◎今週から, 塾の指導周期が正常の周期となり, また読書と思考の時間がとれるようになって, うれしく思っています。ブログを毎日執筆するのはたいそうきつい仕事なのですが, 私の拙い文をたくさんの方が読んでくれていると思うと書かずにはおれません。この1週間はブログランクがほぼ5000~6000番のあたりに定着していて, なにやら今までと違って, 書くことに目に見えぬプレッシャーをひしひしと感じています。とくに閲覧者数が1000を越したあたりから, 緊張するようになり, これでは自由に書けないと反問しています。
今日紹介する「心の指導-指導ができない子」の項は, 今読み返してみるとかなり辛辣な表現が目立ち, 驚いています。今の私の指導観をふまえてやや修正しながら, 加筆訂正しましたが, それでもかなりきつい内容となってしまいました。またまた世の母親の皆さんに叱られそうです。
◎「心の指導」加筆訂正版「指導ができない子」
ところで, 江崎博士は最近の日本の若者について, 習得型という, 興味ある指摘をしていますが, 実は「探求型」の教育ということに関しては, 同じノーベル賞受賞者の利根川先生が, 早くから, 『日本の学問はものを「習う」習得型で, 何か新しいことに挑戦するという探求型の教育をうけてこなかった』ということを指摘をしていたのです。
私が大手の進学塾に通っている児童を指導した経験では, パターン化した問題だとやたら速く解けるが, 未知の問題に出会うとほとんどなす術をもたないという点で恐ろしいほど一致していました。なによりも, 考える意志がまるっきりなくなってしまうというのが, 驚きでした。挑戦して考えるという意志は皆無でした。パターン化問題だとどんなに難しくてもなんとか答えを出そうとするのにです。
日本は習いたがる文化・風土の国という指摘は, 大手進学塾に通うある種の子たちにぴったりあてはまるような気がします。この「習いたがる風潮」が, 世の親たちの観念形成に深く影響を及ぼしている気がしてなりません。わかりやすく懇切丁寧に教えてくれる塾が一番いいと信じて疑わない, 半ば信仰に近い親たちに, 竹の会の指導理念がどこまで通用するのかというと甚だ悲観的にならざるを得ません。
ところが,幸いにも竹の会の私の指導理念にごく少数ですが, 理解を示してくれる 人たちが, いました。そしてそういう人たちが少しずつですが増えてきたのです。かつては竹の会を批判的に横目に見ながら, 大手に流れる人が多かったと思います。しかし, 徐々に竹の会を支持する人たちが増えつつあることはうれしい限りです。竹の会は少数の竹の会の指導を信頼した人たちを確実に成功させるということを地道に積み重ねてきました。そういう積み重ねの結果が, 次第に理解を示す人たちを増やしつつあるということなのではないかと思っています。
「習う」つまり「教えられる」ことに熱心だった親たちが, 大手に走ってどれだけ成功を収めたのか, 知る由もありませんが, 竹の会には昔から, いったんは大手に行ってはみたが, 結局うまくいかなかったという人たちがかなりやってきます。そのことから推してそういう人たちが, 大手で成功したかはかなりに疑問があります。
多くの成功を収めた竹の会の会員たちが現在の竹の会の信頼の礎を築いてきたのです。
さて, 本論のテーマである「指導ができない子」について, 論を進めたいと思います。
私は, 竹の会の指導を通じて本当に様々な子どもと接する機会をもってきました。その中で私を悩ませてきたのは, 指導そのものができない子たちの存在でした。指導が私の意図するとおりに進められないということは, 不幸にも, 竹の会を失意のうちに去るほかないということでした。
指導ができない原因について。
通常は, 「能力」です。最近の私の研究は, この指導できる能力の下限をどこまで下げられるかという点にあげて向けられてきたと思います。具体的には, 割合の観念を理解して, 独立飛行できるということを指導の成功と想定して, そのための指導技術を工夫・研究してきたのです。その結果, それまではあきらめていたレベルの子たちの多くを救済することに成功したのです。しかし, それでも救えない子たちがいるということは, それが現実世界だというだけのことです。
ところで, 指導ができない原因というのは, 能力もさることながら, それ以上に, 深刻な原因というのがあるわけです。
能力的には全然問題がないのに, 指導が不可能なケースがなんと多いことか。逆に, 多少能力に問題があっても, 驚異的な努力で成功するケースも少数ながらありました。
さて, 別の要因とは何なのか。
私はその原因のほとんどの場合が, 親とくに母親に起因していると思っています。
指導のできない状況というのを, 現象面で指摘しますと, 次のようなことになります。
・すべてにいい加減である。
・長続きしない。
・自分勝手で人の指示に従えない。
多少説明しておきますと, いい加減というのは, たとえば, 教材をよく失くす, プリントを整理して保存できないといったようなことです。また, 指示に従えないというのは, 子供の中には, 延々とおしゃべりを止められない子というのが必ずいます。長続きしないということは, そのために騒ぐ, まわりにちょっかいを出す, ノートなどに落書きをして遊ぶ等々のことです。
