草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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飢餓と無為と倦怠

2013年03月18日 10時47分18秒 | 
 お早うございます。今日は朝9時の気温がすでに18℃もありました。強風が吹き荒れています。こういう風の強い日は花粉はどうなるのでしょうか。
 さて、3月の竹の会というのは、やはり何かのんびりとした雰囲気があるのでしょうか。それは新しく竹の会に参加した小3や小4の子たちのせいでしょうか。まだあどけない、この子たちが、あの容赦のない適性問題という試練に、果敢に挑むようになるのは、本当にありうるのかとさえ思ってしまうほど、まだまだ幼い子たちです。
 そういう目で見れば、すでに1年以上を竹の会で過ごして来た、小5の2人は、難しい算数の問題に取り組み、もう難しい顔をして、悩んでいますから、1年前を思えば、隔世の感があります。1年も経てば、すっかり成長した子どもたちの姿があります。もう「割合」の上級者であり、とにかく「思考する」という姿勢が染みついて、これから大きな敵と戦う準備みたいなものが次第に完成しつつありますね。
 パスカルのパンセ(思索)に、飢餓状態にある人間が求めたユートピアについての思索がありました。現代の人たちには、飢餓がない。そこから生まれるのは必然としての「無為と倦怠」だというのです。わたしも漠然とではありますが、何もかも満たされた子たち、いや人たちというのは、真剣に、つまり餓えから逃れるための必死な営みというものはなく、満たされた人たち特有の「無為と倦怠」に支配されてしまうというのは、よく見てきたとおりなのではないかと思うのです。
 明治、大正、昭和初期と飢餓がまだまだ支配していた時期ではないでしょうか。この当時にこそ「苦学」して成功する立志伝というものがまだまだ見られたのだと思います。社会全体が飢餓意識の中にあるとき、職業というものは、人生の重大事件であったのです。
 パスカルは、「一生のうちでいちばん大事なのはどんな職業を選ぶかということ、これに尽きる」と言っています。
 そしてその職業というのは、「偶然に左右される」とも言っています。「習慣が石工(いしく)を、兵士を、屋根葺き職人をつくるのだ」と。
 わたしたちは、この「習慣」というものを軽視しているのではないかと、ふと思うことがあります。
 なにかをする習慣をつけること、そして一旦その習慣を手にしたら決してその習慣を無にしないことず大切だと思うのです。
 当面、子どもたちには、「勉強する」習慣が大切です。その習慣が将来の職業さえも決めてしまうのだとしたら、これは重大なことです。
 大人たちの中には、生活保護を受けながら、当然仕事をしないのが前提ですので、朝から晩までパチンコをしているという人たちがいます。パスカルは「無為と倦怠」にある人たちが、次にとる行動が、「気晴らし」だと看破しています。いやパスカルは、現代の社会の、つまり飢餓状態が克服された社会の病理をさえ的確に予測しています。飢餓が克服された先にあるのは、「部屋の中にじっとしていること」です。わたしたちは働かないでじっと部屋に引きこもる若者たち(すでに中年に達する)の存在を知っています。彼らが気晴らしとしてのゲームなどに耽溺していることも知っています。
 パスカルは、働いたり、賭事とスポーツなども「気晴らし」のひとつとしてとらえています。「無為と倦怠」からいかにして逃れるか、現代人に突きつけられた究極の選択です。
 ここでわたしたちは、「習慣」というものの、この何気ない所作が、実はわたしたちの人生を左右するほどに、一生の職業をさえも決めてしまうほどに、重大なことだと知るのです。
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