草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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能力の開発

2008年09月26日 12時11分28秒 | 
 今日は朝から突如として突風が吹いたり, 湿っぽいやや生暖かい微風が吹いたりと落ち着かない。低気圧の影響だろう。どんよりとした曇り空だ。
 読書の秋というが, 漱石の「心」を読んでいる。読まなければならない本がかなりある。飽きたときに読んでいた佐伯さんの本は読みすぎて飽きてしまった。月に1回出る新刊も最近は出来がよくないようだ。書店チェックは欠かせない。様々な新刊をチェックする。この時期だと, 過去問集の新刊もチェックする。新視点の出題をチェックすることが多い。それなりの学校だと「よく工夫」された問題が多い。そういう問題を改変して難易度を下げながら, 思考力を培う問題にすることが多い。子どもたちのなかには, ごく普通の文章で書かれた意味さえも, 読み取れない子も少なからずいる。意味の認識が全くできないのだ。文章では, 例をあげて説明している。そして, その例から, 推して問題を考えさせるという親切な問題だ。しかし, その親切もまるで通じない。考えてみると, そういう子は, 国語の読解もまったくできない。ことは算数だからというわけでもない。国語では, 「問いに答える」ことが大切だ。ところが, 大半の子どもは, このへんのところがかなりいい加減だ。「らしき」ことを書けば後は採点する人が意をくんで善意に採点してくれると思っているようである。算数なんかでも, あの短い問題文を実にいい加減にしか読まないで問われてもいないことを平気で答えとして書いてくる子がいるわけである。何が聞かれているのかは何も考えていないようである。食塩水の濃度の問題で「どちらが濃いいか」と聞かれているのに「○%」などと書く。読解ができない子には算数の割合を理解させるのは実はそもそも無理な相談だったかもしれない。国語の読解問題にすべて的外れな答えとおぼしきものを書いているうちはだめだ。急を要するのはむしろそちらの指導ということになる。文章が読み取れない子はやはり頭のはたらきが悪い。漢検3級くらいとっている子はたいてい読解もすぐれていることが多い。しかし,例外もいる。文の読みが粗い, 浅い, 雑ということが, 一つの問題である。読解できないということは, 読み取りが主観的であり, 一面的であり,偏見に満ちているということである。意味の認識がほとんどできないということである。意味の認識というのは, かなりに抽象的な精神作用である。算数や数学などでも, ある文字や記号を使うことがあるが, このときこの記号などに一定の意味を付与すると, それからの思考はその記号がそういう与えられた意味あるものとして認識しながら, 読み進めてあるいは考えていかなければならない。ところが, この意味の認識がつまりは記号と意味の分離を前提とした「そういうもの」という結びつけながらの推論ができないわけである。これはかなりに高度な精神作用である。中学生でも, 方程式で, 脚の数をxとして, 1脚に4人ずつ座ると4xとなるが, 4xは人数という意味付与なのに, 4x-xなどとやる。xは長いすの数という意味付与であるから, そういう計算はできない。子どもたちにには, なんでもいいから, ○なら○に何かを意味付与した場合に, その○について思考を積み重ねるということが, なかなかできないわけである。考えみれば, 算数のさまざまなしくみにしても, 結局は, 意味付与認識能力ということに帰着する。とすれば, このへんの未分化なところを重点的に訓練できるような指導を工夫することが必要と思われる。算数もそうだが, 数学などは一定の仮定から理論を立てていくわけであり, 高校数学になるとさまざまな新概念が仮定のもとに構築されてくる。こうして子どもたちにいかにして物に付与される意味の操作思考を取得させるかが私の課題となる。そういうわけで最近の私はまたまた悩みをかかえて苦しんでいるわけである。いつも「できない」子どもたちの存在が新しい指導法の発見のきっかけを与えてくる。
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