草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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小学生と家族

2011年10月29日 09時49分34秒 | 
 お早うございます。今年は去年に比べて暖かいようですね。去年の10月29日のブログでは、8℃とありました。それでも風邪をひく子は必ずいます。よく聞くのはインフルエンザ・ワクチンを接種直後に高熱を出すパターンです。私はインフルエンザ・ワクチンだけは「効かない」と「論理的に」考えていますが、このように接種して途端に感染による熱を出すというのもインフルエンザワクチン有害説の根拠とされています。
 さて本日は十月最後の土日ということで竹の会の受検生の皆さんはきっと張り切って勉強をスタートさせていることでしょう。外は青空が広がりとてもいい天気です。私には12歳、11歳の子どもたちが、10時間も勉強できるとはとても信じられないのです。しかし、あの杉山太一君は、1日14時間をやったと言います。竹の会の合格者たちはみな10時間をやったと報告を受けています。いやこれはすごいと思います。大人でもそんなにできるものではない。ましてや小学生に集中力がそこまで続くわけがない、と思ってしまいます。いやそんなに集中を継続できないとしてもとにかく机にへばりついて頑張っているだけでもすごい。これはこれから将来に向けての「集中力」の訓練にもなっている。受検という試練が与えてくれた自分が変わる絶好の機会かもしれない。これから中学生になっても、高校生になっても、ずっと勉強していかなくてはならない。今この時期に夢中で勉強し「勉強する」ということを経験することは、少なくとも受検しない子たちに比べて一歩も二歩も先に進んでいると言えます。それは自ら人生を切り開き、これから何度も出くわすであろう、将来愚にも付かない人間になるか否かの分岐点でしっかりと先手を打ち正しい道を選んでいることに他なりません。
 それはやりたいことはたくさんあるでしょう。子どもですから遊びたい、とにかく外で跳ね回りたい、そんな気持ちもよくわかります。することもないのでゲームに熱中する子もいるかもしれません。漫画やテレビばかり見ている子もいるかもしれません。あるいは家族で楽しんでいる家庭もあるでしょう。家族仲良く楽しい時を過ごせる期間というのは僅かですからね。あるいは子どもの稽古事や習い事で家族が夢中になる家庭もあるでしょう。それらは楽しくてきっといいことなのでしょう。そう小学生のいる家庭の風景というのはそんなものです。
 私は今度は中学生のいる家庭の風景についても話しておかなければと思います。特に、小学生のときに「そういうわけで」勉強らしい勉強をすることもなくそのまま中学生になった人、家庭のことです。まだ「勉強する」ということを知らない家庭です。そして中学生になったのだからと大手の塾にだけは通わせている家庭です。といっても部活や家庭の行事は絶対的に優先させる家庭です。家族がそろって行動することが小学生のときからの不文律になっていると考えている家庭です。そういう家庭の子どもというのは、「勉強する」ということの意味、本質を知らずに、「親のために勉強しているのだ」という意識が強いものです。もともと本人に知能が備わっていないケースが多く、成績が悪くて高校入試という人生の最大の分岐点ですでに後手の後手をとるしかない道を選んできたことをここで知ることになります。
 「勉強する」ということを知った小学生がとる分岐点に差しかかる前の賢い選択、そして中学生になっても「勉強する」ということの意味を知っている生徒のとる賢い選択の連鎖が、その子に常に将来につながる分岐点での最良の道を歩ませることになるのです。「勉強する」というのは、孤独なものです。自分ひとりで「歩む」ということを、「歩むしかない」のだということを「知る」試練の場に立たされ、こつこつと前へ進むしかないのです。でも、少なくとも「勉強している」ということが、古来間違った行動ではありえないのです。中国四千年の歴史を紐解いても孔子、孟子の時代を語るまでもなく、学問をするということに誤りはないのです。
 私は中学生のいる風景になると家庭の様相が極端に悪くなるのを何度も見て来ました。もはや小学生のときのように親に口を利くこともなくなった子どもたちは体格も親を凌ぐほどに成長し、「勉強しない」ように家庭全体で行動してきたつけか、もうまるで勉強しないのです。親は心配して家庭教師や塾に通わせて一生懸命にやってはみても、もはや手遅れです。「勉強する」ということの本質を教育してこなかったのですからそれは仕方ありません。鉄は熱いうちに打たなければいったん冷えて固まってしまえばもはや変えようがないのです。そうです。熱くて柔らかい小学生の時期にこそ、「勉強する」ということの意味、本質を悟らせてあげなければいけなかったのです。
 家族のできること、それは「勉強する」ことを、そう孤独でおそろしく退屈でおそろしく面白くないかもしれない、人生の分岐点で自然に正しい選択がとれるという、ただそのための意味しかないかもしれない、「勉強する」ということの意味を体験的に、家族はただ遠くから健気に子どもが「勉強する」ことと戦う光景を、教育する道をとるしかないのです。子どもに「勉強する」ということの意味を知らしめるのは、家族全体で必死になって教育するほど大変なことなのです。小学生という熱くて柔らかい時期に「勉強する」ということの本当の意味を教えずに、家族全体で導くことをしないで、子どもの好きなことをやらせて時間を無為に費消するなどのことをしていて、子どもが中学生になって勉強しないと悩んでもそれは無理というものです。「勉強する」というのは、家族みんなが取り組むある意味命がけの大事業なのですから。子どもが小学生のときに子どものやりたいようにやらせておくというのは、ただの放置、放棄にほかなりません。いや子どもにスポーツでもなんでも家族も夢中になってやらせることはきっと意味あることなのだと思います。ただ子どもが「勉強する」という意味、本質を知らないままに中学生になっていくというそのことは変わらないのですが。
 私は、受検する子どもたちに「何をすればいいのか」を示したつもりです。そうでなければ子どもたちは土日十時間といってもただやみくもに勉強するだけになってしまいます。塾の指導者というのは、具体的に何をやればいいのか、やらなければならないのかを「示す」ことが使命だと思っています。私はもともと高校入試が専門ですから、高校入試で示される私の指示は常に的確であり時宜を得たものであると思っています。受験直前期に私の出す指示は確実に受験の子どもたちをコントロールし確実に合格させるものであったと思っています。
 今は子どもたちに「勉強する」ということの意味を教育するもっともいいタイミングです。それは家族全体が子どもの将来のために教えるべき最大のイベントであると思います。中学生になって「勉強する」ということの意味を悟った子どもの姿を想像してください。きっとあのとき家族みんなでがんばって子どもに「勉強する」ということの意味を教えたことに安堵することでしょう。
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