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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

「寄り合い家族」 No.008

2023年09月01日 14時29分49秒 | 物語「寄り合い家族」

第2章 「出自」
(2)

話が前後することになるが、3歳の時に実の母親と死別し、5歳の時に実の父親と離別、石澤くにの養女となり、くにの娘として育った千代子が、実の父母、木村甚一郎やよ志のこと、木村家のこと、自分の出自のことを、一番最初に知ることになったのは、14歳~15歳の頃になってからのことだった。
ある日、その歳になるまで、存在すらも知らなかった、千代子の実の兄だという徹郎が、突然、東京巣鴨のくにの家を訪ねてきた。(後年になってから、もしかしたら、くにとは連絡を取り合っていたのかも知れない・・と、千代子は思ったものだったが)。千代子は、飛び上がらんばかり驚き、実の兄との再会に涙を流したのだったが、その後、度々 二人は、密かに会い、お互いの胸の内を語り合うようになった。そんな千代子に、徹郎は、実の父母、木村甚一郎・よ志のこと、木村家のこと、千代子が生まれてから養女になるまでのことを、知っている限りを語ったのだったが、そのひとつひとつが、千代子の知らなかったことばかりで、大きな衝撃を受けるのだった。ただ、徹郎からは、嘆いたり、悲しんだり、恨んだりすることをするな、今、幸せなんだから・・・と、やさしく慰められ、千代子は、それに頷き、素直に従うのだった。
その当時、徹郎は、住み込みで働きながら、夜間の大学に通う学生だった。背が高くスマートで格好良い青年、千代子にとっては、初めて間近に見る異性、まるで恋人のような存在にもなり、信頼し、慕い、デートを重ねたのだ。
千代子は、晩年になってから、「お兄さんと過ごしたあの頃が、人生で最も楽しい日々だった」と繰り返し、述懐していたものだ。

衝撃だった話のひとつは、それまで、実の母よ志が、3番目の子供を出産する時、子供と一緒に亡くなったと聞いていたものが、実は、千代子の下に、もう一人、男の子(徹郎と千代子の弟)がいて、生まれたばかりに、戸籍に入れずに、他家の子供として認知、貰われていったのだという話だった。そんなことが出来るんだろうか?、千代子には信じられない、狐につままれた思いだったが、徹郎は、知っていたのだ。ただ、両家の取り決めで、家を訪問したり、その弟と会うことは一切しないことになっているということで、徹郎ももちろん会っておらず、千代子にも、今は会うことが出来ないということを語り、所在も名前も知らせなかった。
その話は、事実だった。実の弟の名前は、浩史。戦後、昭和30年代になってから、徹郎は、すでにその家の世帯主となっていた浩史と連絡をとり合い、物心付く前に、実の父母と縁が切れ、離れ離れになって育ち、音信も不通だった、徹郎、千代子、浩史、実の、兄、妹、弟3人が、ただ一度だけ、涙の再会を果たすことになったのだった。

(つづく)


「寄り合い家族」 No.007

2023年08月27日 15時46分01秒 | 物語「寄り合い家族」

第2章 「出自」
(1)

千代子は、3歳の時に、実の母親よ志と死別し、実の父親木村甚一郎とは、4歳で別離、親戚に預けられ、石澤くにの養女になり育ったため、実父母の記憶は、全く無いまま、くにの娘として明るくすくすくと育ち、少女時代を過ごしたが、15~16歳になってからのこと、千代子の前に、突然、それまで全く存在すらも知らなかった実の兄だという男徹郎が現れ、その実の兄から、次々と実父母のことや木村家のことを知ることになり、大きな衝撃を受けることになったのだった。

