草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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小5、小6という最も大切な時期をいとも簡単に悪魔に預ける親たちの心理

2015年09月23日 11時45分17秒 | 
 おはようございます。二日ほど休筆しました。少し仕事から離れる、するとまたいろいろなアイデアが湧いてくるようです。もうほんとうに秋なのか、確かめるように周りを眺める、周りの木々の緑の所々の黄と赤の変化、少し冷たい空気、肌にヒンヤリとそよぐ風、疑い深い自分がそれらひとつひとつを確かめるように確かめる。秋という季節の到来がひとつの区切りを知らせる。何かほっとした心、これから始まるのがこれまでの長い準備の期間の総仕上げなのだということがわかっていても緊張は日々強まる。
 心配もある。思うようにレジュメの進度を上げられなかった中学生、あきらかに勉強量不足の小学生。
 ただひとつだけうれしかったこともある。竹の会の小学生というのが、竹の会ではできないという小学生というのが、実は、他塾の子と比べると基本がしっかりとできていてむしろできる子の部類になるという事実である。そういえば、一年前に竹の会では指導が無理と退塾してもらった子が、他塾では算数がいちばんできたのだという話しを当の親御さんから聞きまして、改めて竹の会の子たちのすごさを知りました。
 竹の会では、ひとつの指導にこだわります。計算だってみな神の領域です。割合だけで1年近く鍛えて、神の領域になる。竹の会というのは、できなければ、さらに弱点を突くようにレジュメでいじめられる。わからなければ先へ進めない。割合というのは広い概念で、割合の概念から、その底にある単位あたりの概念を学び、そこから枝分かれする速さの考え方、単位の変換にかかわる縮尺など広範囲に思考を巡らせる。「割合感覚ドリル」、「算数の魁」、「思考の鍵」、「小学思考の素~割合問題編」、「新小学思考の素」、「小学思考の素~その他の問題編」、「推理の素」、以上、少なくともこれだけの割合にまつわるレジュメはこなさなければならない。さらに時間のある子は、「思考の源」、「1%下巻」、などなど永遠に続く割合レジュメ。
 大手、いや他塾では、既製のテキストの単元の一つとして割合を学び、それで終わりとする。
 そんなバカな、割合というのはそんなに浅い、簡単なものではない。
 これだけでも多くの小学生が割合というものをほとんど理解しないままに、理解したことにして、適性問題という、都合のいい、つまりあらが出てこないしくみの問題を解かせて、基本ができていないことは決して表面化しないように仕組まれているとしか思えない。さすがに中には漠然とではあるが、このままでいいのか、という不安を持ち始める親もいるようではあるが、結局は、直前対策という名の様々な、飛びつきたくなる講座メニューに騙されて、試験本番まで離れることはできない。
 このような中で合格する子というのは、つまり、割合という一単元で、2回、3回の授業で、割合を理解するほどの天分に恵まれた子以外はありえない。
 わたしは常々思っていた。大手に通う90%以上の子は相手にならない、競争相手ではない、そもそも受検ということからは脱落している子たちだと。
 小6の、もう仕上げという、この時期にきて、割合の基本の基本の問題も、解くことのできない子たちばかりだと。とにかく竹の会の敵ではない。
 かつて某大手に小5の子どもを通わせているという母親が竹の会に見学にきたとき、「○○の授業にはついていっている。全然心配していない」というような主旨のことを言っていたけれど、だれもが解ける、解きやすい問題を解いていれば、本人も親もストレスはないであろうけれど、小6の秋には帳尻が合わなくなることは目に見えている。実際の試験は難しい問題なのだから。そういうとき大手は必ずいろいろと目を引く特別講座というものを儲けて最後までカネをしぼりとろうとするであろう。
 わたしは大手というのは実に商売というか、取りこみがうまいと感心している。派手なパンフに、消しゴムや鉛筆、キャンディーなどをつけたビラ、無料体験講座など悪魔のささやきにも似た甘い勧誘にしか見えないのはわたしだけなのか。
