草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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未確認思考物体

2013年09月10日 15時58分37秒 | 
 竹の会では入会するとすぐに計算をまず「できる」ようにする。すべての指導は計算をマスターしてからだという認識である。計算は、まず余りのある小数の計算、通分から始まり分数、小数混合の四則混合演算(かっこもふんだんにある)、それから最後に逆算へと進んで、ひととおり終わりである。計算は毎回の指導の始めに必ず4題解く。指導前のウォーミングアップである。毎回4題欠かさずやることに意味がある。ところが中には家でまとめて宿題のようにやってくる子がいる。これは毎回やることの意義というものを理解していないことから、家でやってくれば効果がそれだけ出ると誤解してのことだと思うが、こういう子に限って塾でやるとほとんど間違いというこが多い。毎回やるからこそ、4題にすべての気を集中するからこそ効果があるということがわかっていない。
 計算では逆算で苦労する子が多い。1日で「分かる」子もいれば、1か月2か月かかる子もいる。何か月もかかった子もいる。逆算がいちばん知能の微妙な段階を反映する。
 それから割合に入る。ここでもまた知能がさながらに反映する。すいすいと理解して行く子もいれば、なかなか理解できないという子も、いやそのほうが多数派であったか。わたしはここで割合を理解させるための様々な手法を考案してきた。わたしの考え出したミクロマクロ思考法で救われた、目から鱗が取れたという子たちが、かなりにできる子たちであったのに驚いた。そうなると学校で「わからない」という子たちが多いのも頷けることである。竹の会ではかなりに理解層の底辺を広げることができたと思う。
 ただそれにしても竹の会は学校についていけない子たちを専門に教える塾では決してない。過去において、そういう子たちが竹の会にもたくさんいたこと、そしてそういう子たちが彼ら彼女らなりに理解を深めていったことは確かにあった。しかし、竹の会は今ではそういう子たちを見ることが、結局本来の指導に注がれるべき力を分散してしまうことを畏れて入会試験を実施することで一定の水準にある子たちを求めることにした。
 わたしは一定の水準にある子たちが集まり静かに勉強に集中してわたしの指示を素直に実践してくれればそれで心はとても平穏である。
 それにして、「割合」という未確認思考物体を見た子どもたちの戸惑いは想像に難くない。初めて見るものに拒否反応を示すのももっともとも思う。考えて見ればこれまでほとんど知的刺激に触れることがなかった子たちが、受検ということで、知らない漢字、言葉、割合などという面倒くさい思考物体を速く理解しろと迫られる。さまざまな理科の現象だって言葉足らずの子どもたちには理解が難しいはずである。
 わたしは小4の女子に言ったものである。「いいかい。望遠鏡を反対から覗いたらどうなる?大きなものが小さく見えるだろう。あの背の高い建物だって望遠鏡なら1?だ。いやなんでもかんでもみな1?に見える。ただ倍率はみな違うけどもね。割合というのはこの望遠鏡を逆さまにして見ることと同じなんだよ」と言った後、目をきょとんとしているその子の顔を見てもう何も言わなかった。ますます未確認思考物体を未確認なままにしてしまった。曖昧さというのが「わからない」の正体なんだよね。わかるというのは「区別できる」ということなんですよね。ちがいがわかるのがわかるなんですよ。割合を分からないという子どもの目はまるで未確認飛行物体を見るような「遠くを見る目」をしています。識別できないんです。1000円の4%なら、1000円×0.04とする子が、4%の食塩水1000gに含まれる食塩の量は「わかりません」といってもってくるのです。教育用語ではこれを転移の能力と言うようですが、転移能力の低い子を導くのはいつも不可能と隣り合わせです。
 指導というのは、初見が勝負です。子どもたちに未確認思考物体をどのように持ち出すか。出現させるか。その上で子どもたちにどのようにして確認させる、認識させるかです。
 竹の会の子どもたちはわたしの説明をよく理解します。それはわたしが子どもたちに説明に使う概念をひとつひとつ未確認思考物体から確認済みに変える作業をしてきたことの結果です。
 よく巷の塾で問題集のこの問題がわからないという子に「わかりやすく教える」などということが言われますが、そんなことができるはずはないのです。まず割合なら割合という未確認思考物体をじっくりとこどもたちの脳の中に概念形成しておかなければならない。その上で何%などという概念が使えるのです。子どもたちがわたしの説明をよく理解するのは、こどもたちの中に構築された説明を受け入れるための枠組みがあるからこそなのです。その枠組みはひとつひとつ積み上げていった確認の集積であり、決して一朝一夕に完成するものではありえない。
 子どもたちを指導するということは、子どもたちの認識する未確認思考物体を確認させる、既知のものとする技術にほかならない。

 
 夕暮れ(4時)
 
 「飯まだ?」
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