千代子の実の父親木村甚一郎は、長野県の松本郊外本郷村惣社(現松本市)の金持ちの家の長男として生まれたのだという。姉が一人いたが、本来ならば、姉弟共、何不自由なく、幸せな人生を送れたはずだったが、甚一郎の父親が、常軌を逸する遊び人で、ある日、妻子を置き去りにして、家を飛び出して水商売の女と暮らすようになり、勘当されてしまったのだという。その結果、夫のいなくなった嫁は、お払い箱・・・、まだ若かった、甚一郎の母親は、幼かった2人の子供をその家に残して、追い出されてしまったのだという。当時はまだ、家中心の考え方の時代だったのである。追い出された甚一郎の母親は、その後、他家に嫁いでしまったため絶縁、甚一郎と姉は、生きながらにして、父母を同時に失ってしまったのだったという。実家は、甚一郎の父親の弟(甚一郎の叔父)が継ぎ、甚一郎と姉は、厄介者となり、親のいない孤児の扱いで、それぞれ、親戚の家に預けられたのだという。裕福な家でボンボンとして育った甚一郎は、不幸のどん底に突き落とされ、辛い思いで育ったと、戦後、晩年になってから、千代子と再会した時に漏らしたが、どこで、どのような暮らしをしたのかを語ることはしなかった。
その甚一郎は、大正10年5月20日に、谷川よ志という女性と結婚し、東京市北豊島郡三河島町(現荒川区)に、所帯を構えている。同年9月4日には、長男徹郎(千代子の兄)が生まれているが、親戚に預けられていた甚一郎が、どのような経緯で上京し、どのような仕事をし、どんないきさつが有って、よ志と結婚したのか等については、兄徹郎も聞かされていなかったようだ。 
そして、千代子は、大正12年8月28日に、同所で、長女として生まれている。千代子という名前は、浅草で蕎麦屋をしていた、母よ志の父親千代吉から、もらったものだったのだというが、千代子が生まれて4日目の大正12年9月1日午前11時58分、あの「関東大震災」が発生、赤ん坊の千代子は、危うく家具の下敷きになるところを、間一髪助け出されたのだという。
親子共々、命からがら逃げ延び、甚一郎の郷里、長野県の松本郊外本郷村惣社の実家の近くの知り合いを頼って身を寄せたのだという。
「関東大震災」は、明治以降の地震被害では最大規模で、推定10万5000人の死者行方不明者を出しており、危うく一命をとりとめた千代子は、生後4日目にして、まず一つ、危難を乗り越えたことになる。千代子の人生は、生まれた早々から、大波乱含みだったのだ。
「関東大震災」の1年後、甚一郎、よ志、徹郎、千代子、親子4人は、再上京し、中野の野方(現中野区)という所に居を構えている。千代子は、4歳になるまで、その野方で育ったはずだが、その記憶が全く無いのだった。東京郊外の静かな田園風景の中で、家族4人、細々ではあっても、平凡、平穏な暮らしを送っていたに違いない。当時、近所には、女の子が1人もおらず、千代子は、家族や近所の人から、ずいぶんと可愛がられていたと、兄徹郎が、何度も話してくれたことを、生涯忘れなかった。木村甚一郎一家の、実の親子水入らずの平凡で平穏な暮らしがそこには有ったのだろう。ただ、それが長く続くことがなかったのだ。

千代子が、3才になった年のことである。母のよ志が、3番目の子供を出産する際 生まれた子供と共に、亡くなってしまったのである。父の甚一郎がどんなに嘆き悲しんだか、子供2人を抱えて、どんなに追い詰められ、困り果てたかは、容易に推測出来る。再婚の話が持ち上がったのかも知れない。子供をどうするかということになったのかもしれない。いかなるいきさつが有ったかは、明らかでないが、結果、長男徹郎(千代子の兄)は、知人の伝手でと、墨田区のある町工場に奉公(住み込みで働きながら学校に通うことになり)、幼児の千代子は、子供がいなかった甚一郎の従兄弟夫婦に、一時的に預かってもらうことになったのだった。幼かった千代子には、そんな大事態を理解出来るはずもなく、父親の言うことを聞いて、分けも分からず、勝手の違う家に引き取られて行くしかなかった。その瞬間から、父の甚一郎とは、隔絶状態となり、知らない街で、心細く 泣いてばかりいたのかも知れない。千代子を預かってくれたのは、父の甚一郎の従兄弟に当たる木村助三郎夫婦だったが、その家になかなか馴染めす、心を閉ざしてしまった千代子は、厄介者として扱われ、冷たくされたのだった。そんな時、千代子は、石澤くにと出会い、くにの養女になったのだったが、成人するまで、その後の父甚一郎の所在や、兄徹郎の存在、所在すら知らされず、くにの娘として育っていくことになったのだ。

(つづく)


「寄り合い家族」 No.006

2023年08月24日 14時33分52秒 | 物語「寄り合い家族」

第1章 「出会い」
(6)

