草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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蟻(アリ)型か, キリギリス型か

2008年06月14日 09時26分45秒 | 
 標題は「うさぎとカメ」でもよかった。しかし, これではどこやらの受験専門誌にあったので, まぎらわしいから, やめた。
 童話の「ありとキリギリス」はよく知られている。「うさぎとカメ」の話もそうだ。後者は「慢心を戒める」ということであろうか,
それとも「こつこつ努力を続ける」ことの推奨であろうか。前者のアリは勤勉実直ということなのか。キリギリスはまじめではなかったということなのか。童話の戒めは込められた意味がそれなりに意味深げだ。現代社会の人間の生きざまが, そのまま童話の戒めどおりというのも, なにやら簡単すぎていいのかという感じがする。昭和から平成へと時は遷っても人間の根本は変わっていない。天保の改革の頃, 飢えに苦しんだ農民たちは, 社会制度のゆえにとまで考えたかどうかは知らないが, このところの日本の状況も破綻した江戸幕府の台所と似たり寄ったりか。長らく自民党と官僚の政治がいつしかほしいままに愚直な人々を苦しめる。選挙という選択で人々が選んできたのは, 「安定」ということなのであったと思うが, 安定に胡坐をかいていたら, 知らぬ間に政治が浸食し腐敗していたということなのか。マックス・ウェーヴァー(1864-1920)の『官僚制』には官僚政治のもたらす腐敗の必然性がすでに既に100年以上も前に語られている。現代人の思考と行動の様式が「徒然草」の時代の人々と似たり寄ったりだというのも驚きだが, 1000年たっても人間の考えることはなにも変わっていないのか, 不思議な感動に襲われる。
 さて普段は書かない世情についてつい話を踏みこませてしまったが, 最初の話題に戻ると, うさぎやキリギリスというのは, かなり頭がいい奴ということなのではないか。あるいは要領がいい。また自分勝手だともいえる。キリギリスに支配されたありたちの社会が現代の社会に重なる気もする。制度を作って制度の上に胡坐をかくのが政治家や官僚ともいえる。さて, いよいよ私の専門の話。こどもたちにも実はあり型とキリギリス型がいるということ。そして童話さながらにキリギリス型の子どもは戒めを受ける。能力があるということは, 「慢心」へと進み易い。心は隙間だらけといってもいい。うさぎの油断が, キリギリスの不真面目さが忍び込むに十分に子どもたちは幼い。現代の子どもたちは, 失敗するということに不慣れだ。挫折をひきずる。自尊心は聳え立つ。カメに負ける, ありに負けるということがうさぎの自尊心をねじ曲げる。子どもを指導するということは, 子どもたちのうさぎ的な心を, キリギリス的な芽を戒めることでもある。純粋に能力のゆえにできないのではなく, 真面目に勉強しないという性向のゆえにできないのであるとしたら, ここは厳しく指弾する。子どもの心に弱い衝撃を与える。野球に夢中になる。サッカーに夢中になる。あるいはゲームに夢中になる。中学生だと部活に夢中というのもあるがこれはまた一考することもある。勉強以外のことに夢中になる。脳の求めるものが享楽的なものでくくられるとすればこれらは同類項であろう。小学生くらいだと勉強が楽しいものだなどというはずもない。勉強というものが, 享楽という概念とは対立する側にあることは間違いなかろう。それで楽しくないものはやらないということになる。さっぱりやらないが, 親がうるさいので塾にくるという子どもも中にはいるかもしれない。しかし, 竹の会は少なくともそういう子どもは受け入れたくない。ある程度までは様子を見る。それで見込みなしと判断すれば退塾をお願いすることになる。
 さて, こういう心的傾向の強い子どもたちがどのようにして勉強に気持ちを向けさせるのか。子どもが自ら「受験したい」と望む場合は, 少なくとも子どもの心は勉強に向いている。こういう場合は指導がしやすい。4年生くらいだとまだ母親のいうことを素直に聞く。指導もしやすい。これが5年くらいになるとどうも定まらない。勉強以外の楽しいことに心は向きっぱなしかもしれない。受験といっても現実感が当人にはつかめない。親もまだ1年先のことという油断がある。だがこの油断も致命的なものになることが多い。子どもが家庭で勉強を一切やらなくても塾に行っているのだからと安心して不作為を決め込むのはやはりまずい。小学生というのは特にまだ幼い依存心の強い段階にある子は, 親が細かにみてやらないとなかなかやらないし, 放っておくと何もやらないでうさぎを決め込むのは目に見えている。
 母親や父親の行動を物真似するのが幼い子どもの処世だ。尊敬する母親のすることを真似するのはしごく当然のことだ。知らず知らずのうちに子どもは真似しなくていいところをこそ真似するようになる。読書をしている親の姿が実は子どもに「本を読みなさい」という以上に強く影響を与えているのではないか。尊敬する親のように「なりたい」と子どもはいつも思い続けている。だからほんのちょっとした親の何気ない仕草や行動が子どもに見えない影響を与えている。子どもは親のたてまえを鋭く見抜く。塾の先生というのは, そういう様々な家庭環境にある子どもたちを相手にしなければならない。必ずしも勉強に気持ちが向いていない子どもたちを勉強に集中させるべく心を砕く。そういう方向にもっていくべく心を砕く。
 あるときカメ型の子どもが, 予想もしない成果を出すことがある。それは塾の先生にはこのうえない喜びである。「わからない」を繰り返しこつこつ言われたことをやってきたカメ型の子どもに「できるようになった」という喜びが宿るのを垣間見たとき, ふとした幸福感が私を襲う。日々の指導の一コマ一コマに見られる私のささやかな喜びの一瞬かもしれない。子どもたちがうれしそうに成績表を見せにくるとき, 私は子どもたちといっしょに喜ぶ。心から祝福と感謝の気持ちでいっぱいになる。
 そしていくら待っても勉強するという心の見えない子どもが竹の会を休まずに熱心に来ることだけはわかっているけれど, 私の心はブルーのままに満たされない。学校の先生は放棄できないが, 塾は基本的には報酬を戴いて一定の結果を出すという契約に規定されている。結果とは必ずしも成績に限られず, 勉強するという姿勢や心のありようなども塾の果たす成果に含まれる。他塾のように成績だけを結果とは思わない。勉強に心がむくようになったというのも竹の会では結果である。
 さて話がまだるこしくて申し訳ないが, 今年は受験の6年生が少なく思わず4年5年で埋め尽くされようとしている。また募集の外であった中学生の問い合わせが多く私を慌てさせている。特に5年生くらいだと, まだ勉強に心ここにあらずという状態で, 指導も彼らの都合待ちというところがある。だからこのところ何度教えても「忘れる」という事態が席捲する。このところ大声を出すことが増えてきたかもしれない。去年は一度も大声を出したこともない。何も言わなくても子どもたちは無言で無心に指導に従っていた。今年は手強い。
 
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