最近は, まともに字を書けない子が増えています。これは長じて, つまり中学生になってまともにノートを作れないということで, まず挫折しますが, それよりも小学生では, 昨今公立中高一貫校がブームですが, 字が汚い, ノートがとれないという子は, ほとんど作文や国語に問題があるようですから, ここからも, やはりまずいと思うのですが。
小学1年や2年では, まず「ゆっくりとていねいに」字を書かせて, 正確に漢字を書けるように練習させることのほうが, 余程大事で将来の役に立つと思うのですが, 昨今は, あれこれと習い事に夢中で, そちらは軽視という親があまりにも多いように思います。英語は習わせても, 国語は放っておくというのはどうしても私には理解不能です。
さて, 指導ができない子を作るのは, 親です。特に, 日常もっとも子供と接する時間の多い母親の影響力が絶大です。
ここで「指導ができない子」という問題提起は, 「親の甘え」という論点にいきつくと思います。
「懇切丁寧に教える」ことがいい指導だと信仰する親は, 実は子供をダメにする親なのではないかと思うのです。
それは, 子供に無条件に甘えを許す親であり, そういう親の体質は教育には害悪です。そういう親は, 子供が「わからない」といえば, すぐに「教えなければ」と短絡します。子供の甘えには実に寛容な姿勢が貫かれ, 指導する側にはそれをカバーする「厳しい」注文がなされます。今度は, 親が指導する側に甘えるのです。子どもの甘えをそのままカバーしてくれることを胸を張って求めてくるのですから, 学校の先生も大変だと思います。昨今の塾の有り様もこういう風潮に敏感に反応しています。そもそもが塾は営業目的なのですから, そういう親たちの言い分をそののまに受け入れ従順です。昨今流行りの個別指導型の塾なんかはその代表例でしょう。
親自身が, 毅然とした教育理念をもたなければ, どうして子どもを導けるでしょうか。父も, 母も, 信念をもって子どもの甘えを底なしに受け入れるのではなく, 毅然とした態度が求められているのではないでしょうか。
「教える」という理念の底には, 甘え容認という大河が流れています。教えることがかえって子どもをダメにするのだということを入試の失敗でしか悟れないのはあまりにも悲劇的であり, 悲し過ぎると思うのです。
◎後記
「心の指導」は平成9年11月に発刊したものです。裏表紙には, 「母親必読」とありますが, 今読み返してみると, どうも母親論の様相が濃い。これは世の母親の皆さんから, どうも一斉反撃を受けそうです。ただ, 今竹の会に子どもさんを通わせている母親の皆さんは, みな竹の会を信頼されているのが前提なのですから, 私は, 竹の会のよき理解者として考えていますので, どうかご容赦ください。
小6も, 今日を含めて残すところ2回の指導です。いままでご苦労さまでした。また, 竹の会をずっと信頼されてくださったことを心より感謝申し上げます。
今日紹介する「心の指導-指導ができない子」の項は, 今読み返してみるとかなり辛辣な表現が目立ち, 驚いています。今の私の指導観をふまえてやや修正しながら, 加筆訂正しましたが, それでもかなりきつい内容となってしまいました。またまた世の母親の皆さんに叱られそうです。
◎「心の指導」加筆訂正版「指導ができない子」
ところで, 江崎博士は最近の日本の若者について, 習得型という, 興味ある指摘をしていますが, 実は「探求型」の教育ということに関しては, 同じノーベル賞受賞者の利根川先生が, 早くから, 『日本の学問はものを「習う」習得型で, 何か新しいことに挑戦するという探求型の教育をうけてこなかった』ということを指摘をしていたのです。
私が大手の進学塾に通っている児童を指導した経験では, パターン化した問題だとやたら速く解けるが, 未知の問題に出会うとほとんどなす術をもたないという点で恐ろしいほど一致していました。なによりも, 考える意志がまるっきりなくなってしまうというのが, 驚きでした。挑戦して考えるという意志は皆無でした。パターン化問題だとどんなに難しくてもなんとか答えを出そうとするのにです。
日本は習いたがる文化・風土の国という指摘は, 大手進学塾に通うある種の子たちにぴったりあてはまるような気がします。この「習いたがる風潮」が, 世の親たちの観念形成に深く影響を及ぼしている気がしてなりません。わかりやすく懇切丁寧に教えてくれる塾が一番いいと信じて疑わない, 半ば信仰に近い親たちに, 竹の会の指導理念がどこまで通用するのかというと甚だ悲観的にならざるを得ません。
ところが,幸いにも竹の会の私の指導理念にごく少数ですが, 理解を示してくれる 人たちが, いました。そしてそういう人たちが少しずつですが増えてきたのです。かつては竹の会を批判的に横目に見ながら, 大手に流れる人が多かったと思います。しかし, 徐々に竹の会を支持する人たちが増えつつあることはうれしい限りです。竹の会は少数の竹の会の指導を信頼した人たちを確実に成功させるということを地道に積み重ねてきました。そういう積み重ねの結果が, 次第に理解を示す人たちを増やしつつあるということなのではないかと思っています。
