草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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受験でやってはいけない2つのこと

2008年06月12日 09時09分06秒 | 
 今日は雨模様である。夏の予定を出してしまったので, これから指導内容の細部を詰めていかなければならない。夏の教材の製作もこれからだ。 大半を自ら制作する。竹の会の子どもたちは大手のように能力別に分けるという方法をとれない。もし能力別に分けるとすると, 結局子どもの数だけクラスがいることになる。能力別というのは, 能力の高い子がいることが前提のクラスわけである。つまり能力の低い者を弾き出して純粋に能力の高い子だけのクラスを作り効率的な指導を可能にするための方法である。同じ説明をしても, 能力の高い子は一様に理解する。しかし, 能力の低い者は10人いたら10種類の説明が必要となる。能力の低い者に1種類の説明をしても, わかるのは1人いていいほうだろう。つまり能力別編成とは能力的に下位の子を排除するやり方なのである。能力的に劣る子は, クラスまとめての横並び授業そのものが無理なのである。だが, 大手では営業優先だからそれをやるしかない。竹の会は能力的には大手になじまない子ばかりだ。
 先ほど能力別編成で弾かれる子といったが, 能力の低い子ばかりが弾き出されるわけではない。中には能力はあるのに大手の効率優先のやり方につぶれる子もいる。つまり能力は高いのに能力的に「ダメ」と烙印を押される子もいる。竹の会はおそらく大手なら弾き出されてしまう子たちが大半であろう。必然, 竹の会の指導は個別的な指導にならざるを得ない。つまり1人1人を徹底して個別化して指導していく。それぞれに理解力に千差があり「まとめて」の指導が不可能だからである。竹の会では大手で能力があるのに弾き出された子や大手でもやっていけるくらいの能力の高い子もくる。そしてそのすべてにおいて個別的なその子ども個人の資質と能力をにらんでの指導がほどこされる。真に能力が高ければ都立西にも受かるし, 慶応早稲田にも受かる。竹の会の指導は決して結果において大手に引けをとることはない。そういう子たちの能力を引き上げるという手法においては竹の会にすぐるところはないと思っている。大手では能力外通知をされる子が竹の会ではどんどん成績を伸ばしていく。大手にこのノウハウはない。というか構造的に不可能である。
 しかも, 竹の会の合格者は合格後の成績が抜群にいい。ただ受かるだけではなくて入学後の成績でトップクラスをとる子が多い。実例はいくらでもあげられる。ただ合格しただけでその後の成績はさっぱりという大手の合格者に見られる傾向とは一線を画する。これは「思考」を育てる指導, 集中力を重視する指導という竹の会のもたらすなにやらの結果なのであろうか。いやそれだけではない気がする。大手で育った子は自分と同じような能力の子たちの自分がその一部という意識が強い。そのため自分がその中に埋没してしまいがちだ。多数の中の一部分という意識が次第に努力するという気持ちを消失させる。ところが竹の会で育った子はもともと孤立している。1人合格者なのである。そのため他に影響されることもなく孤独に勉強することができる。実は孤独こそ勉強の真理なのである。
 竹の会の指導の核は, 集中と継続と長時間といえる。この核を実現したのがパスポートコースである。竹の会では昭和60年に開設以来存在したコースであった。当初は一部の人しか利用しないマイナーなコースであったが, 竹の会の一流校合格者はそのマイナーなコースの出身者で占められた。そのため年月が経つにつれて次第に竹の会のメインコースへと成長していった。パスポートコースは竹の会の精神を体現する孤独のコースなのである。
 さて, また前置きが長くなってしまった。今日のテーマは「受験ではやってはいけない2つのこと」と題して書くことであった。
 結論からいえば, 1つは「勉強における完全主義・完璧主義の排除」(ちなみに「完璧」の「璧」の字を「壁」と書かないように。老婆心です。), 2つ目は「途中で方法を変えるな」ということである。2つ目に上げた命題は, 実は哲学者デカルトの「方法序説」の中に出てくる。私は何度も反芻するようにその論文を読んでいる。岩波文庫から出ているので興味のある方はどうぞ。受験生にわかりやすくいえば, 一度やりとおすと決めた参考書は最後までやりとおせということである。途中で自分の持っているものよりもずっといいものが出てくるかもしれない。あるいは友達のもっている参考書に目を引かれるかもしれない。それでも途中でそれを変えてはならない。1冊の参考書を真にマスターするには10回以上読まなければならない。その途中でその方法を変更してはならないということだ。デカルトは結局途中変更してみても新しい方法がもたらす恩恵よりもそれまでの方法がもたらす結果成就の方が早いということを論理的に弁証する。そしてこのデカルトの弁証は私の経験に照らしても絶対的に指示できると考える。
 1つ目の勉強における完全主義ということについては, 多くの優秀な受験生たちが陥りやすい方法の誤りである。そして一旦この虜になるともうその心はマインドコントロールされ脱却するのは至難である。呪がかかった状態である。完全主義の人は参考書の1から10までを律儀に読んでいく。よく書店で1冊の本を平積みした中から選ぶのに1冊1冊傷がついていないか調べて選んでいる人をみかける。たいてい司法試験とかを受けている人だ。いつしか完全主義の病魔は内容から形式的な媒体にまで及び内容の手段にすぎなかった本の体裁までも完全でなければならないとマインドコントロールされる。目的よりも手段の完全性に進む。角を矯めて牛を殺すの類である。 諺はいつも真理を突いている。完全主義に対峙するのは不完全主義ではない。これこそが私の主張する「急所を押さえた勉強」である。急所を押さえるというとき, 他の急所でないところはどうするのかという問題がある。ずばり「無視する」。これが急所論の真骨頂である。よく中学入試や高校入試の市販テキストなどを見ると重要知識が網羅的に拾い上げられている。これだけ重要知識が多いとそしてすべてが平等に重要度が高いとするとこれはもはや能力破壊である。受験のテキストというのはその意味でまずい。急所だけを集めた参考書というものが多いからだ。重要知識をまとめた一覧表などというものも実は脳に害がある。急所を示すべくまとめあげられた参考書が網羅性のゆえに何が急所なのかということを曖昧にしてしまう。一覧性の知識は害となる。急所は実はシンプルであり, 1つないしは多くて2つしかない。どんな知識だってそんなものだ。
 生物分野を学ぶのに20種類もの植物を識別できるまで覚えるという勉強方法が決して脳にいいものとは思わない。私なら「サクラ」1つにしぼり, 花のつくりを徹底して理解する。つまりここでの急所はサクラのことについていろいろな角度から知りつくすことである。人間の頭は多数の知識を一度に理解吸収するようにはできていない。1つの知識について1つの思考しかあてられない。10人の話を1度に聞き分けるというようにはできていない。2つのものを比較するというのは有効だが, これも1つのものを理解する限りにおいてである。3つの比較, 4つの比較と次第に増えていくと理解も曖昧になっていく。だから比較表も理解の一助にしかならない。比較表を覚えるなどというのは無謀である。
 そういうわけで私は特に小学生に理科や社会を指導するのに私の急所論にのっとった1つの知識に1つの急所というコンセプトで臨みたい。
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