草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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諸事雑感'11.6.19

2011年06月19日 11時09分49秒 | 
 6月は駆け足で終わる。光陰矢の如し。1年もあっという間に終わる。分子生物学者の福岡伸一さんは、その著書「動的平衡」の中で、「年をとると一年が早く過ぎるのは、実際の時間の経過に、自分の生命の回転速度がついていけないからだ」と仮説、つまり説明をしている。この人は理系の人なのに恐ろしくわかりやすい文章を書く名文家だと常々思ってきたが、この人の書いた本を読み返すたびに感心する。去年の夏は、5日指導2日休みのリズムでやったが、炎天の5日連続はかなり体にきた記憶がある。去年の受検生は夏も冬もすべて休むことなく頑張った。一昨年の受検生もそうだった。受検がすべてということではないので、実家に帰省するとか、海外研修というのももちろん自由である。かつては受検直前の12月まで土日は野球で勉強できないという子もいた。それなら落ちてもそういう事情は斟酌してあきらめもつきそうだが、そういう子に限って合格できなかったことのショックは大きかった。夏も冬も北海道の実家に帰省した子もいた。夏は一日も休まなかったが、9月の1週間休んでグァム旅行を楽しんだ子もいた。そういう子たちが軒並み落ちたのは私なりには実は説明がつくことである。「合格する」というのは、生半可なことではない。ひとたび受検を決意したのならもう脇目もふらずに一心に集中する、時間をそのためにのみ使う。8倍の倍率なら、時間の過ごし方も多種多様であろう。ただ受検にのみ集中できる子はその中の8分の1であろう。そして合格する子はそういう子である。ただそれだけのことである。受検にかける時間以外になにかを楽しむ余裕があるのは別に非難すべきことでもなんでもない。ただそれだけ合格から遠ざかるのだということをきちんと弁えているのなら。落ちたときに冷静にそういうことを斟酌することができるのなら。
 レジュメ指導が竹の会の定番指導となってもうどのくらいになるであろうか。レジュメそのものはもう随分前から作っていた。あの平成20年の受検の年もかなりのレジュメを制作した記憶がある。あの年は桜修館に1名合格しただけだった。だが、高校入試では2名が一般受験して、豊島岡女子&都立西、桐蔭理数&立教新座に合格した。これは私のレジュメ指導による初の成果であった。数学と英語のレジュメ指導体制が早くに完成したことはもともと竹の会が数学、英語で名を馳せてきたことからも首肯できることであった。実は、平成20年には、高校入試のための理科、社会のレジュメも完成させている。さらに、英語のオリジナルテキスト「新英語指導案」「入試英語指導案」とそれぞれの詳細解説集の完成も大きな成果であった。平成19年から本格化した算数のレジュメ作りは、次第に完成度を増して、平成22年の両国合格、桜修館合格でほぼ完璧な仕上がりをみせた。さらに、平成23年の小石川合格に向けたレジュメ作りでは高水準かつ最良質のレジュメが続々と完成していった。今や竹の会の算数レジュメは様々なレベルの小学生を割合巧者に育てる魔法のレジュメと化した感がある。そしてさらには、小学生のための理科、社会のレジュメも平成23年受検に間に合った。そして最後に私の気がかりは、国語レジュメのことだった。「読解百選」「入試読解」「四字熟語」「天声人語」・・・など夥しい国語レジュメを制作してきたが、どれひとつとして決定打とはなりえなかった。
 国語レジュメ指導は不可能なのか。そういう思いと悩みはいつも私の中にくすぶっていた。子どもたちにただ「読書をしなさい」では指導ではない。そういう中である日私はふと目にした週刊誌の記事に心を奪われた。週刊誌にあった本を早速紀伊國屋ウェブに注文して手にした。何度か読み返し、これは私の国語レジュメに道を示してくれたのではないかと思うようになった。何も小学生、そして中学生にも難しい論説文を無理して読ませることはないのではないか。第一あの幼い頭の子どもたちに難しい論説文など理解できるはずもない。子どもたちの読んでいる本はといえば、易しい物語ばかりだ。そんな読書から難しい論説文の読解ができるようになるはずもない。まだしも読むだけましで、読書は一切していないという子もたくさんいる。ゲームには時間をいくらでも費やすが読書など全く興味を示さないというのが凡人小学生の実像である。悩み深い国語の指導について私の悩みは尽きない。唯一国語のレジュメだけ満足できるものがない。「銀の匙」を通して、日本の古くからの行事、風習の理解を深め、常識的なことはよくわかっているという小学生、中学生を育てたい。受検や受験のことはこの際忘れてそういう国語の指導をしてみたいと思うようになりました。そういう読解の素養を培うことに力を注ぎたい。幼い子どもたちが難解な論説文を読んでも理解できないのはあたりまえのことで、もともとの素養もないのだから、ここはいきなり飛躍して高い読解力を求めることなく、じっくりと読解のための基盤を固めたいと思うのです。
 
 
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