やがて、その日がきた。くにと源吉は、早朝から落ち着かなかったが、町内会世話役の市和田春治がやってきて、居間にでんと座ってくれたところで、ようやく深呼吸し、心の準備も整った。
約束通り、10時を回った頃、木村助三郎が、木村甚一郎を伴って現れた。
くには、二人を玄関で出迎え、型通りの挨拶を交わした後、奥の居間に招き入れたが、すかさず、甚一郎を観察していた。長身で、にこやか、いかにもボンボンといった感じがする男だったが、どこか、自分の実の子供を他人に譲るという重大な話にきた緊張感が漂っていない風にも見え、一瞬目を疑ってしまった。
居間の前で、改めて挨拶をする甚一郎の表情は、むしろ明るかったのだ。この人は、我が子を、他人の養女に出す話に、辛くはないのだろうか?・・くには思うのだった。
「お初にお目にかかります。木村甚一郎と申します。千代子の父親でございます。この度は、千代子のことで、いろいろとお世話になり、有難うございます。よろしくお願い致します」
「さあ、どうぞ、お座りになって下さいまし・・・」
4人が、座布団に正座したところで、くにが、夫源吉と町内会世話役の市和田春治を紹介し、用意しておいた客用の湯呑にお茶を注ぎ、差し出した。
春治が話を進めてくれることになっていたので、くには控えたが、
「助三郎様から、お聞き及びかもしれませんが、どうして、こちらのくにさんが、千代子さんを養女に欲しいということになったかのいきさつを、もう一度、くにさんから、話してもらいたいと思いますが、よろしいでしょうか」と、春治が口を開いた。
「よろしくお願い致します」。甚一郎は、頭を下げ、春治に促されたくに、
何から話そうか、考えていたくにだったが、まずは、千代子と初めて出会った日のことから、次第に、千代子の事情を知るようになり、自分の子供が欲して仕方ないくにが、千代子を自分の子として育てられないものか考えるようになったこと、千代子に幸せな暮らしをさせてやりたいと思うようになったこと、子供好きな夫も同意していること・・・等々を、甚一郎に向かって、熱く語ったのだった。
「有難うございます。先日、従兄弟から、今のお話を聞きまして、誠にそのような温かいお方が、おられるのか、びっくりしまして、最初は信じられなかったんです。今日、直に、お話を聞いて、もう、有難い、有難いと思うばかりで・・・・、」
話の持って生き方の上手い世話役春治も、話に加わって、次第に打ち解けて、甚一郎のひととなりも一通り分かりかけてきたところで、甚一郎の正直な本音までも見えてきた。
甚一郎曰く、「突然妻を亡くして、にっちもさっちもいかなくなり、幼児の千代子を、子供が無い従兄弟夫婦に頭を下げて預かってもらったが、一時的と思っていて、成人するまで育ててもらうつもりではなかった」と。「かと言って、1日でも早く、自分が引き戻す気概も環境も整わず、暗中模索しているところだった」と。さらに、「目下、知り合いから、縁談の話が有り、再婚を考えている」と。
くには、直感した。
もしかしたら、後妻になる人との新たな暮らしに、前妻の子供が邪魔になっているのではないか、千代子を養女として引き取ってくれる者が現れたことは、甚一郎にとっては、渡りに船だったのではないだろうか、実の娘千代子と縁を切れば、再婚の話が進むのかも知れない・・、等々。
いろいろな事情が有ることは分かるが、なんと薄情な、身勝手な男なのだろう、くにの胸には、訝る感情が去来したのだった。

もっとも、千代子を養女にして、完全に自分の娘として育てたい、くににとっては、甚一郎のその薄情な身勝手な決断は、むしろ都合の良いことであって、じくじくと親子の付き合いをされるより、きっぱり縁を切ってもらい、他人になり切って、くにと千代子の前に現れないのが最良だと思えたのだった。
事実、その日も、甚一郎は、「千代子には会わない方がいいと思う」と言い、会わずに帰ってしまい、その後も、くには、千代子を養女にする手続き上、2~3回、甚一郎に会ったが、甚一郎は、千代子とは、一切会わないまま、父娘は別離したのだった。第二次世界大戦後、甚一郎は、晩年、郷里の松本郊外本郷村(現松本市)に帰り、居を構えたが、昭和30年代になってからのこと、くに、千代子と手紙のやり取りを開始し、その後、30数年振りに再会することになるのだが、それまでは、絶縁状態で、全く赤の他人だったのだ。

数日して、千代子が、くにの家にやってきた。ちょうど、向こう隣りの大工の松つぁんが、上がり框に座りこんで、くにと世間話をしているところだったが、もちろん、千代子がくにの養女になる話も、先刻承知しており、
「チヨチャン、オバチャンチの子になるんだってな、嬉しいかい?」、千代子は、はにかみながら 「うん」と答え、くにのうしろに隠れた。親戚の家に預けられ、つらい思いをしていた千代子、助三郎から、「あのおばちゃんちの子になりたいか?」と問われ、迷わず「うん」と答えた千代子、実際に、いつから、くにの家で暮らせるようになるのかは分からなかったが、あどけない顔には、嬉しさが溢れていた。

「自分の子供が欲しくて仕方の無かったくに」、「自分の子供を手放したいと思っていた甚一郎」、まるで、猫の子を譲り渡しするが如く、千代子は、1年前までは、全く他人だったくにに引き取られることに決まり、その年の年末、諸々の手続きが終わり、正式に、くにの養女になり、名前も、「木村千代子」から「石澤千代子」となったのだ。千代子は、赤ん坊の時に、実母と死別、預けられた家では、冷たくされ、それまで、「おかあさん」と呼べる人が無かった分けだが、「おばちゃん」と呼べる人が現れ、しかも、初めて、「おかあさん」と呼べる人が出来たのだ。千代子、満5歳の大きな運命的な出来事だった。
こうして、千代子は 戸籍上の父母木村甚一郎、よ志とは、事実上縁を切り、赤の他人となり、血の繋がりのない新しい父母、石澤くに、阿藤源吉の娘として生きることになったのだった。

