山荘」も見え隠れ、お目当て、大展望は、叶わず。
大勢のハイカーで溢れており、長居無用と決め、下山開始。

晴れていれば、奥秩父から南アルプスまで、見渡せる山頂なのだが・・・。

塔ノ岳山頂からは、急な階段の往路を下り、
13時20分頃には、「金冷シノ頭」に戻ったようだ。
「金冷シノ頭」から、「花立」、「小草平」、「駒止茶屋」、「一本松」、「見晴茶屋」
「観音茶屋」、「大倉」までは、バカオネ(馬鹿尾根)等とも呼ばれる、
長い長い「大倉尾根」の下り、
最後には、膝が笑い出し、ヘトヘトになって 
15時頃に、「大倉駐車場」に戻り着いたのだった。
直ぐ、帰途についたが、ゴールデンウイーックの終盤とあって、
行楽地からの帰りの車、帰省のUターンの車の大渋滞に巻き込まれてしまい、
予定より2時間以上も遅れて、深夜帰着したような気がする。
当時はまだ。「また来る時には、笑っておくれ・・・♫」的な気持ちだったと思うが、その後、訪れる機会は無く、足、腰、痛!、痛!となった今となっては、「鍋割山・塔ノ岳」もまた、近くて遠い思い出の山となってしまった。


振り返り記事
「初めての鍋割山・塔ノ岳」
👇️
こちら



 

 

コメント (2)

古い写真から蘇る思い出の山旅・その78

2025年01月28日 20時12分15秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その78
「2回目の杓子山」(再)


かれこれ10年前の2014年12月、旧い友人S氏に誘われ、その仲間(K氏、M氏、H氏)の忘年山行に加わり、山梨県の「杓子山」を訪ねたことがあった。
主目的は、下山後、霊水で有名な山の旅館「不動湯」で一浴、一泊、忘年会だったが、
好天に恵まれ、存分に富士山眺望を楽しめた山旅だった。
「杓子山」は、その数年前にも一度、山の会の仲間と訪れており、2回目だったが、
記憶に残る山旅となっている。

山行コース・歩程等

鳥居地峠 奥 林道駐車スペース→高座山山頂→大権首峠→杓子山山頂→(往路を戻る)→
大権首峠→高座山→鳥居地峠 奥 林道駐車スペース
(標準歩行時間=約3時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)


参加メンバーの一人K氏が車と運転を買って出てくれて、
登山口、鳥居地峠の駐車スペースに到着したのは、8時30分頃だったようだ。

霜柱がバリバリ、

 

9時30分頃、高座山(タカザスヤマ)山頂(標高1,304m)に到着、

10時30分頃、大権首峠(オオザストウゲ)、

杓子山(シャクシヤマ)山頂(標高1,598m)には
11時15分頃、到着
絶好の富士山展望台、

 

幹事S氏の段取りよろしく、全員で雑炊作り、
体が温まり、
正面に富士山と眺めながら、飲む熱々コーヒーもまた、グッド!、

12時30分頃、杓子山山頂を出発、
往路を下山、

カヤト急下降箇所、
登りでは凍結していて、さほど気にならなかったが
午後、霜が溶けだして、泥沼状態、
滑る、泥んこ、
オットットット・・、スッテン・・・、
つかまる物が無く、難渋、
無様な格好に、互いに、大笑いし合い、
後年になっても、話の種になったものだ。

14時45分頃、登山口の鳥居地峠スペースに帰還。
「不動湯」に向かった。
100年程前、地域の人達の湯治施設として開湯され、農閑期の疲労回復、皮膚病治療等に、利用されてきたという「不動湯」。現在は、地域自治会の皆さんによって運営されている公共施設なのだそうだ。

「2014年、お疲れ様!」

 

