草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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竹の会の指導とは

2007年09月01日 01時03分06秒 | 
 竹の会は, 通常世間的にいう塾とは違うと思います。大手・中小の授業形式にしても個別指導方式にしてもいずれも竹の会の指導とは本質的に異なると思います。通常世間的な塾というものが共通に「教える」ということを本質とする限り竹の会は同じ範疇ではくくりきれないでしょう。極端な言い方をすれば「教えない」ということを本質とするといっていいかもしれません。「教えない」ということの意味は単純ではありません。よく「わからないときは, 教えてもらえるんですね」という母親たちの質問は母親たちが「塾とは指導するのではなくて結局はわかないところを教えてもらうところだ」という強い信仰の結果なのです。こういう信仰に支配された母親たちには竹の会の「指導」ということの意味はおそらく理解不可能かと思います。
 話は少し横道にそれますが, 竹の会には, パスポート・コースという時間フリーかつ全指導時間に出席可能(逆に出席しなくてもいい)とする指導システムがあります。時間フリーのコースですが,このコースの本領は長時間の継続指導にこそあります。その真価は長時間の継続指導においてこそ十分に発揮されるといっていいでしょう。
 なぜ長時間の継続指導が力を伸ばすのか。竹の会の指導の本質が長時間かつ継続指導を必要不可欠とするものだからです。竹の会の指導は家庭の勉強ではとても及ばない高度の指導を実現するものです。
 一つのことを考えさせるということは, 個人の能力を全人格的に把握し様々な視点から「今, 何が必要か」を判断し, なすべきことを理解させるべく, 様々な指示を義務として履修させるものです。たとえば計算は高度な形式思考を要します。もちろん計算の要領を会得する過程には形式的でない面もあります。しかし, 計算は見事に高度な形式的理解の作業です。
 とにかく竹の会では, 私が必須と判断した指示はその子の内面に同化されるまで徹底してやらせます。特に計算のような形式性の高いものの習得には理屈は不要です。
 ところで, 指導時間が短い細切れ時間の足し算にすぎないという状況は決していい結果には結びつきません。いつも双六でいうところの「振り出しにもどる」が繰り返されるからです。
 「考える」ということはどういうことか。
 ある一つのレジュメ問題を考えさせるとして, できれば次のステップへと進めます。が, この「できれば」というのがなかなか厄介なのです。もちろんできなければ, それはそれでさらに指導の攻め口を変えることになります。「なぜ彼らの考えが及ばないのか」私はいつも考えています。そしていつも様相の違う指導を試みます。なぜそのようなことをするのか。それは子どもたちが「問題を形式的に理解してしまう」天才だからです。子どもたちは, 問題を「形」でとらえます。私の敵はこれなのです。形でとらえる限り, 子どもたちはまだ理解していないのです。子どもたちは, 問題に対して形式的な反応しかしないのです。だから「できれば」というのがそれほど単純ではないのです。彼らは「問いの形式」が同じ限りきっと完全解答するようになるでしょう。彼らは「形」に対して, 形式的な問いに対して必死に答えようとしているのです。「何々の○%は何」という形式的な問いにはりっぱに正解を出せるのです。よく「かけるの」「わるの」と聞く子がいますが, 問いを形式的にとらえようとするあらわれです。
 こういう形式的理解の子どもたちは, 問いの形が変わるともう答えは出せません。つまり応用が全くきかないのです。
 私は, 彼らの形式的なものの破壊をいつも試みているのです。私の形式を変えた問いの数々は千変万化の様相を呈し, 形式に支配された子どもたちを翻弄します。千変万化の問いに見事についてこれたら, そのときこそその子の心の中にものごとのしくみの実質的なイメージができた証拠です。形式なものの世界から抜け出た証拠です。これが「考えることができる」ということです。実質的なイメージが心の中にあれば形がどんなに変わろうとも正解を出せます。
 形式的な理解で済まそうとする子をいかにして実質的なイメージをもった状態に導くか, これが指導の中核です。これが「指導」といってもいいと思います。子どもの心の中に実質的なイメージをつくる, そのために手段を尽くして様々な指導レジュメを作成するのです。同じ「形式」だとすぐに形式を覚えられてしまう。彼らは天性の形式的理解主義者なのですから。だから私のレジュメはいつも形を変えているのです。あるしくみの実質的イメージを形式と離れて心の中に構築すること, これが竹の会の指導というものです。
 こう述べてくるともうおわかりと思います。大手の問題集等は形式的理解の天才である子どもたちを形式の世界に塩漬けにするだけなのです。公文などは形式をコンクリートで固めるようなものです。
 子どもの示す形式なものをくみ取り, 真の実質的なイメージをつくりあげるべく導くことこそが指導なのです。
 竹の会の「指導」の意味が少しは説明できたでしょうか。私は面談などで私の考えがわからない母親や父親をよく失望させてきたと思うのです。特に塾というものを「教える」つまりは何か知識を与えて「もらう」ものという強い信念をもたれている親たちを納得させるのは至難なことです。答えは「教えてもらって, 説明してもらうもの」と考えて已まない親たちがいます。しかし, 竹の会は答えを教えることに拘泥はしません。それよりもなぜわからないのかと反問し, そのわからない原因を考えてその原因を解消するようにするのです。だから竹の会は「教えない」塾といったのです。
 わからない原因を尋ねるとそれは結局「考える」能力が育っていないからなのです。問題の解決は決して解き方を教えることではないのです。考える能力をなんとかひきだしてやるというのが「指導」だといっているのです。そして先に述べたように考えられない最大の障害が子どもたちの形式的な反応なのです。そして思考という内実を持たない子どもたちにとってはその反応が生存本能からでた自己防御であるということを理解しなければならないと思います。指導とはそういうことも踏まえて子どもたちの形式思考の障害を打ち払い子どもたちの心の中に実質的イメージを構築してゆくことなのです。
 竹の会の指導は全時間が継続したものとしてひとつの指導です。だから, 短時間の細切れ指導の寄木細工ではだめなのです。竹の会のパスポート・コースが竹の会の指導に必須というのはそのことを意味しています。パスポート・コースの完全出席こそが成功を確実にするものなのです。
後記 
久し振りに筆をとりました。帰京したばかりです。
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