草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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余白の愉しみ

2008年04月26日 11時42分55秒 | 
 塾の指導は通常日程になると月・水・金が原則となる。1日置きというのは私には次の指導を充実させるために必須のリズムである。何拍かおかないとどうもアイデアが浮かばない。指導というのは後の反省が次の指導の糧となる。ゆっくりとその日の指導の実際を反芻する。するといろいろと不備な点が見えてくる。それでこの次には「こうしよう」「ああしよう」といろいろな思いが湧いてくるわけである。これが夏期などになると連日の指導ということになるのでいったん決めた指導の内容・方法はとにかくそのまま維持される。ゆっくりと思考をはさんで次の一手ということは不可能である。私には一日の休み(これを仮に余白と呼んでおこう)は日々の指導に欠かせない。
 考えてみれば, 余白というのは人間の心を楽にする。びっしり書き込まれた参考書よりも余白のある参考書のほうが頭がリラックスする。人間はリラックスした状態のほうが頭に入り易い。余白があって内容に過不足がないというのが私にとっての良書だ。余白は「余地を残す」という気楽さがある。なんでもかんでも最初からがっちりと決められた知識というのは頭を固くする気がする。融通がきかない。幅がない。「これしかない」というのは窮屈すぎる。私は指導レジュメに「余白の精神」をうまくもちこめればと考えるようになった。ひとつの「しくみ」を理解させる。その指導には常に余白の精神をもちこむ。子どもを追いつめない。追い立てない。ひとつ与えて, 一拍おく。子どもの頭の中に広がる衝撃がおさまるのを待つ。子どもの頭の中には, つまりは認識ソフトがない状態だ。だから新しい知識を簡単には受け入れられない。そこで子どもの頭の中に認識の枠組みを構築していく。分数の計算を反復やらせる。これは分数という認識回路を無意識にまで定着組み込ませる意図だ。去年はこの後私の図解レジュメを認識の枠組みとして使った。しかし, 認識枠組みの成功率は10人中3人くらいか。認識に成功したというのは, 慶応レベルの算数問題に互格に立ち向かえるようになった状態をいう。まるっきり認識失敗というのが10人中2人は必ずいる。これは俗にいう能力的限界ということである。仮に私の説明が100%「わからない」という事態であれば, 能力的なものを考えるしかない。私が今思案しているのは, この認識枠組みをさらに確実に子どもたちの頭の中な構築する方法である。できれば機械的に分数の計算をこなすと似た取得法を思案している。それが今試作中の「分数の本質」を徹底して勉強させる方法である。とにかく分数については完璧というくらいにどっぷりと漬からせたい。いわば「分数思考」というのが今の私の指導テーマである。といっても先の10人中の2人が救えることはおそらくない。私は10人中8人の認識成功をめざしている。
 指導とは新しい知識を子どもたちにどう認識させるかである。そのために様々な認識のための前準備を試みるのである。日々の指導がそういう認識過程の実践という意味合いをもっているのだということを理解してもらえればと思う。あることを「わかった」という域にまでもっていくために様々な指導を展開しているのだということを。それこそが竹の会の指導の真実なのだということを。よく見学者が「どのようにやっているのですか」と質問するが, これには短答に答えられるものではない。答えは不可能である。説明も不可能である。ある「しくみ」を認識させるのにその準備的な様々な指導を展開する。しかし, そのひとつひとつをとってみればそれは他愛のないことかもしれない。そしてその過程の中の1つの指導の事実を紹介してみても, 「なんだ」と思われて終わりである。私は私の指導の結果「慶応の過去問」を解けるようになっているその姿をこそ見てもらいたいと思うのである。しかし, おうおうにしてたいていの見学者はその慶応の過去問が解けるようになった子どもを見てもともと頭のいい子でしょとしか思わない。竹の会が指導を重ねてきた結果だとは思わない。しかし, こうした指導の結果「合格した」という事実こそが私の指導の正しさの「証明」である。だから私は私の方法を口酸っぱく説くことはない。説明してわかってもらえるものではないからだ。合格こそが竹の会のような小塾が世間に認めてもらう唯一の証明手段なのである。そして私は私の指導を黙々と実践するばかりである。そうすることがいつも合格という結果を自然ともたらしてきたからだ。
 認識枠組みの設定をどうするか。これが私がいつも頭を悩ませていることだ。そして私を今支配するものそれが「余白」のもつ素晴らしさである。
 余白というが, たとえば車のハンドルには「遊び」といって少しくらいハンドルを動かしてもタイヤの動きに直結しないという幅がある。これがないと少しハンドルを動かしただけでタイヤの向きが変わる。これは不注意が本性の人間を見越したなんともすばらしい「遊び」でないか。実は社会のいたるところで人間はこの「遊び」を活用している。人は余白を見てホッと安らぎを覚える。私などはある種の専門書を読むことも多いが, 余白があり内容の質が保たれている本が好きである。完璧なぐらいに知識が満載でびっしりと書かれた書物には「余白」がなくリラックスできない感じがある。知識が多いところで安心するか, 知識量ではなくリラックスできる「余白」で安らぎを覚えるか。安らぎは思考の忍び入る余地を残してくれる。知識も連続的に与えると「余白」のないものとなる。子どもの心に「余白」を残しつつ指導できればといつも腐心している。認識枠組みのないこども頭を意味もなく追いつめる愚だけは避けたい。
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