翌朝、「不動湯」から見た、朝焼けの富士山。

帰途、「鉄砲木ノ頭・パノラマ台」まで足を伸ばし、
大快晴の下、富士山、山中湖の風景を満喫。

遠く、白銀に輝く、南アルプスの峰々、
 

当時はまだ、「また来る時にも笑っておくれ・・・♫」的な気持ちだったと思うが、その後は、訪れる機会も無く、足、腰、痛!、痛!の今となっては、「杓子山」もまた、近くて遠い、思い出の山となってしまっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古い写真から蘇る思い出の山旅・その77

2025年01月12日 11時10分11秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その77
「2回目の茅ヶ岳」(再)


かれこれ24年前の2001年5月中旬、妻と二人で、山梨県の「茅ヶ岳」を訪ねたことが有った。
当時はまだ自営業を続けていた頃で、時間的、精神的余裕が無い頃だったが、その日は、全国的に広く高気圧に覆われ、北海道から九州まで、ほとんどが安定した快晴の日曜日、絶好の行楽日和だったようで、矢も盾もたまらず、急遽、山歩きする気になったのだと思う。
「どこへ行く?」、「日帰りで、とっつきやすい山?」、「そうだ、茅ヶ岳へ行こう!」、
そんな風だったのかも知れない。
「茅ヶ岳」は、2,000mにも満たない山ではあるが、「日本百名山」の著者、深田久弥氏が登山中に急逝された山として知られる山で、シルエットが八ヶ岳と似ていて、見誤りそうになるところから「ニセ八ツ(にせやつ)」等とも呼ばれ、親しまれている山である。独立峰だけに山頂からの展望も良く、特に難しい箇所もなく比較的気軽に登れることから、大変人気が有る山でもある。
「茅ヶ岳」には、その数年前にも、当時一時所属していた山の会の仲間と1回訪れていたが、どうしても妻とも登りたかった、拘りの?山だったのだ。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケットサイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、ピンボケ、拙劣写真ばかりだが、撮った写真は、プリントして、アルバムに貼ってあり、「OCNブログ人」でブログを始めてまもなくの頃、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留めたことが有った。その写真が、外付けHDに残っており、久し振りに引っ張り出して、改めて「古い写真から蘇る思い出の山旅」の一つに加えることにした。
古い写真を懐かしがり、昔のことを思い出す等は 老人の最も老人たるところ・・、等と自嘲しながら。


山行コース・歩程等

登山口(深田記念公園駐車場)→女岩→深田久弥終焉の地→茅ヶ岳山頂→岩門→金ヶ岳南峰→金ヶ岳北峰→金ヶ岳南峰→岩門→茅ヶ岳山頂→南尾根道(防火帯)→深田記念公園→登山口(深田記念公園駐車場)
(標準歩行所要時間=約6時間)、


自宅を夜明け前に出発、
登山口である「深田記念公園駐車場」には、8時頃到着したようだ。
流石に人気の有る山、広い駐車場も、ほぼ満車状態、
なんとか滑り込みセーフだったような気がする。
出発してしばらくは、樹林帯の中、たんたんとした林道歩き、
エンレイソウ、ニリンソウ、ヒトリシズカ等が見られたが、みなピンボケ・・、

 

 

 


水源函養林の看板が有るあたりはカラマツ林、
50分程歩くと、「女岩」に着く。
先発の夫婦連れやグループ等、大勢が休憩中、
したたり落ちる程度の水場が有る。
(注)その8年前に訪れた時には、落石等で危険とされ、
女岩への立ち入りは禁止となっていたような気がする。

「女岩」から、しばらくはジグザグ急登、
気温上昇、真夏の暑さとなり、半袖でも、汗だくになった気がする。

振り返らば、展望が広がり出し・・・、

9時30分頃、尾根道の鞍部に到着、小休憩、
左へ進んだところに、「深田久弥氏終焉の地の碑」が立っている。

10時頃、茅ヶ岳山頂(標高1,704m)に到着、
南方、南アルプスの峰々、甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山、
10数人のハイカーでいっぱい。座る場所も無い程。

 

「茅ヶ岳」山頂から、「金ヶ岳」へ向かう。

岩門、

金ヶ岳南峰山頂(標高1,764m)

