草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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勉強を犠牲にしたのなら落ちて嘆くこともない

2015年04月11日 08時27分54秒 | 
 おはようございます。それにしてもこの時期に寒の戻りとは異常気象のひとつなのでしょうか。地球の位置以外に大気の移動がもたらす気温の変動が不気味さを予感させます。
 これからいい季節です。過ごしやすい季節です。4月、5月の陽気は世間の人たちを浮かれさせるのに十分です。5月の連休ともなればこの季節と相俟って人々はどっと行楽地に繰り出すことでしょう。
 この時期に受検・受験を標榜しながら、世間並みに勉強をいとも簡単に犠牲にしてまで浮かれる受験生、親、家庭の気持ちがどうしても理解できませんでした。
 わたしにしてみれば、4月、5月こそ思い切り勉強できる時期であり、なぜこの時期を無駄に過ごすのかとんと理解に苦しみます。
 多くの小学生はなにやかやと習い事、稽古事をやっているかと思います。それぞれに進級試験やら発表会やら、そのための準備の練習などと忙しく過ごす子たちもいるやに思われます。
 それはそれで結構なことですが、受検はそれで成功すると漠然と楽観しているのであろうかと思いますが、それはない。いちばん勉強できるこの時期に勉強と適当につきあって試験が近づいてきたなら真剣に取り組もうなどと描いているのであろうかと思いますが、それはない。今この一番勉強できるときに最大の努力をしても合格できるのか常に紙一重なのだと思っていてちょうどいい。
 勉強というはしたりしなかったりと不規則にやっても何の効果もない。継続して欠かすことなく長時間の勉強を核にした生活をリズムよく日々繰り返すことによって、初めて他では得られない勉強の啓示を得ることができる。
 ある日突然何かに目覚める。ブレークスルーがやってくる。
 勉強を継続することによって初めて勉強のなんたるか、こつみたいなものが見えてくる、わかってくる。それは実際に自分が実行して初めて得られるものである。
 不規則に勉強したりしなかったりする者には決して得ることのできないものを得ることができる。勉強を犠牲にして他の価値を得ようとする人たちが決して手にすることはないものを手に入れることができる。
 わたしたち凡人が自然の流れに反しないで、成功することをめざすのならもはや俗世間の軽薄な些事に手を染める暇はない。
 勉強というのは、習慣にして初めて意味がある。不幸にして、勉強を習慣化して生活の中に取り込めなかったとれば、何もしないで無為に時間を潰す生活、くだらないテレビを見て時間を潰すこと、ゲームで時間を無にすること、そういう人生を選択したということである。稽古事、習い事は無為ではない。価値ある、充実した時間と思う。しかし、それなら勉強という世界で成功することは夢見ないほうがいい。受検して成功しようなどとは考えないほうがいい。
 勉強とは決まった時間に机につき、教科書を開き、ただ黙々と「読み」、そして「書き」、時間がきたら寝る。その単調なくり返しである。勉強の習慣が生活の一部となったとき、日常化したとき、間違いなく成功の扉を開かれる。
 勉強を犠牲にするから失敗するのである。これほど簡単な理屈はない。
 落ちた人たちは、この時期に、4月、5月という気持ちのいい時期に、どう過ごしたか思い返してみるといい。たまにはいいと家族と出かけて勉強しなかった日がどれだけあったか、思い起こしてみるといい。試合や発表会で勉強できなかった日がどれくらいあったか思い出して見るといい。落ちたのには落ちるだけの理由があったということがすぐわかるはずである。
 勉強を犠牲にしたのなら落ちても少しも嘆くことはない。それはあたりまえのことだから。
 ここからは勉強と真摯に向かいあっている人たちへのメッセージである。
 勉強は自然の流れに逆らわず、順うことが極意です。
 覚える、記憶することと考えるということは別のことです。記憶するのは重要なことを時系列でくり返し読むことです。
 考えるとは、意味を考える、意味を理解することにつきます。
 人間は意味あることを本能的に求めています。
 文章を読むとは、文章の意味を読み取り理解することです。
 文章から何を読み取るか。
 それは常に一定のまとまりある、意味の塊(かたまり)を読み取るのです。これをわたしはストーリーと呼んでいます。
 勉強とは常になにかストーリーを読み取る作業です。
 その意味がわかるには実際に毎日毎日規則正しく勉強の習慣を繰り返すことです。
 この4月、5月に勉強しないなんて、なんともったいないことか。

 
 隅田川、浅草側から
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