草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

竹の会という塾のこと 1

2013年08月31日 10時40分26秒 | 
 お早うございます。昨日は酷暑でしたね。みなさんはきっと勉強がんばっていることでしょう。わたしは夏の指導が終わった翌日からずっと9月からのみなさんの指導に備えての仕事に追われています。夏は指導のない日には、次の指導に備えてのレジュメを準備することで時間はなくなり、新しい創作の時間はほとんどとれませんでした。それでもみなさんの指導から得たアイデアはたくさんあり、それが9月からの指導に生かせると思います。
 子どもたちからもらった暑中お見舞いのはがきはとても心温まるものです。
 昨日は2通がきました。1通は今年小石川に合格した女子からでした。「毎日がとても楽しいです」、「慌ただしい日々を送っていますが、とても充実しています」など簡潔ですがわたしを安心させる言葉でした。
 共に竹の会の日々を過ごしたのは、平成24年3月から25年の1月まででした。11か月でした。学校のトラブルに巻き込まれているとそれとなく親御さんからお聞きしていましたが、よく困難を乗り越えて、秋からの指導は二人三脚のように息が合ってわたしの指導についてきてくれました。秋には悩み相談もしてくれてわたしに心を開いてくれました。話を聞くうちにわたしが涙ぐんでしまったのを覚えております。彼女はなによりも竹の会のある日を楽しみにしていたとお父さんのメールにはありました。竹の会のある日を大切に思い何よりも優先したいと言っていたそうです。合格した日、わたしに彼女は直接電話をしてくれました。きっと自分の声でわたしに伝えたかったのだと思います。その彼女が「毎日がとても楽しい」といってくれているのですから、これほどうれしいことはありません。
 もう一通は、塾の子からでした。「竹の会に入会してから今まで以上にとても勉強が好きになりました」と書かれてありました。なにか心和む手紙をもらってそれだけで酷暑の中で仕事をしていてうんざりしていた気分が吹き飛んでしまいました。「夏休みの七時間も短く感じもっとたくさんやりたかったです」とありました。「勉強が好きになった」のなら当然の思いでしょうね。小4の中には辛そうにしている子たちもいましたが、勉強が好きになりきれない幼さというものがあるのでしょうか。
 竹の会ではまず7時間を普通にこなせることが第一歩のような気がします。平成10年頃の夏は、「噂の10時間指導」などと体験談にもありましたが、朝9時から夜8時までやりました。回数も25回でした。当時はレジュメ指導ではもちろんありませんでした。あの当時は竹の会のテキストと過去問をコピーしたものを使って指導していた時代です。子どもたちは指導の度に例えば「慶応高校平成○年度問題」をコピーしてもらい解いていくのです。解けないところはわたしが解説して子どもたちはまとめていくのです。こうして1枚2枚と解いていった過去問もいつしか電話帳のような厚さになっていきます。秋にはそういう電話帳が2冊も3冊にもなるのです。慶応高校、早稲田、開成などの問題を過去10年分以上それは何校分も解いていくのです。当時の指導法というのはそういうものでした。わたしも子どもたちが「わからない」という問題をつきあって解いていくものですから、いつしか首都圏の主立った高校の問題はすべて解き尽くしてしまいました。これは中学受験の時も同じで小学生の場合は「わからない」がほとんどですから、わたしはとにかくいつも過去問ばかり解いていました。まだレジュメ指導という究極の指導法が「ない」時代の竹の会のお話でした。
 「竹の会って塾なんだけど、塾じゃないんだよね。何なんだろう」。塾のお母さんからいただいたメールにありました。もちろん子どもさんの言葉です。
 1年前の2月前後に十組以上の親子が見学にきました。あのとき、つまり2月に入会した子というのは、今2人いますから、結局ほとんどの親子は見学しただけだったということになります。その2月に入会試験を実施することを決めて準備にとりかかったのを覚えています。巷の塾のスタイルを一般的なものと考えていると竹の会というのは全くへんてこな怪しげな塾という風に見えたのかもしれません。ただそういう偏見とは全く無関係に竹の会を評価して入会してくる人たちが昔からいたのも事実です。そういう親御さんというのは、やはり信念みたいなものがあってとにかく迷いというものがありませんでした。
 ここでわたしの性格というものも少し吐露しておくことにします。わたしは「去る者は追わぬ」人間です。巷の塾というのは「止める」というと、必死になってあれやこれやと止めないように策を講じるのだそうです。まさに「塾は商売だった」ということを自ら証明してくれるわけです。信じられないですね。「やめる」という人間の意思はだれにも邪魔できないものですし、またその人がどうするかはその人の自由な判断の問題でしょ。
 わたしのこの性格は、実は指導において顕著です。わたしは子どもが勉強熱心なほどわたしも指導に熱心になります。しかし、子どもが勉強から気持ちが離れていけば行くほどわたしの気持ちも冷めていくのです。わたしはそういう子を説得して勉強に気持ちを向けさせると言うことは決してしません。長い間に「勉強する意志」というものは他人の説得でどうにかなるものではないということを何度も経験してきたからです。まるで磁石のようですね。
 真摯に勉強したいという人間ほどわたしは身を投じてその子のために心を砕きます。だからいくらできない子でも熱心に勉強する意思がある限りはわたしもなんとかしようと必死になります。もし勉強する意思が希薄というのであればわたしの心は一気に離れると思います。
 これは普段の指導でもいろいろなところで出ていると思います。よく考えもしないで出してくる子にはやはり厳しいことを言います。中学生だとどんな理由であれ「勉強しない」というのはやはり受け入れられないですね。騒ぐ、おしゃべりをするなどというのは正直わたしの心が離れていくということは知っておいてほしいと思います。あと白紙で出すというのが、わたしにはかなりのショックなんです。白紙答案についてはいろいろ考えさせられます。実力が現実とかけ離れているといことなのかと思いますが、その子の勉強に対する意思力の問題も垣間見える気がするのです。「強い意思」、「合格したいという意思」の欠如を感じてしまうのです。
 子どもの勉強に対する態度、スタンスがわたしにはいちばん心的なインパクトを与えるようです。だから夏の指導でも7時間黙々と勉強している子たちというのはわたしの心を洗うとともに、わたしのさらなる指導の大きなエネルギーになるのです。
 

 今日も暑くなりそうです。
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