金ヶ岳南峰で、早目の昼食、
12時30分頃、「茅ヶ岳山頂」まで戻り、
下山は、明るい南尾根道(防火帯)を辿った。

14時頃には、深田記念公園に帰りついたようだ。
園内には、深田久弥氏自筆の「百の頂きに百の喜びあり」の石碑が有る。

行楽シーズンの日曜日、中央自動車道の大渋滞が予想され、早目に退散したのだったが、
それでも、数カ所で自然渋滞が発生、帰宅出来たのは、20時頃だったような気がする。
その当時、「茅ヶ岳」は、季節を変えて何度でも訪れたい山等と思っていたはずだが、結局、後年になって、旧い友人と二人で、1回訪れ、3回訪れたことに留まった。
足、腰、痛!、痛!の今となっては、「茅ヶ岳」もまた、近くて遠い、思い出の山となってしまっている。

 

コメント (1)

古い写真から蘇る思い出の山旅・その76

2025年01月06日 14時26分50秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その76
「初めての鍋割山・塔ノ岳」


かれこれ27年前1998年2月に、当時一時所属していた山の会の仲間に誘われて、「鍋割山・塔ノ岳」を訪ねたことがあった。当時はまだ自営業を続けていた頃であり、「家族で山歩きを楽しむ」レベルだったが、思い立って参加したものだった。その頃まで、丹沢方面の山を全く訪れたことがなくて、「初めての鍋割山・塔ノ岳」だったのだ。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケットサイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃だったが、その写真がプリントしてアルバムに貼ってあり、「OCNブログ人」でブログを始めてまもなくの頃、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留めたことが有ったが、外付けHDに残っており、久し振りに引っ張り出して、改めて「古い写真から蘇る思い出の山旅」の一つに加えることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


山行コース・歩程等

表丹沢県民の森入口→二俣→後沢乗越→鍋割山山頂(鍋割山荘)→小丸→大丸→金冷シノ頭→塔ノ岳山頂(尊仏山荘)→金冷シノ頭→花立→堀山ノ家→駒止茶屋→見晴茶屋→大倉 
(標準歩行所要時間=約6時間15分)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)


前日の夜から明け方に掛けて、平地では雨、山沿いでは、降雪積雪だったようで、当日は、新雪を踏む冬山気分を味わえた山行だった気がする。
自宅を早朝5時頃出発、午前8時15分、小田急渋沢駅に集合したようだ。
タクシーに分乗し、表丹沢県民の森入口まで入り込み、
9時頃、表丹沢県民の森入口を出発したとある。
10時頃、後沢乗越に到着、
尾根上は、強風、木枝から雪が舞い落ち、時々広がる青空が眩しかった。
11時20分頃、鍋割山山頂(標高1,272.5m)に到着、
出発時には、曇天だったが、次第に天候回復、青空が広がり出し、
素晴らしい景色を眺めながら、鍋割山荘前の雪原で早目の昼食となったようだ。

丹沢主脈方面

相模湾方面

鍋割山荘前

 

12時頃、鍋割山山頂を出発、
しばらくは、ブナ林の明るい尾根道が続き、
小丸(標高1,341m)を経て、
二俣分岐付近で、軽アイゼン(6本爪)装着、
12時50分頃、大丸(標高1,386m)を通過、
13時20分頃、金冷シノ頭に到着、
ここで、ザックをデポし、塔ノ岳へ向かう。
カラ身とあって、急登も、ベテランの足、早過ぎ、
結構喘ぎながら、後を追ったような気がする。

雪の華

塔ノ岳への急登

13時40分頃、塔ノ岳山頂(標高1,490.9m)に到着

尊仏山荘、日ノ出山荘、

 

山頂は、強風、地吹雪状態、

もっと大展望を楽しみたいところだったが、
休憩無し、証拠写真?を撮り、すぐ引き返した気がする。
14時には、金冷シノ頭に戻り、
14時15分、花笠山荘で小休憩、
ここで、軽アイゼンを外したようだ。
あとは、長い、階段状の急下降、
大倉尾根(別名、馬鹿尾根?)をひたすら下り、
最後には、膝が笑い出し・・・、
16時30分頃、ヘトヘトに疲れ果てて、
大倉に到着したような気がする。

