これから述べることはすべて私の過去26年間の指導体験を通して感じた私見です。
子どもたちを指導して、伸びる子と伸びない子がいる。これは事実です。そして伸びる子は「知能が高い」というのも、真理です。竹の会の指導で「伸びなければ他のどこの塾でも伸びることはない」と私は言い切れると思っています。ところで「伸びない」原因は、普通は知能に帰因します。しかし、知能は高くても「伸びない」子がいます。知能が普通の子というのは、伸びるかどうかは、これから述べることにかかります。もっとも厄介で手に負えないもの、それは、その子どもに特有の性格に帰因するある心的な性癖です。それが自尊心です。「強い自尊心」です。これは難敵です。自尊心があまりに強すぎて「できない」「わからない」ということをなかなか認めないという性格の子がいます。実は、伸びる子というのは、「柔軟さ」と「素直さ」が際立つといっていいでしょう。自分ができない、わからないということを素直に認めて、教えを請うという姿勢には、思考の柔軟さが前面に感じ取れます。できない自分をさらけ出すというのは大切なことです。そういう自分を、現実を素直に認めて、そこから努力するというのが、理想の姿です。
自尊の心が心に砦を作り、ものごとを頑なに四角四面に、杓子定規に、とらえる傾向が強く、理解を歪めます。他人に「わかった」と思わせるために虚言を弄することともなります。「わかったふり」をすることも多く、その場を誤魔化す行動が多くなります。当面の問題を回避する、逃避するという傾向も次第に目立ってくる頃にはとそろそろぼろが出始める頃合いです。
自尊心というものが、自滅を導くということです。過去において私は何人もこういった定型的ともいえる自滅する子どもを見てきました。自尊心というのは、悪い方に強いと、これはとんでもない自意識過剰になるものです。自意識の強い子というのは、非常に傷つきやすく、「わからない」ということをとてつもないマイナス評価としてとらえ、それだけで現実からの逃走を図ります。だから、難敵であり、厄介なのです。
指導というのは、指導の技術として、あるときは子どもの自尊心をズタズタにするくらいにへこますことが是非とも必要なのです。そういう事態に追い込んでおいて、心から様々な見栄とか見かけとかのようなものを取り払ってしまって、裸の状態でとにかく無心に考えるというところまで、いや「わからないものはわからない」とはっきりと認めた上で、素直に理解しようと努める状態にしてしまうことが、とても大切と思うのです。知能の高い子たちというのは、自分のいたらなさを素直に認めて学ぼうとする姿勢に迷いのないものです。ところが、自尊心、自意識の強い子というのは、このような荒療治がまず不可能なわけです。つまり、初手から指導が不可能なのです。「伸びない」というのは、そのようなわけです。
そもそも人はみな最初から「できる」人などいないわけで、様々な「わからない」ことのあることを「認めて」、なんとか「わかる」ように努力するわけです。今「わからない」からといって、わからない自分を認めないというのは、根拠のない思い上がりです。自分はちっぽけな存在であり、わからないことだらけであり、自分よりすぐれた人はたくさんいる、だから自分はそういう自分のいたらなさを認めながらも、努力するしかないのだというのが、普通の「知能の高い」人の考える思考ではないかと思うのです。
自意識というのは、それまで周りから余程気を遣われて大事に育てられてきたのだと思いますが、実は世の中の人は自分のことなどほとんど見ていないのだということです。勝手に意識するのは自由ですが、大切なのは自分を過大に評価する自意識ではなくて、謙虚な意識だと思うのですが。
子どもたちを指導して、伸びる子と伸びない子がいる。これは事実です。そして伸びる子は「知能が高い」というのも、真理です。竹の会の指導で「伸びなければ他のどこの塾でも伸びることはない」と私は言い切れると思っています。ところで「伸びない」原因は、普通は知能に帰因します。しかし、知能は高くても「伸びない」子がいます。知能が普通の子というのは、伸びるかどうかは、これから述べることにかかります。もっとも厄介で手に負えないもの、それは、その子どもに特有の性格に帰因するある心的な性癖です。それが自尊心です。「強い自尊心」です。これは難敵です。自尊心があまりに強すぎて「できない」「わからない」ということをなかなか認めないという性格の子がいます。実は、伸びる子というのは、「柔軟さ」と「素直さ」が際立つといっていいでしょう。自分ができない、わからないということを素直に認めて、教えを請うという姿勢には、思考の柔軟さが前面に感じ取れます。できない自分をさらけ出すというのは大切なことです。そういう自分を、現実を素直に認めて、そこから努力するというのが、理想の姿です。
自尊の心が心に砦を作り、ものごとを頑なに四角四面に、杓子定規に、とらえる傾向が強く、理解を歪めます。他人に「わかった」と思わせるために虚言を弄することともなります。「わかったふり」をすることも多く、その場を誤魔化す行動が多くなります。当面の問題を回避する、逃避するという傾向も次第に目立ってくる頃にはとそろそろぼろが出始める頃合いです。
自尊心というものが、自滅を導くということです。過去において私は何人もこういった定型的ともいえる自滅する子どもを見てきました。自尊心というのは、悪い方に強いと、これはとんでもない自意識過剰になるものです。自意識の強い子というのは、非常に傷つきやすく、「わからない」ということをとてつもないマイナス評価としてとらえ、それだけで現実からの逃走を図ります。だから、難敵であり、厄介なのです。
指導というのは、指導の技術として、あるときは子どもの自尊心をズタズタにするくらいにへこますことが是非とも必要なのです。そういう事態に追い込んでおいて、心から様々な見栄とか見かけとかのようなものを取り払ってしまって、裸の状態でとにかく無心に考えるというところまで、いや「わからないものはわからない」とはっきりと認めた上で、素直に理解しようと努める状態にしてしまうことが、とても大切と思うのです。知能の高い子たちというのは、自分のいたらなさを素直に認めて学ぼうとする姿勢に迷いのないものです。ところが、自尊心、自意識の強い子というのは、このような荒療治がまず不可能なわけです。つまり、初手から指導が不可能なのです。「伸びない」というのは、そのようなわけです。
そもそも人はみな最初から「できる」人などいないわけで、様々な「わからない」ことのあることを「認めて」、なんとか「わかる」ように努力するわけです。今「わからない」からといって、わからない自分を認めないというのは、根拠のない思い上がりです。自分はちっぽけな存在であり、わからないことだらけであり、自分よりすぐれた人はたくさんいる、だから自分はそういう自分のいたらなさを認めながらも、努力するしかないのだというのが、普通の「知能の高い」人の考える思考ではないかと思うのです。
自意識というのは、それまで周りから余程気を遣われて大事に育てられてきたのだと思いますが、実は世の中の人は自分のことなどほとんど見ていないのだということです。勝手に意識するのは自由ですが、大切なのは自分を過大に評価する自意識ではなくて、謙虚な意識だと思うのですが。