(つづく)


「寄り合い家族」 No.005

2023年08月22日 18時20分43秒 | 物語「寄り合い家族」

第1章 「出会い」
(5)

お彼岸も過ぎ、すっきり澄んだ秋空の9月下旬の昼下がり、くにの家に、木村助三郎がやって来た。昨年の暮、くにが千代子と初めて出会った日、家まで送って行ったことがあったが、玄関先で、千代子の頬を打ち、怒鳴った男、助三郎だ。あの時以後、会うことも無かったが、くには、その顔をしっかり覚えていた。ただ、訪いを入れてきた助三郎の態度は、くにが抱いていたイメージとはまるで違って、低姿勢で、揉み手せんばかりなのには、ちょっと驚きだった。くには、瞬間的に、町内会の世話役市和田春治を通して、申し入れた「千代子を養女にしたい」の話に対して何らかの返事を持ってきたに違いないと直感し、やんわりと身構えた。
「千代子が、いつもこちらで大変お世話になっているようでして、本当に申し訳けございません」
深々と頭をさ下げる助三郎に、
「何をおっしゃいますか。わたしらの方こそ、千代子ちゃんが、ちょこちょこ来てくれるんで、嬉しがっているんですよ」
千代子は、大人達が、自分のことで、いろいろ動いていること等、知るわけもなく、相変わらずちょこちょこと、くにの家にやってきて、くにや源吉が相手になってやっていたのだった。
「実は・・・・」
「まあ、こんなとこじゃ、なんですから、どうぞお上がり下さいまし」
源吉は、この日、頼まれ仕事が有って出掛けており、くに一人だったことも有り、助三郎は、用件だけ話し、直ぐにも引き上げようとしたようだったが、くには、奥の部屋に招き入れた。
「それじゃ、上がらしてもらいます・・・」
座布団に正座した助三郎に、くには、急いで、お茶をすすめたが、
「実は、先日、町内会の世話役の市和田様から伺った話の件なんですが・・・」
間髪を入れず、助三郎が口を開き、くには、胸の高まるのを抑えながら、
「藪から棒に、わたしらの勝手なお願いをしてしまいまして、さぞや、おたく様には、ご迷惑だったでございましょう。失礼の程、ご勘弁して下さいまし。」
「いえいえ・・・、実は、あのあと、直ぐ、千代子の父親と会って、じっくり話をしたんですが、ほんとに、こちらさんで、そのお気持ちがお有りになるんでしたら、是非、話を進めて欲しい・・・・、っていうことなんです。・・・・」
くには、内心、飛び上がらんばかりだったが、落ち着いた素振りで、
「わたしら、ずっと、自分の子供が欲しい・・・って思っておりましたんです。でも、出来ませんで・・・、あっ!、失礼しました。お宅様も、お子さん、いらっしゃらなかったんでしたね。千代子ちゃんと出会ってから随分懐かれて、千代子ちゃんの事情を知ってからは、ほんとに、千代子ちゃん、自分の子供になってくれないかなあ・・・って思うようになったんでございます」
「お聞き及びの通り、千代子の父親は、私の従兄弟に当たる人ですが、男手一人で千代子を育てるのは出来そうになくて、困り果てた挙げ句、ウチで預かって育てて欲しいと頭を下げられたんです。私共も、子供がいませんでしたから、引き受けたのですが、何分、ウチの家内は、あまり子供好きではなくて・・・・・・・・・、千代子にもなかなか懐いてもらえず、とても母親代わりにはなれないと、ずっと悩んでいたんです」
打ち解けた様子で話す助三郎は、くにが思っていた程、冷酷な男ではなく、どこかで、千代子を不憫に思っているところが有ることを、くには、感じ始めていた。
その助三郎に、
「そこで、ご相談なんですが、千代子の父親甚一郎を、一度こちらへ連れて来たいと思っているんですが、10月最初の日曜日、ご都合はいかがでしょう?」と問われ、ご都合も何も・・、くには、一も二も無く、承諾したのだった。
助三郎は、目の前の湯呑に手を伸ばすこともなく、それだけ話すと、そそくさと切り上げて帰って行ったが、くには、すぐさま、このことを、骨を折ってもらった町内会の世話役市和田春治宅へ報告に走り、その当日、同席してもらえないだろかと手を合わせたのだった。

(つづく)


「寄り合い家族」 No.004

2023年08月21日 15時26分55秒 | 物語「寄り合い家族」

第1章 「出会い」
(4)