「鍋割山・塔ノ岳」は、当時、季節を変えて、何度でも訪れてみたい山等と思ったものだったが、
結局、後年になって、1度だけ、妻と二人で再訪したに留まり、足、腰、痛!、痛!の今となっては、「鍋割山・塔ノ岳」もまた、遠い思い出の山となってしまった。

コメント (2)

古い写真から蘇る思い出の山旅・その75

2024年12月24日 10時21分06秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その75
「丹沢主脈縦走」(再)


かれこれ25年前の1999年7月に、当時一時所属していた山の会の仲間に誘われて、「丹沢主脈(蛭ケ岳、丹沢山、塔ノ岳)」を縦走したことが有った。
「家族で山歩き」レベルを自認していたにも拘わらず、うっかり誘いに乗って、ベテラン、健脚男女(7人だったか、8人だったか)の仲間に加わってしまい、かなりハードなコース、長丁場を、ただただ、ひたすらくっついて歩くのが精一杯の山行だった気がするが。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケットサイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃だったが、写真を撮る余裕等も無かったようで、残っているのは、蛭ケ岳山頂で撮ってもらった証拠写真?1枚だけという有り様。その写真は、プリントしてアルバムに貼ってあり、「OCNブログ人」でブログを始めてまもなくの頃、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留めたことが有ったが、外付けHDに残っており、久し振りに引っ張り出して、改めて「古い写真から蘇る思い出の山旅」の一つに加えることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


深田久弥著 「日本百名山」
「丹沢山(たんざわさん」
(一部転載)

丹沢山が今日のように登山者で賑わうようになったのは、いつ頃からだろうか。少なくとも私がむかし丹沢へ行った時は、まだあまり知られていなかったようである。たしか私は「山岳」に出ていた丹沢縦走記を頼りに、青野原から焼山に登りヒメツギあたりまで行って、道が分からなくなって引き返した。それが最初だった。
もちろんもっと早くから武田久吉博士などによって、丹沢山塊は紹介されていたが、それはその頃はまだ数少なかった山好きの間だけだった。武田さんは、丹沢には非常に熱心で、この山塊の開拓者あるいは恩人と言ってもよいだろう。
(中略)
丹沢という名前が世間一般に強く印象されたのは、関東大震災だろう。その震源地として急に有名になった。しかし登山者が大勢押しかけるようになったのは、それよりずっと後で、おそらく山麓を小田急電車が走るようになり、距離の近い横浜山岳会が塔ヶ岳の上に山小屋を建てた頃からであろう。横浜山岳会の丹沢に対する貢献も忘れてはなるまい。
東海道線の小田原あたりから、丹沢山塊中でよく見える最も顕著なのは、大山(おおやま)であって、昔の人はこういう形のいい山を放ってはおかない。頂上に大きな岩があって、それが御神体として祀られている。天平勝宝七年(755年)、華厳宗の祖である僧良弁によって開山されたと伝えられる。
大山を一名雨降山(あふりやま)と呼ぶのは、この山の頂上には、いつも雲や霧が多く、大いに雨を降らすからで、そのため雨乞いの山ともなっている。今でもその表登山口には、め組だの、は組だの、消防の寄進の碑がたくさんあるのは、火消しと雨とは関係が深いからだろう。
  時によりすぐれば民のなげきなり
  八大龍王雨やめたまえ
という実朝の歌は、この大山の山神に献じられたものだと言われる。
(中略)
最高峰は、蛭ヶ岳(毘盧ヶ岳)で、一名薬師ヶ岳とも呼ばれた。私がその頂上に立ったのは、随分前のことだが、いかにも深山の感じがしたのは、そこから見渡すあたりが鬱蒼たる森林のためだったろう。
今はどうか。蛭ヶ岳から西に、ズングリした頭の桧洞丸(ひのきぼらまる)がある。丹沢で第二の高峰であるが、樹木で覆われていて道がなく、怪峰とか秘峰とか呼ばれたものだが、今はどうか。
私が百名山の一つに丹沢山(丹沢というのは山塊中の一峰)を取り上げたのは、個々の峰ではなく、全体としての立派さからである。丹沢山塊という名称は、たぶん、高頭式の「日本山岳志」から始まったのだろうと思うが、ただ表尾根を歩くだけでなく、その奥深く入れば、山の規模は大きく複雑で、容易にその全貌がつかめない。
「山岳」第一年一号(1906年)に載っている長文の塔ヶ岳登山記を見ると、案内人を連れている。その後の大正時代の登山者も、多くは案内人を伴ったようである。それほど未知の山であったのに、今日の繁盛ぶりはどうだろう。第一の原因は、東京に近く、手軽に行けるからだろう。谷川岳と丹沢山は東京の大衆登山の二大流行地となった。そして谷川岳に劣らずこの山にも遭難事件が頻繁に起こっている


