草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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納谷味先生 13

2010年03月29日 08時10分23秒 | 
 ゴホン、ゴホンとげんさんの咳がひどい。
 「先生、今度のかぜは長いですね。いやなにね、どうも咳だけが止まらねんで」とげんさんがぼやく。
 横で聞いていた迷羊君が心配そうに、「げんさん、無理をなさらないでください。」と気を遣う。
 先生は、困った顔をしながら、「屋根の修理はいつでもいいんですよ。げんさんの元気なときでいいんですから。」とめずらしく優しいことばをかける。
 「いいんですよ。今日は久しぶりのお天道様で、なにやらむずむずしましてね。それに先生の家にお邪魔して皆さんのお話しを聞くのが楽しみでね。」とげんさん、先生の優しいことばになにやら感動した面持ちだ。
 久しぶりに青空が広がる。待ち望んだお天道様が地上の生きとし生けるすべての生物にこよなく慈愛の光を差し注ぐ。納屋味邸の木々も万遍に差し注ぐ陽光に一斉に葉という葉を向けるのだ。葉は揺らぎその喜びを一心に表現する。
 ぼんやり庭を見ていた迷羊君が所在なげに口を開く。
 「先生、植物の葉というのは不思議ですよね。自分の今いる位置は絶対に自らは変えられない。そんな運命的な場所にいて、一心に葉という葉を太陽の光に向けようとする。太陽の光を直角に受けようとしている。そのために枝を伸ばす方向を変え、長さも変える。みんな生き延びたいというDNAのなす業なのでしょうか。」
 先生は、おもむろにほうじ茶を飲み干すと、話し始めた。
 「げんさんは知っていられるかもしれませんが、かつて宮大工として薬師寺の再建にあたられた西岡棟梁という方がいましてね。この方の口述筆記の本は感動的でした。」
 横からげんさんが眼を輝かせて「西岡棟梁なら、あっしの師匠がよく口に出していやしたから、知っています。最後の名人だったかもしれやせん人です。伝説の人ですよ。」と興奮気味だ。
 先生は頷きながら話しを続ける。
 「西岡棟梁はこのようなことを言っています。
  『木だって考えている。自然の中で動けないのですから、生き延びていくためにはそれなりに土地や風向き、日当たり、まわりの状況に合わせていかなければなりません。いつもこっちから風が吹いている所でしたら、枝が曲がります。そうすると木もひねられます。木はそれに対してねじられないようにしようという気になります。これが木のくせです。自然の木と人間に植えられてだいじに育てられた木では当然ですが違う。自然に育った木は強い。なぜ。木から実が落ちてもすぐに芽を出さない。いや、出せない。ヒノキ林には地面までほとんど日が届かん。種は何百年もがまんする。すき間ができるといっせいに芽を出す。何百もの種が競争する。それを勝ち抜く。だから、生き残った奴は強い木です。それから大きくなると、となりの木、そして風、雪、雨などなど。木はじっとがまんして、我慢強い奴が勝ち残る。千年経った木は千年以上を勝ち抜いた木です。』
 私はこの西岡棟梁のことばをそれは何度も反芻しています。
 『生きる』という営みに、植物たちはなんの迷いもなく全力を傾ける。生存する、種を残すということに、何の疑問も投げかけることなく一日一日にもてるすべての知恵を捧げていく。
 人間はどうか。人間には『心』がある。意志がある。意識がある。何の迷いもなくというわけにはいかなかった。散々悩んで考えた結果が何も考えない植物たちのする結論と変わらないということであってもだ。
 強い木が勝ち残るという。自然は冷酷、残酷に強いものだけを生きながらえさせる。これが自然の意志だ。人間はそのことを認めたくない。人間には知恵がある。だから、全体が生きながらえることができるという理想を思い描いた。人はいずれ死ぬ。人間はそのことを知っている。人間は死を意識界で認識することができる。意識のない動物が生存に向けて必死に行動するのは本能的に無意識的に死を意識しているのではないか。人の世の中は、人間の描いた理想のようにはいかない。それには食料が無限にあること、そして富が万人にいきわたる必要がある。しかし、未開発国の餓死は今では常態化しつつあるし、文明人が作った社会のしくみは様々な富の偏在、差別、優劣を生んでいる。
 人は『心』があるから悩む。植物と違って、自らの境遇を受け入れてなんとか生き抜こうということにはならない。『心』は境遇をうらみ、容貌に悩む。確率的に見ても、様々な人がこの世に生を受ける。恵まれた人もいれば、様々な運命を背負って生まれる人もいる。神の目からすればみんな当たり前のことであり、神は、強いものが生き残るという種の原理を冷酷に適用するだけだ。それが自然の摂理だとも言わんばかりに。人には『心』がある。この心はそうした原理をにわかには受け入れない。だから、『心』は苦しみ、悩み続ける。『勝ち残る』ということ、そうこの一点で人は様々に苦しむ。生まれたばかりの赤ちゃんの心、まわるい、まわるいふくよかな心。その心に母親のいっぱいの愛情が注がれ、心は愛情という必須栄養をたっぷりと吸収して育つ。これが理想です。子は成長する。しかし、それに見合って、『心』が成長していくとは限らない。大人になって、心はゆがみ、形がくずれ、アメーバのように形のない心だってある。心は顔に表われる。悪い顔というのがある。悪い心がそのまま顔に出てしまって表情を固定してしまっているんです。悩み苦しんだ人の顔には年輪を刻んだ皺がある。世の中の厳しさを生き抜いた年輪は厳しい表情ではあるが決して悪い顔ではない。植物と違って、人は共存するという宿命がある。勝ち残るのは、人類でなければならないという暗黙の前提がある。ある民族だけが、ある宗教民族だけが、勝ち残るということは、少なくとも、キリスト教世界では表面的には認めない。
 結局、勝ち残る、という宿命を暗黙のうちに認めた社会が人間の社会なのかもしれません。弱者を切り捨てる社会、見捨てる社会、それが人間の社会なのかもしれません。政治が強いものにいいように操られるというのも当然のながれかもしれません。」
 そこまで一気呵成にお話しされると、先生は急に寡黙になりました。
 黙って、熱く注がれたほうじ茶をすすり始めました。
 迷羊君がふと先生の顔をのぞきました。先生の表情は意外とさっぱりとしたものでした。しかし、悲しげな目はいつものようでした。
 先生の言われるように、強いものが勝ち残るということが、自然の法則なのかもしれない。しかし、その現実に先生は長く苦しみ悩んでこられたんだ。恵まれた境遇にある人が自分には関係ないこととして自分のことばかりを考えているのが今の社会なんだということを、先生は言われてるのだと思う。他人のことなど一切考えない、自分さえよければそれでいいという人間が世の中に蔓延している。そういう社会なら弱者に限らず世の中は秩序のない犯罪の氾濫した社会となるのであろうか。
 先生の悩みは尽きない。私は最近になってようやく先生の悲しそうな目の意味するものがわかりかけてきたような気がします。
 先生が愛する庭の木々をじっと眺めているだけで、何か自然の啓示を受けているような気さえしてくるのです。先生がいつも植物をそれも一心に陽光を浴びている植物の姿をじっと見入っているのには深い理由があるのだとということがわかってきました。


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