町内会の世話役市和田春治が、千代子の家(木村助三郎の家)を訪ねてくれたのは、お盆を過ぎ、朝夕にいくらか秋の気配を感じるようになってからのことだった。春治は、その足で、くにと源治の家にやってきて、
「なにしろ、俺が突然行ったんで、ウチに何かあったんですかと、びっくりされちゃったけどね。ただ、千代子ちゃんのことで・・・と切り出して・・・、実は・・・、と話し出したら・・・、ここじゃなんですからって、居間に通されてね・・・・・」
春治は、さっきまでの助三郎の家の様子や聞き出した先方の事情等を、くにと源吉に説明するのだった。
通された部屋は、狭く古い造りだったが、掃除は行き届いていて、こざっぱりしていて、荒れた感じは無かったが、挨拶に出てきた助三郎の妻は、小柄で、無表情、やや棘がある感じだったという。春治が、やんわりと、「こちらさん、千代子ちゃんに対して、ちょっと厳し過ぎるのではないでしょうか」という話を差し向けると、咄嗟に夫婦揃って、「預かっている女の子ですので、多少厳しく躾るつもりで、けっして虐めているんじゃありません。ただ、千代子が、なかなか言う事きいてくれなくて、わたしらも困っているんです」等と、口を合わせてきたとも言う。
「二人共、最初は、訝っていたようだけどね。俺の話をだまって聞いてくれたし、だんだんと打ち解けてきてね・・・。大方のところ、こっちの話、通じたんじゃないかと思うよ。まあ、直ぐにどうこうという話じゃないし、先方が、どう言ってくるか、少し待ってみるしかないね」、
春治は、自分の役割がある程度運んだことで、安堵し満足した様子で帰って行ったが、くにと源吉は、改めて、そのご苦労に、頭を下げるのだった。
世話役の春治が聞いてきた話で、千代子のことが、おおよそが分かってきたくにと源吉だった。
千代子は、助三郎の従兄弟にあたる木村甚一郎とその妻よ志の長女だったが、千代子の母よ志は、長男徹郎、長女千代子の次の子出産の時に、その子と共に死去してしまい、千代子の父甚三郎は、たちまち、にっちもさっちもいかなくなり、15歳にも満たなかった長男徹郎を知人の工場に住み込みで出し、幼児の千代子は、子供がいなかった従兄弟の木村助三郎に泣きついて頼み込み、落ち着くまで一時的に預かってもらったという事情だったのだ。
千代子の実父母、木村甚一郎、よ志は、最初、三河島で世帯を持っていたが、大正12年9月1日の関東大震災に遭い、命からがら、長男徹郎と、生まれたばかりの千代子を伴って、一時、甚一郎の郷里、松本の郊外の親戚に身を寄せたが、1年後には、再上京して中野の野方で暮らし始め、ほそぼそとではあるが、家族揃って、平穏な暮らしをしていたのだという。ところが、青天の霹靂、千代子の母よ志は、3番目の子出産時に子供と共に死去、まだ赤ん坊だった千代子には、実の母親の記憶さえも無かったのだ。
実の母親も知らず、預けられた家の人には馴染めず、心閉ざしてしまった千代子。助三郎夫婦にとっても、好んで引き取った訳ではなく、迷惑千万なことで、反抗的な千代子に梃子摺り、虐待に走ったという事情のようだ。
町内会の世話人市和田春治が、木村助三郎夫婦に持ち込んだ、「千代子を養女にしたい者が町内にいる」という話は、それを検討したり、受けるかどうかの決断するのは、当然、千代子の実の父親木村甚一郎であるが、千代子を預かっている助三郎夫婦にとっても、渡りに船、降って湧いた朗報だったに違いない。すぐさま、甚一郎に伝えられ、相談、打ち合わせ、段取りが進んだのだった。

(つづく)

コメント (1)

「寄り合い家族」 No.003

2023年08月20日 11時29分14秒 | 物語「寄り合い家族」

第1章 「出会い」
(3)