山行コース・歩程等

東野バス停→八丁坂ノ頭→(東海自然歩道)→姫次→原小屋平→地蔵平→蛭ケ岳山頂→
鬼ケ岩ノ頭→棚沢ノ頭→不動ノ峰→丹沢山山頂→竜ケ馬場→日高→塔ノ岳山頂→花立→
(大倉尾根)→大倉バス停 
(標準歩行所要時間=約10時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

集合時間=7時、集合場所=JR中央線藤野駅、だったため、
自宅を早朝に出発、JR中央線、普通列車 松本行に乗車、
集合した仲間は、確か、リーダーを含めて、男性5人、女性2人、
だった気がする。
藤野駅からは、路線バス(神奈川中央バス)で、
蛭ケ岳登山口の有る、「東野」に向かった。
「東野バス停」には、7時40分頃に到着、
早速、出発したようだ。
いきなり、急登が始まり、喘いだように思うが、
10時頃、「八丁坂ノ頭」に着き、「焼山」からの「東海自然歩道」と合流、
しばらく平坦な尾根道が続いたような気がする。
「姫次」は、展望が良いとされているが、濃いガスがかかり、全く展望無し。
「原小屋平」「地蔵平」を経て、
12時30分頃、丹沢最高峰、[蛭ケ岳山頂](標高1,672.7m)に到着、


やはり濃いガスに覆われて、幻想的な雰囲気。
展望は叶わず。
この日の関東内陸部は、30度を超す猛暑だったようだが 
山頂は、天然のエアコン?状態で、爽快。
ここで、昼食となったが、予期せぬサプライズが有った。
それは、参加者の中に、都内で有名料理店?の店主?(シェフ?、料理長?)を
している方がおられて、
前日に準備したという自慢の料理数品を担いできてくれていて、
解説しながら、全員に提供されたことだった。
しばし、料理談義になったような気がする。
ただ、長丁場とて、ゆっくり休憩している時間は無しで、
13時頃には、「蛭ヶ岳山頂」を出発したようだ。
がっつり歩くのが目的の山行、
花を探したり、写真を撮っている余裕等無し、
シモツケソウ等、チラホラ咲いていたが チラ見だけ。
登山道の脇の濃いガスの中 鹿の親子のシルエットも見えたが・・・、
「鬼ヶ岩ノ頭](標高1,608m)、「棚沢ノ頭」、
「不動ノ峰」(標高1,614m)を経て、
14時30分頃 「丹沢山山頂」(標高1,567.1m)に到着したようだ。
登山者,ハイカーの姿見えず、静かな山頂で、小休憩。
「竜ヶ馬場](標高1,504m)、「日高」(標高1,461m)を経て、
15時30分頃、「塔ノ岳山頂」(標高1,490.9m)に到着。
やはり、濃いガスに覆われていて、展望全く出来ず、
尊仏山荘前広場で、小休憩。
なんとか、ここまで、歩き通すことが出来、
後は、長い長い「大倉尾根(バカ尾根)」を下るのみ、
ホッとしたような気がする。
16時頃、「花立」(標高1,370m)を経て、
「大倉尾根」を下るに従い、ガスが途切れ、視界が開けてきて、
高度が下がるにつれ、暑さも加わり、
膝が笑い出し、ヘトヘトになりながら、
18時頃、ようやく「大倉バス停」に、到着したようだ。
発車間際のバス便が有り、全員駆け足で乗り込み、
小田急渋沢駅に、18時頃到着。
駅前の居酒屋で、打ち上げ反省会にも加わった。

