草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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多数者と少数者

2011年10月22日 20時13分03秒 | 
 本日は朝から所用で動き回って夕方ようやく落ち着いたところです。今日はブログはお休みしようかなと思いましたが、子どもたちから聞いている熱心なお母さんやお父さんのことを思い、とにかく書くことにしました。
 民主主義ということに関連して少し思うところを述べてみようかなと思います。私が民主主義ということを学んだのは、やはり大学で憲法を勉強したときだったのかなと思います。私が学んだ頃の憲法学の教授は手島孝教授(現九州大学名誉教授)だったと思います。実際のところ憲法の試験で何が出たのか何を書いたのかさっぱり覚えていません。私はその頃むしろ東北大の清宮四朗の統治理論だとか、東大の宮沢教授の人権論、小林教授の憲法学、芦部教授の人権論などというものを夢中で読んでいたと思うのです。そういう中で民主主義というものが、多数決の論理をとること、その場合も少数者の意見を尊重すべきこと、いや民主主義というのは個人の尊重の思想だというようなことを学んできたと思うのです。今子どもたちは教科書に出てくる民主主義という思想をおそらくは本当のところは何もわからずに勉強することとなるのでしょうが、現実の政治ではいったいそんなものがあるのか、甚だ疑問なわけです。
 原発にしてもこれまで反対の人たちは少数者として異端扱いされてきた。裁判官の多数意見は常に原発推進であり、東大や京大などの日本のトップ大学の学者の多数、いやほとんどが賛成で占められていた。自民党にしても民主党にしても党の存在根拠が原発推進にあるかのようだった。経済界の多数も原発推進であり、官僚は原発推進のために税金を使って国民を洗脳してきたのである。このようにして作られてきた多数意見が決して正しくはなかったことを福島の事故は私たちに教えてくれた。
 多数意見であるから正しいということはなかったのである。いやむしろ多数意見というものが作られた多数意見であり、もともと正義などというものはそこには内在していなかった。「みんなが言うから正しい」と考えた国民は実は無関心な人たちではなかったか。少なくともものごとに対して意見が分かれるとき、多数意見とされる人たちほど問題に無関心な人たちはいないのではないか。少数者のほうが余程真剣にものごとを考えている。
 君が代で起立しない教師は異端な少数者とされる。多数の起立する教師が愛国心に満ちた教師なのであろうか。皆が起立するから自分も起立する、体制に逆らわない事なかれ主義の教師が愛国心に満ちているのであろうか。彼らは余程に無関心なだけなのではないか。自分の信念を貫き通す不起立の教師が教育的でないと罰せられるのが教育的なのであろうか。思想統制に従わない少数者こそ教育者の気骨を示したことにはならないのか。子どもに真の教育とは何か、愛国心とは何かを多数意見が説いているとは私にはとても思えないのだが。クラスで異端の子を村八分にする、弱い子を虐める、異端・少数者を認めないなどの子どもたちの風潮は、不起立の教師を攻撃する体制側の態度とどう違うのか。そもそも教育とは、自分の思うところ、信念を貫き通すことを賞賛するものではなかったのか。みんなと違うから差別する、多数と違うから排除する、そういうことを今の教師たちは実は実践しているのではないか。
 日本のみなさんが、少数の意見だからといって、ただそれだけで馬鹿にする、無視することをほとんど全国民レベルでやっていたのでは、民主主義というものはやはりないのだというしかありません。政治家や官僚たちは、福島の原発事故の被災者たちを少数者として切り捨てようとしてないか。大手メディアは今や政府に忠実な御用新聞と化し、東北や関東の人たちが被曝しても何の注意も警告も発しなかったのです。彼らも多数意見に従順な主体性の欠片もない、機関です。天皇機関説ならぬ新聞機関説です。福島やその近県、首都圏の人たちを放射能に晒したという意味では良心のかけらもない新聞です。少数者は切り捨てる新聞です。テレビだって同じです。テレビが流すどうでもいい天下太平な番組が世の中に無関心な多数の無批判な人たちを造り出していることにはならないのか。
 国家が、政党が多数意見だけを強行する社会が、どうして民主主義社会といえるのか。私の素朴な疑問です。
 いや日本の伝統文化を尊重しろという多数意見、地上波デジタル放送を推進せよという多数意見、私たちはさまざまな多数意見を無批判に受け入れてはいないだろうか。たとえば、多数意見が日本の伝統文化としてあげるものが、本当に伝統文化なのか、真剣に考えたことがあったであろうか。いつも無関心、無批判に多数だからというただそれだけの理由で受け入れてこなかったであろうか。官僚たちが立ち上げる国家事業が密かにこっそりと進められ、莫大な税金が使われても何もわからないようにできているシステムはいくら多数意見で作られた制度としてもおかしいと思うのが少数者である私の意見です。
 無関心、無批判な多数者となるよりも、私は真剣に悩む少数者でありたい。
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