草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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考えるスキマ

2007年03月02日 08時46分35秒 | 
知識には,自分にとって既に知っている知識と知らない知識がある。前者を「知」とよび,後者を「不知」とよぼう。試験に際しては必ず「不知」と遭遇する。そこで知らないからできないとして終わるのが,知識を暗記の対象としてきた人たちだ。人間にとって不知は膨大なのが普通なのだ。大手進学塾などの知識が網羅されたテキストは, 不知をなくそうと膨大な暗記を要求する。ただ単に暗記するだけなら, これほど面白くないことはない。「覚える」ということは必要である。しかし, ひとつひとつの知識が「考える」というフィルターを通して,その結果覚えるというのでなければ,なかなか覚えられるものではないし, 第一頭を悪くするだけである。普段から「考えない」から「不知」に遭遇するとすぐあきらめる。普段の勉強が必要最低限の知識を「考える」というフィルターを通して頭の中に整理するだけでいいのだ。普段の勉強の中心は, 未知の知識に対して自分の既知の知識から「推理」で導き出せることを確認することだ。特に理科などの科目は, 基本の原理を理解すれば,派生した知識はほとんど推理で出せるので, 暗記は不要だ。実は最大の暗記科目である社会にしたって実は推理でまかなえる。たとえば鎌倉時代なら鎌倉時代でその時代の権力者と民衆の生活を具体的に知る。その生活の中から, なぜ宗教が広まったのか, なぜ諸々の制度ができてきたのかなど思いをめぐらせる。できれば自分なりに推理して自己流のストーリを作っておく。これが考えるということだ。ただ南都六宗は何々など頭から覚えるのでは, 何も考えないから, 未知との遭遇に対して, 覚えている知識を思い出すだけしかできない。推理をめぐらして考えるという対処法ができない。網羅的テキストは考えるスキマがない。考えるためには必要最低限の知識だけでいいのだ。後は推理でなんとかまかなえる。何もかも与えられたのでは頭の働くスキマはなく, 思考は完全に殺されてしまう。
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