石澤くにの「子供が欲しい」は、鳶職で、大の子供好きな内縁の夫源吉も、承知していることだったが、一緒に暮らし始めて10年過ぎても、子宝には恵まれず、二人は、半ば諦めていたところだった。周囲の人にも、「子供が欲しい」、「子供が欲しい」と言って憚らなかったくにだが、何故、そんなにも、自分の子供を欲がるのかには、口を閉ざし、その訳を知る者はいなかった。きっと、くにの生い立ちや過去に根差した深い思いが有ったに違いない。
そんな時に、目の前に現れたのが、親戚の家に預けられ虐待されている、薄幸の身の上の5歳の千代子だった。小さな親切をしてやっただけの千代子だったが、半年もしない内に、すっかり、くにと源吉に懐き、まるで親子のような情が通い出し始めているのだった。
家人には冷たくされ、知らない街で、友達も無く、不安だった千代子にしたら、縋る思いで、くにの家に寄り付くようになったのかも知れないが、気さくで世話好き、お節介焼き、気風良さで評判のくに、千代子の身の上を思い、なんとか千代子を幸せにしてやる方法がないものか、出来ることなら、「子供が欲しい」自分が千代子を引き取って育ててもいい・・・等と思い詰めるようになってしまったのだった。
長かった梅雨がそろそろ明けそうな頃、町内会の世話役、市和田春治が 盆踊りの打ち合わせに、印半纏で、くにの家にやってきた。鳶職の夫源吉もまた、町内会の催しには欠かせない存在で、毎年、何かに付けて駆り出され、協力していて、お互いに親しい間柄になっていたのだ。
春治は、職人5~6人使って土建業を営んでおり、しっかりした商売で、信用を得ていた。すでに50代半ばだったのだろうが、大柄で矍鑠としており、弁が立ち、町内会のお祭りや盆踊り等でも、先頭に立つ人物だった。その割には、物腰が柔らかく、しかも、思慮分別有り、町内では人望が高かった。町民からは、「親方」、「旦那さん」等と呼ばれ、町内会役員にはうってつけの人物だったのだ。
そんな春治とは、くにもまた、懇意にしており、その日も、簡単な打ち合わせが終わった後には、お茶飲みと雑談に転じ、
「実は、旦那さんに、相談に乗ってもらいたいこと、あるんですけど・・・」
何事も隠しておけないくには、ポロッと、千代子の話を出してしまったのだ。
「おお、その話か、俺も聞いてるよ。なんだってね、近所の可愛そうな女の子を、あんたら、可愛がってるんだってね。まるで親子みたいだって、みんな言ってるようじゃが・・・・」
くには、源吉と考え抜いた末、千代子を自分達の子にする手立てがないものかを、最も身近で頼りになる春治に相談、口添え、力添えをお願いしたのだった。
「あんたら、そんなに思い詰めているんなら、俺も一肌脱いでやらなきゃな・・・」
「旦那さんに、そう言っていただけるなんて・・・・、有難うございます」
思い詰めているだけでは、一歩も進まない話だが、春治に話をしたことで、一歩でも二歩でも前進するような気になり、くには、ますます意を強くするのだった。
ただ、その時はまだ、千代子の実の父母がどんな人間なのか、預かっている親戚とどんな関係なのか、先方の事情等、まるで知らず分からずで、くにの無鉄砲な申し入れが、どんな結果になるのかは、皆目見当が付かないものだった。
「あんたら、突然、直談判に行ったら、角が立つような話だし、俺が、近い内に、挨拶がてら、やんわり、どんな様子なのか、聞いてくるから・・・・」
「有難うございます」、「お願いします」、
くにと源吉は、春治に、深々と頭を下げるのだった。
とりあえず、春治が、千代子の家、木村助三郎の家に出向いて、話のきっかけを作ってくれることになったが、その内容は、
「子供が無くて、自分の子供がどうしても欲しいと思っている30代の夫婦が、町内にいること」
「その夫婦、半年前に、偶然、千代子ちゃんと出会い、その後、次第に懐かれ、情が通っていること」
「その夫婦から、こちらに話してもらえないか、頼まれたこと」
「千代子ちゃんは、親戚から預かっている子と伺っているが、こちらではこれからどうされるおつもりか?。千代子ちゃんの実の父母は、千代子ちゃんを養女に出されるお考え等、無いものだろうか?」
「急ぐ話では無いが、是非、お考えをお聞かせ願いたい」
先方の事情等一切知らずの突然の非礼をお詫びしながらの、申し入れだった。

(つづく)

コメント (2)

「寄り合い家族」 No.002

2023年08月16日 17時12分24秒 | 物語「寄り合い家族」

第1章 「出会い」
(2)

石澤くには、明治24年(1891年)9月に、埼玉県北葛飾郡豊岡村の農家、石澤又蔵、キオの次女として生まれているので、5歳の千代子と初めて出会った昭和2年頃は、30代半ばの女盛りだった。その頃は、内縁の夫、鳶職の阿藤源吉と、平穏で満ち足りた暮らしをしていたが、源吉との間には、子供は無く、人一倍、子供願望が強かったくには、周囲にも、「子供が欲しい」、「子供が欲しい」と、漏らしてはばからなかった。
くには、飛び抜けた美人という程ではなかったが、細身で、垢抜けており、「小股の切れ上がった女」、気さくで、愛想の良さ、気風の良さ、面倒見の良さで、出入りの職人や近所の人には、夫が鳶職だったこともあり、「姐さん(あねさん)」と呼ばれて、親しまれていた。
幼くして、父親の知り合いの伝手で、東京の浅草の小料理店に奉公に出されたらしかったが、その生い立ちや素性については、不明な部分が多く、その後、源吉と暮らすようになるまでの長い年月、東京で、どのような仕事をし、どのような暮らしをしていたのかについても、決して語ろうとしなかった。人に知られたくないさまざまなキズを持った、「訳有りの女」だったのかも知れない。それは、くにが晩年になって、新しい家族や親族が出来ても、決して打ち明けることをせず、謎めいていて、周りからは、東京で女一人暮らしを立てるとなると、水商売?をしていたに違いない等と、囁かれていたものだった。