「習う」つまり「教えられる」ことに熱心だった親たちが, 大手に走ってどれだけ成功を収めたのか, 知る由もありませんが, 竹の会には昔から, いったんは大手に行ってはみたが, 結局うまくいかなかったという人たちがかなりやってきます。そのことから推してそういう人たちが, 大手で成功したかはかなりに疑問があります。
多くの成功を収めた竹の会の会員たちが現在の竹の会の信頼の礎を築いてきたのです。
さて, 本論のテーマである「指導ができない子」について, 論を進めたいと思います。
私は, 竹の会の指導を通じて本当に様々な子どもと接する機会をもってきました。その中で私を悩ませてきたのは, 指導そのものができない子たちの存在でした。指導が私の意図するとおりに進められないということは, 不幸にも, 竹の会を失意のうちに去るほかないということでした。
指導ができない原因について。
通常は, 「能力」です。最近の私の研究は, この指導できる能力の下限をどこまで下げられるかという点にあげて向けられてきたと思います。具体的には, 割合の観念を理解して, 独立飛行できるということを指導の成功と想定して, そのための指導技術を工夫・研究してきたのです。その結果, それまではあきらめていたレベルの子たちの多くを救済することに成功したのです。しかし, それでも救えない子たちがいるということは, それが現実世界だというだけのことです。
ところで, 指導ができない原因というのは, 能力もさることながら, それ以上に, 深刻な原因というのがあるわけです。
能力的には全然問題がないのに, 指導が不可能なケースがなんと多いことか。逆に, 多少能力に問題があっても, 驚異的な努力で成功するケースも少数ながらありました。
さて, 別の要因とは何なのか。
私はその原因のほとんどの場合が, 親とくに母親に起因していると思っています。
指導のできない状況というのを, 現象面で指摘しますと, 次のようなことになります。
・すべてにいい加減である。
・長続きしない。
・自分勝手で人の指示に従えない。
多少説明しておきますと, いい加減というのは, たとえば, 教材をよく失くす, プリントを整理して保存できないといったようなことです。また, 指示に従えないというのは, 子供の中には, 延々とおしゃべりを止められない子というのが必ずいます。長続きしないということは, そのために騒ぐ, まわりにちょっかいを出す, ノートなどに落書きをして遊ぶ等々のことです。
最近は, まともに字を書けない子が増えています。これは長じて, つまり中学生になってまともにノートを作れないということで, まず挫折しますが, それよりも小学生では, 昨今公立中高一貫校がブームですが, 字が汚い, ノートがとれないという子は, ほとんど作文や国語に問題があるようですから, ここからも, やはりまずいと思うのですが。
小学1年や2年では, まず「ゆっくりとていねいに」字を書かせて, 正確に漢字を書けるように練習させることのほうが, 余程大事で将来の役に立つと思うのですが, 昨今は, あれこれと習い事に夢中で, そちらは軽視という親があまりにも多いように思います。英語は習わせても, 国語は放っておくというのはどうしても私には理解不能です。
さて, 指導ができない子を作るのは, 親です。特に, 日常もっとも子供と接する時間の多い母親の影響力が絶大です。
ここで「指導ができない子」という問題提起は, 「親の甘え」という論点にいきつくと思います。
「懇切丁寧に教える」ことがいい指導だと信仰する親は, 実は子供をダメにする親なのではないかと思うのです。
それは, 子供に無条件に甘えを許す親であり, そういう親の体質は教育には害悪です。そういう親は, 子供が「わからない」といえば, すぐに「教えなければ」と短絡します。子供の甘えには実に寛容な姿勢が貫かれ, 指導する側にはそれをカバーする「厳しい」注文がなされます。今度は, 親が指導する側に甘えるのです。子どもの甘えをそのままカバーしてくれることを胸を張って求めてくるのですから, 学校の先生も大変だと思います。昨今の塾の有り様もこういう風潮に敏感に反応しています。そもそもが塾は営業目的なのですから, そういう親たちの言い分をそののまに受け入れ従順です。昨今流行りの個別指導型の塾なんかはその代表例でしょう。
親自身が, 毅然とした教育理念をもたなければ, どうして子どもを導けるでしょうか。父も, 母も, 信念をもって子どもの甘えを底なしに受け入れるのではなく, 毅然とした態度が求められているのではないでしょうか。
「教える」という理念の底には, 甘え容認という大河が流れています。教えることがかえって子どもをダメにするのだということを入試の失敗でしか悟れないのはあまりにも悲劇的であり, 悲し過ぎると思うのです。
◎後記
「心の指導」は平成9年11月に発刊したものです。裏表紙には, 「母親必読」とありますが, 今読み返してみると, どうも母親論の様相が濃い。これは世の母親の皆さんから, どうも一斉反撃を受けそうです。ただ, 今竹の会に子どもさんを通わせている母親の皆さんは, みな竹の会を信頼されているのが前提なのですから, 私は, 竹の会のよき理解者として考えていますので, どうかご容赦ください。
小6も, 今日を含めて残すところ2回の指導です。いままでご苦労さまでした。また, 竹の会をずっと信頼されてくださったことを心より感謝申し上げます。