草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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勉強を優先する選択、犠牲にする選択、時間を無為に過ごす選択

2013年08月24日 09時19分29秒 | 
 お早うございます。連日の指導で正直へとへとになります。男子(小中)を女子の中に適宜配置し引き離したところ、特におしゃべり危険度数の高い子を隔離するような席配置にしたところ、まったくおしゃべりがなくなりました。
 竹の会はやはり女子塾でいいと思います。男の子というのは一般に、周りのことに気を遣う余裕がありません。行動のひとつひとつが自分本位で、粗雑かつ乱暴です。静寂、静謐ということとは本来無縁なのかもしれません。ただそれは一般論で、才能豊かな男子ほど集中するということの大切さを本能的に知るものです。知能が高ければ高いほど勉強に集中できる素質は高いといえます。竹の会ではかつて都立西や青山学院高等部、早稲田実業高校などの高校生がいたことがありますが、彼ら・彼女らは、類い希なる集中力の持ち主でした。こういう知能の高い人というのは、時間を無為に過ごすことを特に嫌います。また騒々しさというものを嫌悪します。
 7月に入会した小5男子がいますが、わたしはこの男子が「おにぎりを食べる時間も惜しい、時間ぎりぎりまで問題を解きたい」と言って、おにぎりも持ってこないことを知りました。それだけ聞いてわたしはこの子の才能の高さを知りました。この子は竹の会入会試験で過去最高点をとった子でした。わたしは竹の会にかつていた中学生、高校生の秀才たちがみなそのような人たちであったことをよく知っています。平成20年に桐蔭理数に進み4年後に東大文2に合格した男子が中3時代に見せた集中力はすごいものでした。途中いつもカロリーメイトを1つ2つ口にしてまた勉強に集中する、とにかく勉強以外のことに時間を使うのが「惜しい」という気持ちが伝わってきました。成功する者は「時間を勉強以外のことに使うことを惜しい」と思う子のみです。こういう子には、部活云々、習い事、・お稽古事云々など問題の俎上にも上らないのです。最初から問題にもならないのです。勉強が優先するのは当たり前すぎてそういう議論をすることが不思議なのです。
 自分のやりたいこと、したいことを勉強に優先させてきた者が、合格を期待するな!ということです。犠牲を払っていない者が合格を期待するな!
 成功する子というのは、よく時間というものを知っている子です。だから「惜しい」という観念がわき起こるのです。愚かな人間ほど、特に若いときに、時間というものが無尽蔵にあると誤解しているものです。光陰矢の如しといいます。蓋し名言です。人というのは「先送り」して今を楽にやりすごそうとするものです。当面の困難を回避する、つまり先送りして今の楽を選択するというのは、時間というものの無理解からきているとしか思えません。時間は簡単に捨てられる、そしてその捨てたことの効果が今の時点ではすぐに出てこない、今はなにも変わらないというのが恐ろしい時間の怖さなのです。気がついたらもう捨てる時間がなくなっている、さらには、過去その時にやったからこそ意味があったということが実はほとんどであったということを後になって知ることになるのも時間の巧妙な罠なのです。
 試験のときは制限時間内に解くというかたちで時間というものがちらりと正体を現します。しかし、多くの凡人はそこから何も学ばない、時間が限られた中で生きているということを凡人は悟らない。
 敗者とは時間を甘く見た者たちのなれの果てです。まだ本番まで期間があるうちは、のんびりと時間を贅沢に使い、勉強と関係ないことにもふんだんに時間を割り当てます、時間を割きます。旅行を楽しむのもいいでしょう。野球に熱中するのもいいでしょう。ピアノの上達に時間を割くのもいいでしょう。ただしかしもしそうなら合格というものは期待すべきではないのです。犠牲を払わない者に合格を期待する資格など最初からなかったのですから。
 まだ本番まで十分時間がある、だから勉強以外の楽しいこともいっぱいやりたい、・・、冗談ではない、時間というものはそれほど都合のいいほどに自分に優しい存在ではありえない。時間の本心はまだたっぷりと時間があるときに時間を無駄に使わせてあなたたちから時間を奪うことにあるのですから。それが時間のしかけた罠だということに気がつかない、あなたたちが悪いのです。いや愚かというべきなのでしょうか。
 時間を「惜しい」と思う人たちこそ、時間にとっては籠絡しがたい、強敵なのです。
 時間の正体を知る者こそ強し。

 
 今朝の空
 
 ランチュウ 3匹とも元気です
 
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