千代子と初めて出会い、その家に送った日からしばらくの間、くには、千代子のことを忘れていたが、年が改まって、ようやく春の陽射しを感じるようになった頃、ひょっこり、千代子が、くにの家にやってきた。ちょうど出掛けようとしたところで、玄関の前で、うろうろしている千代子に気が付いたくに、
「誰かと思ったら、えーっと?、そうだ、チヨちゃんじゃないかい・・・・」
「どうしたの?、また、叱られたのかい?・・・」
「さっ、入って!、入って!」
昨年暮れのように泣きじゃくってはいなかったものの、やっぱり暗い顔をしている千代子。相変わらず、家の者には、厄介者として、冷たくあしらわれいるのが見て取れた。
あの時、「また、おいでよね」と言っておいたのを覚えていて、やってきたのだろう。
追い出されても行くところが無く、くにの家にくるしかない千代子・・・、
そう思うと、くには、決して幸せになれそうもない千代子が、たまらなく不憫でならなくなってしまうのだった。
上がり框に千代子を座らせたものの、その日は時間が無く、
ちょうど、貰い物の饅頭が、残っており、
「饅頭、好きかい?」と聞くと、大きく頷く千代子、
1個手のひらに乗せてやると、うれしそうに頬張る千代子。
その日は、人と約束が有り、
「今日は、話してる時間無いんだよ、ごめんよ、また、おいでよね」
玄関で見送りながら、千代子が家に戻って、どんな扱いをされるのかを、案じずにはいられないくにだった。
その後、温かくなり、時々、千代子が、くにの家にやってくるようになった。家から追い出される度に、真っ直ぐ、くにの家へ向かうようになったようだ。昨年から半年以上、千代子は、預けられた家では冷たくされ、知らない街で心細く、ずっと心閉ざしていたに違いないが、くにの小さな親切が余程身にしみたのか、一挙に心を開いたようにも見えた。
夫の源吉も、大の子供好きで、顔を合わせれば相手をしてくれ、千代子は、源吉にも直ぐに懐いた。ある時から、くにのことを、「おばちゃん」、「おばちゃん」と呼ぶようになり、子供らしい明るい表情を見せるようにもなり、くににとっては、自分の子供が出来たようにうれしくもなったが、所詮、他人の子供、しょんぼりと、家に戻っていく千代子を見送る度、薄幸のこの子、これからどうなるのだろう、なんとかならないものかという思いが募るのだった。
千代子には、父親、母親がいるのだろうか?、預かっている家の者とは、どんな関係なのだろうか?、千代子をどうするつもりなのだろうか?、・・・・、
その頃はまだ、千代子についてのほとんどが、くにの知らないところだったのだ。

(つづく)


「寄り合い家族」 No.001

2023年08月15日 20時38分10秒 | 物語「寄り合い家族」

まえがき

平成の時代に入ってまもなくの頃の話である。その頃はまだ、母親は北陸の山村で一人暮らしをしていたが、すでに認知症の症状が現れ始めていた。大正12年(1923年)に、薄幸の星の下に生まれ、運命の為すがまま、激動の大正、昭和、そして平成の時代を、右に左に必死に生き抜いてきた彼女の出自や、生い立ち、血の繋がらない人間が寄り合って一家を成してきた過程等を、少しでも知っておきたく、機会有る毎に、何度も何度も繰り返し、聞き取り、書き取りしたことが有った。
戦前の記録や写真等で、残っているものと言っても極めて少なく、彼女にしてみても、語れる記憶と言ったら、子供の頃、若い頃の断片的なエピソードや事件の記憶程度しか無く、とても回想録等として綴れる内容では無かったが、なんとか、物語としてまとめてみたく、長年、その思いを温めてきたものだった。悩みに悩み、登場人物は、それぞれ実在していた人物(仮名)とするものの、想像と脚色で繋ぎ合わせ、ほとんどフィクションに近い物語風にすることに決めた。
この、物語「寄り合い家族」は、自分の今日にも繋がっているものでも有り、ブログを始めた頃から、なんとしても、生きている内に、ブログ上に書き留め置きたいと思い込んだテーマの一つだっだが、何分、発想力無し、語彙力無し、作文力無しの爺さん、なかなか重い腰が上がらず、延び延びになっていたものだ。すでに、「その内いつか・・・」等と言ってられない歳となっており、「いつやるの?」、「今でしょ!」・・・、自問自答し、やっと取り掛かってはみたものの、どこまでまとめられるか等、まるで見当も付かない。支離滅裂でも、ほんの数行づつでも、ボチボチと、書き込めたら、それで御の字だと思いながら・・・。