梅雨の真っ只中でありながら、幸い、雨具不要の山行ではあったが、
1日、約10時間も歩く山行等、後にも先にも経験が無く、
どうなることかと最後まで不安だった気がする。
なんとか、仲間にくっついて歩けた、達成感、満足感を感じながら、
小田急選、横浜線で、帰途についたのだった。

足、腰、痛!、痛!の今となっては、よくも、歩けたものよと、
我ながら信じられない山行だったが、 
二度と再び歩くこと不可能な、最初で最後の「丹沢主脈縦走」は、
貴重な体験であり、ベテランなら当たり前の山行なのだろうが、
「家族で山歩き」レベルにとっては、思い出深い山旅のひとつになったのだった。
あの日、一緒に歩いてくれた、Uリーダーと仲間達に、改めて、謝!、謝!である。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その74

2024年12月22日 20時54分12秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その74
「冬の三頭山」(再)


かれこれ22年前、2002年2月に、妻と二人で、東京都の最西部、山梨県との県境にある、「三頭山(みとうさん)」を訪れたことが有った。「三頭山」は、「奥多摩三山(三頭山、御前山、大岳)」の最高峰で、山頂は、西峰、中央峰、東峰の三つ分かれていて、遠方からもその山容が分かる。
当時はまだ自営業を続けていた頃で、時間的、精神的余裕が無い頃だったが、それでも、「三頭山」には、春、夏、秋に、何度か訪れていて、どうしても「冬の三頭山」を訪れてみたい一心が有り、その日、思い切って向かったような気がする。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケットサイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、ピンボケ、拙劣写真ばかりだが、撮った写真は、プリントして、アルバムに貼ってある。
「OCNブログ人」でブログを始めてまもなくの頃に、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留めたことが有ったが、その写真が、外付けHDに残っており、久し振りに引っ張り出して、改めて「古い写真から蘇る思い出の山旅」の一つに加えることにした。
記憶は、どんどん曖昧になっていても、古い写真を見ると、あの日、あの場所の情景が蘇ってくるから不思議なことだ。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


山行コース・歩程等

都民の森駐車場→三頭大滝→ムシカリ峠→三頭山山頂→鞘口峠→都民の森駐車場
(標準歩行所要時間=約3時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

メモによると、その日、梅の木峠から「日の出山」に登る予定で、三ッ沢まで行ったようだが、林道が通行止めになっていたため、引き返し、それでは・・・ということで、急遽、「三頭山」に変更、檜原村へ向かったのだった。
そんなこんなで、奥多摩周遊道路で、都民の森駐車場に到着したのは、
9時30分頃だったようだ。

10時頃、「三頭大滝」に着いたが、
「数馬バス停」から谷沿いに登ってきたという地元の男性有り、寸談。
肝心の、滝の写真を撮るのを忘れてしまい・・・、

 
「三頭大橋」から、「三頭沢」「ブナの路」付近、
予想していた以上の積雪量で、念のため、軽アイゼン装着し・・・。
陽射しが強く、急登で、汗だくになり・・・、

11時20分、尾根上、「ムシカリ峠」

11時45分頃、三頭山山頂・西峰(標高1,531m)に到着。
快晴の空の下、居合わせた数人のハイカーと山座同定。
北西、北方向には 雲取山、芋ノ木ドッケ、鷹ノ巣山、六ツ石山、川乗山等々。

