おはようございます。一夜明けて合否悲喜こもごも、悲しみに耐えて再起を誓う子たちもいる、いや都立中というのは、ほとんどが「落ちる」試験ですから、悲しみを味わう試験なのかもしれない。
そういう試験に合格する子というのは、「選ばれた」子たちです。
毎年、掲示板の前に立つ、とき、思います。心臓によろしくない、かなり悪い、血圧もかなり上がっているのがわかる、それで一気に見ますね。一瞬です。特に、期待の強い子の場合だと、「ない」ときの衝撃はいつも一瞬時間が止まる、頭が真っ白になる。
「掲示板」の前に立つのが、わたしの最後の仕事だ。正直これが一番しんどい。いや都立高校受験とちがって、都立中学受検はかなりしんどい。高校受験は難関校でも2人に1人は受かる。が、都立中の人気校ともなると実質的な倍率はかなり高い。今年はやや下がったけど、それは受検する子たちが選別されてきたということで、できる子たちの争いということでは実質的な姿が見えてきたということだ。特に、桜修館などは女子に人気が高い学校で合格するほどの女子は「選ばれた」子たちだ。
初めて経験するであろう掲示板の前に立つということの意味を「知る」のは掲示板に実際に立ってみてわかることだ。自分の番号が「ない」ということの意味をそのときに初めて「知る」ことになる。
掲示板というのは、神のように「できた」「できない」という事実のみを突きつける。あなたたちが、さまざまなのっぴきならぬ事情で勉強を後回し、先送り、回避してきたことは、神にとってはただ「勉強しなかった」という事実としてあるに過ぎない。習い事の発表会、稽古事の進級試験、試合、発表会、旅行、様々な会、そういうものは確かにあなたたち、そしてあなたたちの家族には大切なことには違いない、しかし、掲示板はそういうことをいちいち斟酌してくれることはない。勉強したか、しなかったか、その事実のみが掲示板に評価される。
毎年、掲示板の前に立つとき、思うのは、子どもたち、そしてその家族がこの掲示板ということをリアルにどれだけ深刻にとらえているのだろうか、ということである。多くの子たちにとって、掲示板は自分の至らなかったことを告知される場でしかない。
わたしは近年は、毎年掲示板の前に立つ。高校入試を指導していた頃にはそういうことはしなかった。高校受験というのは、難関都立、難関私立を除けば、合格する割合が高い試験である。特に、都立は事前にかなりの確度で合格可能性を予測できる。はっきりと「落ちる」子が圧倒的に多い都立中とは違うのである。桜修館で言えば、女子は約8倍である。8人受けたら7人落ちるのである。合格率10%ほどである。掲示板の前に群がる親子の90%近くは「落ちた」親子なのである。
都立中に合格するということがいかに難しいかということである。
わたしはいつも自分が掲示板の前に立ったときのことが頭から離れたことはない。子どもたちの勉強の姿勢を見ていると、この子たちが果たして掲示板に番号を載せられるのか、と思うことがよくある。わたしはそういう視点でいつも見ている。
課題を出さない、ということの意味は、きちんと定義しておかなければなるまい。課題を課した日(指導日)の次の指導日が提出日である。それを次の、さらに次のと遅らせて、2週間経ち3週間経ちという子たちが、わたしにはどうしても掲示板に番号を載せられるとは思えないのである。
家庭学習についても、同じである。指導のない日は、少なくとも5時間は、なにかしら課題、レジュメの解き直しなどをやっているということが、わたしの想定である。が、現実はさまざまな習い事、稽古事で勉強もそうしたことのメニューのひとつに過ぎないという家庭が多いのではないか。
よくあるのは、「小6の夏までで今の習い事や稽古事が終わるからそうしたら勉強に専念します」というもの。それはどうぞ勝手にやってください、と思いますが、こういう勉強の扱いで、4~5か月前から、勉強に専念して果たして掲示板に番号が載るのか、ということです。いや、それまで勉強に専念してこなかったものが、突如として勉強に専念できるのか、ということもより深刻ではないかと思うのです。
合格するほどの子というのは、覚悟がまるで違うということです。それは本人の覚悟であり、その覚悟を尊重する家族の姿勢です。
覚悟というのは、日々の実行の積み重ねにしか表れない。塾で勉強に集中できない者がとうてい家庭で勉強をやっているとは思えない。
塾で、家庭で勉強できない、しない者はすでにして掲示板云々の埒外にある人たちである。
