草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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「ウソ」を暴く技術と武器

2011年06月03日 10時20分01秒 | 
 お早うございます。本日は指導日です。今日は晴れのようです。小学校は移動教室の季節です。小6では、来週から移動教室のところもあります。その準備もいろいろ大変なようです。みなさんが無事移動教室を終えられ竹の会に元気に帰ってくるのを楽しみにしています。
 さて、本日は、たいそうなテーマになっていますが、私の関心が最近その辺にあるということで、そういうことをいろいろ考えることが多いということで、いろいろ思いを綴ってみたいと思いました。私たちは、「常識」ということを疑わないできました。その常識というのが、一般人の大多数の共通した認識ということで、疑う必要がないとされてきたわけです。「あたりまえ」というのも同じです。「常識」とか「あたりまえ」というのは、実は私たちにはとても楽なことです。なぜって、いちいち「考える」ことをしなくていいわけですから。脳が楽をするわけです。脳が楽をするということでは、私たちの脳は「忘れる」というはたらきで脳の安寧を保ってもいます。現代は様々なストレスに囲まれた社会ですから、私たちの脳も様々な防御機能を備えて健全な脳を維持しようと一生懸命なわけです。
 私たちの脳は、とにかく「考える」ことを省力化することでは天才だと思うのです。何々の専門化が言ったからとか、何人かの人たちが言ったからとか、有名人が言ったからとか、東大の先生が言ったからとか、何々の権威がいったからとか、国が言ったからとか、・・・とにかくそういうことでは何も考えないで信じてしまいます。脳というのは、できるだけ無駄な思考はしないようにするようです。考えないためには、いろいろと考えなくていい理由をもってもきます。脳のそういった志向が結局「脳の失敗」をもたらさざるを得ない。私は別に脳科学の専門家ではないですから、今まで述べてきたことは、全くの私の勝手な推論です。
 さて、私は、自分の脳が今述べてきたような「なまけもの」であるということを十分に警戒しなければならんと思うのです。それで私はいろいろと本を読むものですから、本に書かれてあることをすんなり受け入れることの危険を常に感じているわけです。だからどうしても「ウソ」を見抜かなければという必要性に迫られているのです。私は様々な本を読むといいましたが、私は塾の先生ですので、いろいろと学問的な書物も読むことが多いわけです。最近は算数関係の本はあまり読まないのですが、一頃は算数の様々な本を何十冊も読んで研究したこともあります。あるいは国語の文献をいろいろ読み読解に関する知見をいろいろ参考にするということもあります。あるいは高校では、最近はいろいろ幻のな名著と言われてきた参考書を読むことがあります。最近は、原発に関する書物が何十冊もあります。週刊誌などは関心のあるところしか読みませんが、これは情報収集の手段と考えています。
 そういう中で、私は子どもたちに指導をするのが仕事ですので、いつも指導技術の是非を問いかけているわけです。それでいろいと関連書物からも知見を得ようとします。そういう過程の中から、これまで当然とされてきた指導上の定説にいろいろと「疑い」が出てくるわけです。そこでこれらの事項についてこれからはこの「草枕」で取り上げて、真偽を確かめて行かなければならない、いやそうすることで、「ウソ」を見抜くというか、暴く技術を磨いていけるかもしれないとも考えたわけです。
 やっと、本日のテーマである、「ウソ」を暴く技術と武器、に入ることができました。
 さて、それで今日は、読書ということについて、触れておかねばと思いました。「ウソ」を暴くというからには、やはり「疑う」というのがひとつの技術であり、武器であると思います。世の中に溢れている様々な常識を疑うこと、常識の逆を真理とすることで、「論理」という思考技術にはたらきの場を与えることができると思ったのです。
 読解の苦手な小学生は、たいてい読書などはやらない。塾の子どもたちに聞いてみると、なにやら小説を読んでいるという子たちが何人かいましたが、まあ活字に触れているということしか効用は期待できないかもしれません。そういう読んで面白そうな小説を読むということで、本当に読解力がつくものであろうかという「疑い」です。少なくともそのような読書によって、選抜試験に出される読解文が読み取れるようになるとは正直思えないのです。そもそも試験で出される国語の問題というのは、原文の著者の主張とは別に問題制作者の見解に答える本質があることが看過されがちです。原文を読解してそれからその原文の内容が一般人の共通認識と錯覚し、当然そこから「あたりまえ」としての答えが出てくると素朴に考える人がいますが、それは間違いです。入試の国語は、原文を問題出題者の想定した論理にしたがって、答えるものなのです。だから、極端な場合には、原文の著者でさえも、その設問には答えられないことがあります。いや著者は自分の価値観で当然正解となると信じていますから、出題者の論理を無視します。それで出題者の予定する正解は出せないことのほうが普通なのではないかと思います。
 入試国語の現実は、普通に私たちがする読書とはかけ離れています。そして扱う原文も評論文であることがもっとも多いのです。評論というのは、まず既存の価値に対する「壊し」の試みですから、子どもたちにはとにかく難解です。子どもたちが価値基準をもっているわけもなく、本当に幼い脳のままでいったい何を理解しろというのでしょうか。
 私は今塾で「天声人語」を書写させるのをノルマにしています。まず手を動かせという意味があります。集中は「手」からという考えが実はあります。よく「集中しなさい」と言いますが、集中というのは、当の対象である本に集中するという意味ですが、実はその前に体を集中させる必要があると思うのです。体を自然体にもっていく。まず体を集中させて気を脳に集めるということが必要と思うのです。集中しない子というのは、まず体から気が分散して抜けています。気を集中させるどころか、体から力が抜けてしまい、気が分散して抜け出ている状態です。気が体から抜け出るのを止めるのが集中の第一歩です。心なしの緊張感が体からの気の散逸を止めます。それが自然体だと思うのです。だらんと力が抜けているのでは気もちりぢりで好き勝手におしゃべりをするということになります。
 話しは脱線しましたが、そういうわけで、天声人語は集中するための準備体操でもあるわけです。余裕があれば意味を調べてもほしいと思っています。さらに、家庭で繰り返し読む練習に使ってほしいと思っています。これは文字を一語一語を拾いながら読む段階から、文を塊(かたまり)で追い、僅かな目線の移動だけでさっさっと読むという意味の練習です。その意味の速読訓練をしてほしいということです。時には、時間を1分とか2分で切って、読んでほしいと思います。実は、試験というのは、制限時間付きの読解試験ということが意外と無視されています。家庭で時間の心配もなくのんびりと読むのとは、実は本質的といっていいくらいに違うのが、試験の読解です。10分とか20分で読解して、設問に答えなければならないのです。そういう意味合いも含めて私は天声人語を取り入れたのです。とにかく時間を意識した読書として、天声人語の速読をしてほしい。そのためにはまず書いて、意味を調べて、内容を理解して、ということになります。わかりやすいえば、徹底して意味まで読み下した後で速読の練習をしなさいということです。
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