第1章 「出会い」

(1)

昭和2年(1927年)は、前年の12月25日に、大正天皇が崩御されたことから、年号が「昭和」に変わり、わずか7日間で「昭和元年」が終わった直後の年であり、実質上、昭和時代の始まりの年でもあった。その年の2月には、大規模な大正天皇大葬儀が行われ、その葬列を見送るため、地方から200万人以上が東京に集まり、圧死者や重軽傷者が出た程であったが、国民の間では、まだ、「昭和」に慣れていない年でもあった。
その昭和2年も師走の半ばを迎えたある日、渋谷八幡通りに程近い、路地の奥のしもた屋に住んでいた石澤くには、木枯らしが吹き抜ける中、買い物の帰り道、家の直ぐ近くに来て、板塀の前で、泣きじゃくりながら、うずくまっている幼い女の子がいるのに気が付いた。普段、見かけている近所の子供では、なさそうだったが、放っておけない性格のくには、声を掛ける。
「おじょうちゃん、どうしたの?」                                  
身なりは、ちゃんとしているものの、顔色は悪く、痩せ細っており、顔を覆う手は、赤く腫れ上がっている。シモヤケだろう。
声を掛けても、うつむいていて返事をしない。
「そんなところにいちゃ、風邪引くよ」
「おばちゃんちに、入ろ・・」、
くには、女の子を立たせ、ひとまず、家に入れて、上がり框に座らせ、急いで、茶箪笥から有り合わせの駄菓子等を出してきて与えた。くにが、火鉢に炭を起こしている間にも、よほどお腹がすいていたと見えて、出され駄菓子をみな食べてしまい、やっとあどけない表情を見せた。                                                    「お名前は?」、「おうちは、どこ?」、「おいくつ?」、
くには、もう一度、やさしく聞いてみるが、名前だけは、「チヨ・・・」と答えるだけで、さっぱり要領を得ず、「さーって、困った」                         
もしかしたら、「言うことを聞かない子は、うちの子じゃない。出て行け」等と、怒られて締め出され、戻れなくなってしまった子供かも知れない等と思ったくにだったが、
ちょうどその時、向こう隣りの松つぁんが玄関前を通り掛かったのを幸い、呼び止めて、家の中に引っ張り込んだ。松つぁんとは、お人好しで、世話好き、おしゃべりな大工の棟梁、木下松蔵のこと、近所では、皆、親しみを込めて、「松つぁん」と呼んでいた。
「松つぁん、この子、どこの子か知らないかい?」、                                    松つぁんは、しげしげと女の子を見ながら、ちょっと首を傾げて、「さあ、知らん顔だなあ」
仕事から帰って、まだ家に寄っていない松つぁんだったが、                            「探してる者がいるかも知れん。ちょっくら、そこらへん歩き回って聞いてみるから、待ってな」、                     
言い放って走り去った。まだまだ、世話好き、おせっかい焼きが多かった時代だったのだ。しばらくすると、松つぁん、一人の小太りで割烹着の女を伴って、戻ってきた。
その割烹着の女、女の子を見るなり「ああ この子、知ってるよ。1丁程先の角を曲がってから、確か、5軒目の家の子だよ。半年前位に、親戚から預かった子だって・・・・」                                    住民の情報、噂話等が、井戸端会議風に伝わって、共有されていた時代でもあった。どこの子供か分かれば心配することは無いと、ほっとしたくにだったが、なにか分け有りの様子に見えるチヨ、まだ慣れていない町で、家にちゃんと戻れるのかどうかも心配になり、
「じゃ、おばちゃんが一緒に行って、うちの人に、よく話してやるから、帰ろ!」、         くには、渋るチヨの背中を押すように促し、その家まで送って行った。商店街から路地を入り、やや混み入った感じの住宅が並んでいたが、割烹着の女が教えてくれた「木村」の家は、すぐ分かった。
「ごめんくださいまし」
くにが訪いを入れると、すぐさま大柄な男が出てきた。この家の主人に違いない。くには、彼の、じろり、チヨを見る目に、冷たい空気を感じた。案の定、くにがいきさつを話し終わるやいなや、そのお礼の言葉より先に、いきなり、ピシャ!、チヨの頬を打ち、怒鳴っているではないか。くには、直感的に、チヨがその家で、どんなにかつらい立場に有ることを見抜いていた。「チヨ」の本当の名前は、「千代子」であることが分かったが、玄関先で、恐怖で、身体を固くしている千代子を、後ろ髪引かれる思いで、引き渡しながら、                                                        「また、今度、遊びにおいで」                                        と、言葉を掛けて別れるしかない、くにであったが、それは、5才だった千代子と、後に、千代子の養母となるくにの運命的な出会いの日となったのである。

(つづく)

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