竹の会は、5人を1つの学年の目安としている。その5人が全員掲示板に番号を載せられること、いつかそういう掲示板の前にわたしは立ちたい。
そういう試験に合格する子というのは、「選ばれた」子たちです。
毎年、掲示板の前に立つ、とき、思います。心臓によろしくない、かなり悪い、血圧もかなり上がっているのがわかる、それで一気に見ますね。一瞬です。特に、期待の強い子の場合だと、「ない」ときの衝撃はいつも一瞬時間が止まる、頭が真っ白になる。
「掲示板」の前に立つのが、わたしの最後の仕事だ。正直これが一番しんどい。いや都立高校受験とちがって、都立中学受検はかなりしんどい。高校受験は難関校でも2人に1人は受かる。が、都立中の人気校ともなると実質的な倍率はかなり高い。今年はやや下がったけど、それは受検する子たちが選別されてきたということで、できる子たちの争いということでは実質的な姿が見えてきたということだ。特に、桜修館などは女子に人気が高い学校で合格するほどの女子は「選ばれた」子たちだ。
初めて経験するであろう掲示板の前に立つということの意味を「知る」のは掲示板に実際に立ってみてわかることだ。自分の番号が「ない」ということの意味をそのときに初めて「知る」ことになる。
掲示板というのは、神のように「できた」「できない」という事実のみを突きつける。あなたたちが、さまざまなのっぴきならぬ事情で勉強を後回し、先送り、回避してきたことは、神にとってはただ「勉強しなかった」という事実としてあるに過ぎない。習い事の発表会、稽古事の進級試験、試合、発表会、旅行、様々な会、そういうものは確かにあなたたち、そしてあなたたちの家族には大切なことには違いない、しかし、掲示板はそういうことをいちいち斟酌してくれることはない。勉強したか、しなかったか、その事実のみが掲示板に評価される。
毎年、掲示板の前に立つとき、思うのは、子どもたち、そしてその家族がこの掲示板ということをリアルにどれだけ深刻にとらえているのだろうか、ということである。多くの子たちにとって、掲示板は自分の至らなかったことを告知される場でしかない。
わたしは近年は、毎年掲示板の前に立つ。高校入試を指導していた頃にはそういうことはしなかった。高校受験というのは、難関都立、難関私立を除けば、合格する割合が高い試験である。特に、都立は事前にかなりの確度で合格可能性を予測できる。はっきりと「落ちる」子が圧倒的に多い都立中とは違うのである。桜修館で言えば、女子は約8倍である。8人受けたら7人落ちるのである。合格率10%ほどである。掲示板の前に群がる親子の90%近くは「落ちた」親子なのである。
都立中に合格するということがいかに難しいかということである。
わたしはいつも自分が掲示板の前に立ったときのことが頭から離れたことはない。子どもたちの勉強の姿勢を見ていると、この子たちが果たして掲示板に番号を載せられるのか、と思うことがよくある。わたしはそういう視点でいつも見ている。
課題を出さない、ということの意味は、きちんと定義しておかなければなるまい。課題を課した日(指導日)の次の指導日が提出日である。それを次の、さらに次のと遅らせて、2週間経ち3週間経ちという子たちが、わたしにはどうしても掲示板に番号を載せられるとは思えないのである。
家庭学習についても、同じである。指導のない日は、少なくとも5時間は、なにかしら課題、レジュメの解き直しなどをやっているということが、わたしの想定である。が、現実はさまざまな習い事、稽古事で勉強もそうしたことのメニューのひとつに過ぎないという家庭が多いのではないか。
よくあるのは、「小6の夏までで今の習い事や稽古事が終わるからそうしたら勉強に専念します」というもの。それはどうぞ勝手にやってください、と思いますが、こういう勉強の扱いで、4~5か月前から、勉強に専念して果たして掲示板に番号が載るのか、ということです。いや、それまで勉強に専念してこなかったものが、突如として勉強に専念できるのか、ということもより深刻ではないかと思うのです。
合格するほどの子というのは、覚悟がまるで違うということです。それは本人の覚悟であり、その覚悟を尊重する家族の姿勢です。
覚悟というのは、日々の実行の積み重ねにしか表れない。塾で勉強に集中できない者がとうてい家庭で勉強をやっているとは思えない。
塾で、家庭で勉強できない、しない者はすでにして掲示板云々の埒外にある人たちである。
竹の会は、5人を1つの学年の目安としている。その5人が全員掲示板に番号を載せられること、いつかそういう掲示板の前にわたしは立ちたい。