草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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専門家という名のど素人

2015年04月08日 09時33分26秒 | 
 おはようございます。今日は真冬に戻り朝8時でも4℃です。明日はもっと冷え込むそうで雪の情報もあります。わたしの記憶ではかつて5月の連休で軽井沢に行ったときに大雪で慌てたことがありました。子どもに夏の服装をさせていたので。
 季節外れの雪とかもあっておかしくはない。人間というのはいつも自然に翻弄されながら結局自然にまかせて生活していくしかない。
 さて、今日は指導日です。16時開始ですが、15時から教室に入れます。
 このところかつての静寂が戻ってきつつあります。喜ばしいことです。
 先日は、妻の母が顔に赤い発疹が出たので早速近くの皮膚科に行ったらしい。最近買った化粧品が怪しいのでそれを持っていたら、その医者はそれには目もくれないで、「原因はわからないが、治すことはできる」と言って、薬を処方してくれたそうです。それでその処方箋をもって薬局に行き、例の化粧品を見せたら、「これ化粧品じゃありませんよ。洗顔剤ですよ」と言われて、よく見るとそう書いてあった、ということで、お粗末な話でした。
 そもそもこの医者には、原因を探索しようという気が最初からないというのが驚きで、患者の訴えにもまるで注意を払わず、注意力、観察力も劣化甚だしきものがある。とにかく薬を処方するというのが、恐ろしい。
 アメリカでは、日本以上に薬漬けの国民たちが、薬に殺される様相だが、日本の薬で解決という医師の定型化行動は、思考なしのロボットと変わらない。
 よく街の内科医院に通って、なにもしなくていいと言われ、結局手遅れになったという話を聞くけれど、町医者を信じるのはあまりにも無謀だ。
 「なんちゃって」内科、「なんちゃって」外科というのをご存知であろうか。
 「内科なんちゃって」、「外科なんちゃって」というわけである。日本では、医師免許があれば、何科を看板にしてもいいことになっている。もちろん内科やったことがなくても内科やりたければ内科はやれる。ただし、2週間ほどの研修は受けるであろうが。
 実は、大学病院では外科手術を訓練してきたけれど、開業したので「内科」も掲げたという類いである。こういうのを「なんちゃって」内科というらしい。患者が症状を訴えてきても正直何もわからないのである。日本では製薬会社が「これがいい、あれがいい」と新薬を次から次に勧めてくる。それでその効能書きをそのまま信じて患者に出す。内科は薬さえ出しておけばいいとくらいにしか考えていない医者がはびこっている。
 薬というのは、特に、「効く」薬というのは、効くだけにその反面の毒性も強い。薬というのはもともと毒である。毒の強さを薬と称して使っていると考えてちょうどいい。
 わたしは全く信用していない、あのインフルエンザワクチンは、卵の殻に針の穴ほどを開けて、ウィルスを入れ、その穴をふさいで培養する。あとで洗浄するというけれど動物性タンパク質が人間の脳に微量でも入り込むわけである。いやウィルスをホルマリンで殺したものをワクチンにしたものは、ホルマリンが脳に入り込むことになる。こんな恐いものをよく体内に打ち込むものだと思う。
 インフルエンザで注意しなければならないのが、解熱剤をのんではいけない、ということである。大量死で有名なスペイン風邪は実は普通のインフルエンザにすぎなかった。しかし、死者の多くは兵隊が占めている。兵隊たちは当然のように解熱剤のアスピリンをのんでいたのである。今でも解熱剤と併用して脳症を起こしたケースが複数報告されている。インフルエンザが恐いのではなくて薬が命を奪ったのである。
 日本のように国策としてワクチンを国民に強制する国家もめずらしい。ワクチン接種で開業医の懐に入るカネはボーナスということか。
 日本のように教養の高い国民を誠にうまく洗脳して操る国家も特異なのか。ドイツでは福島の事故を教訓に原発廃止を決定したけれど日本は福島県一県に放射能をまき散らしてもまだ原発を続けるという決定に国民が寛容なのには驚かされる。
 所詮国家というものは国民を騙すものである。決して真実を語らないのが国家である。善良な国民はいつも犠牲になって死んでゆくしかない。
 国民の寛容がどこまで寛容であり続けるのか、ここという限界点に達したとき、わが日本の良識ある国民が「ノー」という決定をくだすことになるのであろうか。そのときに民主制が、選挙が機能していることを祈るほかない。
 「ノー」という限界点が、日本の領土の半分が喪失したときだなどとは考えたくない。
 わたしは専門家などというものを信じないことにしている。民事畑が専門の弁護士が、刑事裁判をやるはめになる、検事上がりの弁護士が損害賠償請求訴訟をやる、これはど素人に頼むのとあまり変わらない。特別法になると、もう法律の専門家などといっても何も知らないから、ネット検索や書物で調べるわけで、素人とやっていることは変わらない。自分の詳しい分野以外はみなど素人ということである。これは医者も弁護士も同じである。電気系統の故障と思い込んであちこちの高価な部品を変えさせて、結果原因は水道管のパッキンだったということもあった。何百円で済んだものが、電気の専門家に頼んだら、何万円も払って治らなかったというお粗末な話である。
 もちろんその道の専門家というものが、少数であるけれどいることは知っている。
 ただよくテレビでやる、あの神の手の医師が、神の手を使って手術をした結果、全く痛みが改善しなかった、いやむしろひどくなったという話を聞いた。その名医は「手術は成功した」と言って、そのあとのことは知らないという態度だったという。
 が、これはそういう手術でなおす事例ではなかった。要するに、誤診して手術したのである。いくら手術が神の手でも原因を見誤れば意味がない。神の手以前に、神の診断こそが必要であった。
 日本人は、神の手と言われる人が言えば、100%正しいとしてしまう。が、専門家というのは、ほんの一部の専門家だということを忘れてはならない。
 教育の専門家なら、教育のどんなことも専門家と信じるのは勝手だが、そんなバカなことはありえないことは、まともな人ならわかることである。
 よくテレビで弁護士が法律以外のことにいろいろコメントを求められて述べているけれど、これはテレビ局が弁護士ならすべてのことに高い知見をもっていると前提して、コメントを求めているのかも知れないが、そうした様々な分野の専門家が決して人生の達人ではありえないことはあたりまえのことではないか。
 そもそも自分のほんとうの専門のところであればあるほど、いろいろな可能性が見えてきて、軽々に判断できないものである。ところが、専門外のことになると、選択肢は1つあるかないかなので、かなりに大胆に、明快な判断をしてしまう。医者や弁護士が、一義的な、明快な判断をしていれば、どうもこいつはど素人なのではないかと疑ってみるのがいい。東電の技師なんかが、知らないことを明快に「ない」などということこそ怪しいのである。
 福島県で放射能の影響による甲状腺癌の兆候は「ない」などと医師や教授が、言い切ることこそ疑わしい。
 専門家というのは、針の穴程度のエリアの専門家にすぎないのである。
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