南西方向には、富士山。
気分の良い山頂で
持参した、水、ガスコンロで、ラーメンを昼食とし、
のんびり、1時間以上、山頂に滞在したような気がする。

三頭山山頂・西峰からは、中央峰、東峰、鞘口峠を経て、
14時頃、都民の森駐車場に、帰還したようだ。

足、腰、痛!、痛!の今となっては、あの頃はまだ、よくも、「冬の三頭山」を訪れる気力が有ったのだなあと、感慨深くなっている。

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古い写真から蘇る思い出の山旅・その73

2024年12月20日 21時06分18秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その73
「紅葉ハイク・川乗山」(再)


かれこれ29年前の1995年11月中旬、妻と二人で、東京都の西部、奥多摩町の「川乗山(川苔山)」を 訪れたことが有った。
当時はまだ自営業を続けていた頃で、時間的、精神的余裕が無い頃だったが、たまたま、新聞折込のタウン紙に、「息を飲む紅葉の美しさの川乗山」等と紹介されていたのに、目が止まり、日曜日、急遽思い立って、車で向かったような気がする。
当時はまだ、バカチョンカメラ(ポケットサイズのフィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、ピンボケ、拙劣写真ばかりだが、撮った写真は、プリントして、アルバムに貼ってあり、「OCNブログ人」でブログを始めてまもなくの頃、スキャナーで取り込んで、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き留め置いていた。その写真が、外付けHDに残っており、久し振りに引っ張り出して、改めて「古い写真から蘇る思い出の山旅」の一つに加えることにした。
昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだ等と自嘲しながら・・・。


山行コース・歩程等

細倉橋駐車スペース→(川乗谷)→百尋ノ滝→川乗山山頂→(ウスバ尾根)→ウスバ乗越→
足毛岩の肩→百尋ノ滝→細倉橋駐車スペース
(標準歩行所要時間=約5時間30分)、

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

早朝に自宅を出発、
午前8時30頃 川乗谷の細倉橋の駐車スペースに到着したようだ。
駐車可能スペースは10台程しかなく、ほぼ満車状態だったが、
なんとか寄せて駐車、安堵、
途中の谷筋も、見事に紅葉しており、
岩と紅葉と清流を、車窓から楽しんだが、
初めての「川乗山」、
期待しながら、出発

百尋の滝(ひゃくひろのたき)

12時30分頃、川乗山山頂(標高1,362.7m)に到着、
昼食タイムとした。

 

15時30分頃、細倉橋駐車スペースに、帰還、
絶好のハイキング日和で、
ゆっくり、のんびり、快適な山歩きが出来たような気がする。
当時は、季節を変えて、何度でも訪れてみたい山・・・等と思っていたようだが、
結局、後年になって、1度だけ、再訪したに留まり、
足、腰、痛!、痛!の今となっては、
「川乗山」もまた、遠い思い出の山となってしまっている。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その72(3)

2024年12月14日 17時46分41秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その72(3)
「二度目の苗場山・老いらく山行」(再)


「雲尾坂」の急登を登り切ると、そこは、苗場山山頂部、
南北約4km、東西約1kmの湿原が広がっており、
あたかも田圃をイメージさせる、無数の池塘が点在する、
「苗場山」ならではの風景が見られる、
・・・・はずなのだが、残念、
絶えず、濃いガスが流れていて、展望は叶わず、

 

 

時折、ガスが切れ・・・、
ここが、標高2,000m級山頂部?、思わせる風景が・・・、

 

 

 

 

 

15時頃、苗場山山頂(標高2,145m)に到着

15時30分頃、「苗場山自然体験交流センター・苗場山山頂ヒュッテ」に、
チェックインしたようだ。

旧苗場山頂ヒユッテを全面改装して、1998年6月のオープンしたという
ログハウス風のしっかりした山小屋だ。
旧苗場山頂ヒユッテには、25年前の1999年に1泊したことがあったが、
すでに記憶曖昧になっていて、まるでイメージが違っていたような気がしたのだったが。
ちょうど、食堂兼談話室では、オリピック競技がテレビ放送されていて
盛り上がっていたが、
それどころではなく、
腿、脹脛、最悪の状態、
宿泊者が少なく、ゆったりしたスペースで、
もっぱら、ストレッチ、マッサージ、
消灯は、21時だったが、バタン、キュー、19時には、就寝したようだ。