 竹の会だと、割合のある問題が解けないとき、基本の仕組みに何度でも戻って、思考のステップを繰り返す。いったん解けたように見えても信用しない、何度も似たような、あるいは別の角度から、その理解が本物なのかを確かめる。大手なら、テキストの一単元のひとつとして割合の問題を終わらせる、おそらくは、解けない、それで講師が解き方を教える、きっとわかりやすく教えるのだろう、それで目を輝かせて「わかった」と言うのだろう。「あの先生は教え方がうまい」とか、「説明がわかりやすい」という、もっぱらそういう観点からの感想が親子で交わされるのもかもしれない。
 わたしから言わせれば、自分で考えて解いたのでなければ、つまり人の説明を理解したというのは、そもそもその理解そのものが怪しいのだけれども、全く思考形成ということに関しては意味のないものだということである。問題というのは、一度人に説明してもらったり、解説を読んだりしたら、もはやゴミである。
 自ら「解く」ことの積み重ねのみが、思考を作り上げて、いつしかタフな思考力へと仕上げていくのだということ、それは疑いのない真理である。
 よく中学2年生までは、学校の授業だけで、たとえば学年1番などという子がいるけれど、中3になったとたんに、学校の授業が難しくなること、V模擬という、それほど高いとも思えないのだけれど、入試基準の勉強を求められること、から脱落していく子がいるけれど、あるいは、中3になって成績が落ちるという傾向について語られることがあるけれど、それは高校入試というものがわかっていない素人の戯言であるということだけのことである。
 これなども先の大手の悪魔のカリキュラムと似たような、人の陥る錯覚を見事に表現した一例なのではなかろうか。
 小5という一番基本的なもの、つまり割合を通しての思考形成をしないままに、1年、2年を過ごすと言うことの意味は、たとえば、小6の終わりになって、ほんとうに簡単な、基本的な割合の問題さえも全く解けないということ、それは思考力そのものが形成されてこなかった、ということであるが、その意味するところは、これからの中学、高校の未来をすでにして予測させるほどに悲観的なものである。
 わたしは自分では「竹の会はすごい」などとは言いたくないけれど、またそういうことを言っても頭から信用しない親ばかりであるということは知ってはいるけれど、また、ほとんどの親たちが結局大手に吸い込まれるように子どもを預ける現実というものを見てきたけれど、それは竹の会の知ったことではない、人は人、勝手にどうぞ、と言いたくなるけれど、竹の会というものを理解してもらえない、一抹の寂しさは否定しきれない。
 竹の会というのは、たいていは5人もいれば多いという程度の塾でしかない。しかし、その中から、1年もすれば、早稲田進学会の模試で必ず上位に名前を連ね、公立中に行けば、トップクラスに位置し、いずれはトップ都立を伺うまでになる、そういう子が必ず出る、それが何を意味するか、である。
 竹の会の指導というものが、超一級であるということのささやかな証明であろう。
 大手の子たちが都立中をめざして、早くから大手で勉強してきたとしても、竹の会の子たちには決してかなわない。
 今年桜修館に合格した女子の学校では、桜修館を5人が受検して、落ちた4人はいずれも栄光ゼミナールという大手だったということである。
 竹の会の合格者は一人だけ、高得点で合格したのです。
 これが竹の会という塾です。
 大手の宣伝には正直歯が立ちません。おまけつきのビラを大量に配り、折り込み広告で誇大広告を喧伝し、ネットを開けば大手の宣伝が出る、しかも無料体験という甘い勧誘ととても太刀打ちできるものではありません。わたしには悪魔のささやきにしか見えない。
 子どもたちが1年も2年もいて、本当に簡単な割合の問題さえもひとつも解けない、それが甘い勧誘、美味しそうな様々な特別講座の内実なのではないか。
 わたしの言うことが誇張でないことは、現に子どもさんを大手に通わせている親御さんには実は薄々わかってきたことなのではないか。
 

  鬼押出から臨んだ浅間山
 
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