第2日目、
4時頃、起床、
早朝に湿原散策を予定し、ご来光も期待していたが、
雨混じりの強風、最悪の天候。
天候の早期回復の見込み薄く、
さらに、再び、腿、脹脛が攣る不安も有って、
早目に下山することにし、
6時朝食後、7時には、「苗場山山頂ヒュッテ」を出発したようだ。
途中、小刻みに休憩しながら、ゆっくり、慎重に、往路を下山、
風雨の中、カメラを取り出す余裕もなく、写真1枚も無く、
ひたすら、足が攣るような事態にならないことを念じながら、
一歩、一歩・・・、
なんとか無事、12時頃、「第2リフト町営駐車場」に帰還、
渋滞する時間帯の長距離運転を避けたい一心で、直ぐ帰途についたのだと思う。
国道17号・三国街道を走り、三国トンネル、猿ヶ京温泉経由、
月夜野ICから関越自動車に入ったのだった。
単純標高差は、約950mとされている「苗場山」だが、アップダウンが激しく、
湿気と暑さでバテ、足が攣るアクシデント付きで、
体力の無さを思い知った、老いらく山歩きだった。
以後、高山山歩きは自重するようになり、足、腰、痛!、痛!、の今となっては、「苗場山」もまた、遠い思い出の山となってしまっているが、よくもまあ、2度も訪ねることが出来たものよと、我ながら信じがたい気もしている。

(おわり)


古い写真から蘇る思い出の山旅・その72(2)

2024年12月13日 10時12分06秒 | 山歩記

古い写真から蘇る思い出の山旅・その72(2)
「二度目の苗場山・老いらく山行」(再)


12時30分頃、「小松原湿原分岐点」に到着し小休憩、
ここからが本番、
身体と相談?、
なんとか大丈夫そう?、
「神楽ヶ峰」、「苗場山」に向かって出発した気がする。
しばらく、濃いガスが掛かった、アップダウンの少ない登山道を進むが・・・、

「股スリ岩」で急下降・・・、

 

13時頃、「神楽ヶ峰・八合目」(標高2,030m)に到着、

 

「神楽ヶ峰」からは、さらに「富士見坂」の下りになるが、
この下りで、アクシデント、
右足の腿、脹脛が、急に攣り始めてしまったのだ。
小刻みに休憩、ストレッチ、水分補給・・、
ペースダウン、
真正面に、山頂部が雲に覆われた「苗場山」のどっしりした山容が
ようやく現れ、気は逸るものの、
いったん下ってから、果たしてあの急登を、登り切ることが出来るのか、
一抹の不安を抱えながら・・・・、

なんとか、足攣りを解消させながら、ゆっくりと・・・、

13時30分頃、祓川コース唯一の水場「雷清水」に到着、
真夏の日射こそ無かったものの、高温多湿、汗ダクの登山者には、
有難い冷水、生き返る思い・・、

「神楽ヶ峰」から「富士見坂」を下ったコル周辺には、高山植物がいっぱい、
「お花畑」である。

 

 

   ミヤマコゴメグサ?          ハクサンフウロ

 

   ミヤマナデシコ

 

 

 

 

 

 

 

「お花畑」から、いよいよ、最後の急登、標高差約250mの「雲尾坂」にとりつく、

 

 

「雲尾坂」
時々、ガスの流れが途切れ、青空がのぞき、展望が広がり、・・、
ラッキー!、

 

 

喘ぎながら、「雲尾坂」の急登を登り切ると、
そこは、南北約4km、東西約1kmの湿原が広がり、
大小の池塘が点在、まるで田圃(たんぼ)をイメージされる、
苗場山特有の山頂部。


苗場山の最大の魅力の風景が見られるはず・・・、
だったが・・・、

(つづく)