新国立競技場で下村文科相が、「これでいく」と断言した後、安倍総理が「止めた」と言ったら、下村もそれが当然のように「止めた」と言ったときの顔が見事に無責任であった。
最近は、ぶれる人間があたりまえの世の中である。なにしろどんな社会になるのか、世の中はめまぐるしく変化を続け、技術も日進月歩、社会環境も激変していく。これだけ流動的な社会になると、人は、よほどの柔軟な頭を備え、様々な価値観を備えて、対応していかなければ、ということになろうか。
これの意味するところは、つまりは、自分の価値観を持ってはならない、自分の信念を持ってはならない、自分というものをこれだと決めつけない人間の増殖ということにならないか。フィーリングが合う、合わない、とかいうことをよく言いますけど、これなどは、自分の中に多くの価値観を用意していて、それに合う、合わない、と言っているわけです。
こういう心理構造の中に隠れているのは、ズバリ責任意識の欠如です。責任をとりたくないという意識が常に働いている、ということです。
もうひとつ、テレビなんかを見ていると、アナウンサーやキャスターという人たちは特になめらかな話し方をします。耳障りがいい言葉が流れる。
毎日のようにかかってくる勧誘の電話の主もなんとも軽い、軽薄な言葉を並べ立てる。
こういうのをなめらかな言葉というらしいのだけれど、ある人は、こういうなめらかな言葉には、実は、相手をないがしろにしたところがある、と本質を突いている。
もともと「なめ」という語は、岩場の、いつもぬるりぬるりとしてすべりやすい所を「とこなめ」といい、これから、「なめらか」ができた、という説明がある。
つまり、ぬるりぬるりとすべる態度、これは折り目正しい態度の対極にある、というのである。
もともと官僚制というのは、無責任の構造を本質とするが、つまり、だれも責任をとらない構造というのが制度として罷り通っている。福島の原発事故の責任をとった官僚も、政治家もいない。裁判官も責任なしである。もちろん東電の役員も責任なんかとらない。川内原発に関しては、はっきりと安倍内閣は責任は九電がとる、と言っている。積極的に引っ張っていながら、責任はとらないと公言しているのである。規制委も曖昧な発言に終始する。つまり、何が起きても、だれも責任はとりませんよ、と言っている。
若者はKYなどと言うが、それも周りの空気に合わせる、つまりは自分というものを主張してはいけない、その代わりだれも責任はとらなくていい、ということである。
大手塾のパンフなんかを見ていると、このなめらかな話術と同じ臭いがしてならない。
わたしが腹立たしく思うのは、大手に1年も2年も通っているのに、実は、ベタな割合の問題も満足に解けないままに、そして見事に、そのことが露見しないような仕組みになっていることの理不尽だ。
そういうなめらか構造に見事にひっかかる親御さんには気の毒としか言いようがないが、これまでわたしが会った、大手に通う子どもたちは、割合のイロハ、単位あたりのイロハもできていなくて、ましてや思考力などありえない子たちばかりであった。1年、2年かけてそういう子たちを培養するというのは、なんとも恐ろしいことではないか。
竹の会では、例えば、割合の基本問題ができなければ、はっきりとその事実を親御さんにも本人にも告げる。こういう正直なことをすると、実は竹の会を逆恨みし、悪感情を持つ親御さんもたまにいる。ヒステリックな親である。大手のように、調子のいいことを言って、ごまをすればいいのだけれど、わたしはそういうことは性に合わないから、はっきりと言う。それで恨まれる。
しかし、考えてれば、これほど正直な塾はないと思う。できないことを伏してできないままにカネだけとって通わせるなどということを良心からできないと言っているのだから。
ところが、世間というものは、そういう塾ほど疎まれて、偽物でも「なめらかな」言葉を言う塾ほどもてはやされることになっている。
そういう調子のいい塾が、実は、いちばん無責任な塾なのだということが世の親、特に母親たちにはわからないのである。
伸びる見通しもないのに、何とかなるようなことを言って、引っ張る、引き留める、というのは、無責任以外のなにものでもない。
世の中は、無責任が氾濫している。
ぶれないということの裏には、不器用な話し方という裏には、きちんと責任をとる、という意思があるのではないか。
信念のない政治家が、ころころと態度を変えるのを見ていると、正直心は暗い。
最近は、ぶれる人間があたりまえの世の中である。なにしろどんな社会になるのか、世の中はめまぐるしく変化を続け、技術も日進月歩、社会環境も激変していく。これだけ流動的な社会になると、人は、よほどの柔軟な頭を備え、様々な価値観を備えて、対応していかなければ、ということになろうか。
これの意味するところは、つまりは、自分の価値観を持ってはならない、自分の信念を持ってはならない、自分というものをこれだと決めつけない人間の増殖ということにならないか。フィーリングが合う、合わない、とかいうことをよく言いますけど、これなどは、自分の中に多くの価値観を用意していて、それに合う、合わない、と言っているわけです。
こういう心理構造の中に隠れているのは、ズバリ責任意識の欠如です。責任をとりたくないという意識が常に働いている、ということです。
もうひとつ、テレビなんかを見ていると、アナウンサーやキャスターという人たちは特になめらかな話し方をします。耳障りがいい言葉が流れる。
毎日のようにかかってくる勧誘の電話の主もなんとも軽い、軽薄な言葉を並べ立てる。
こういうのをなめらかな言葉というらしいのだけれど、ある人は、こういうなめらかな言葉には、実は、相手をないがしろにしたところがある、と本質を突いている。
もともと「なめ」という語は、岩場の、いつもぬるりぬるりとしてすべりやすい所を「とこなめ」といい、これから、「なめらか」ができた、という説明がある。
つまり、ぬるりぬるりとすべる態度、これは折り目正しい態度の対極にある、というのである。
もともと官僚制というのは、無責任の構造を本質とするが、つまり、だれも責任をとらない構造というのが制度として罷り通っている。福島の原発事故の責任をとった官僚も、政治家もいない。裁判官も責任なしである。もちろん東電の役員も責任なんかとらない。川内原発に関しては、はっきりと安倍内閣は責任は九電がとる、と言っている。積極的に引っ張っていながら、責任はとらないと公言しているのである。規制委も曖昧な発言に終始する。つまり、何が起きても、だれも責任はとりませんよ、と言っている。
若者はKYなどと言うが、それも周りの空気に合わせる、つまりは自分というものを主張してはいけない、その代わりだれも責任はとらなくていい、ということである。
大手塾のパンフなんかを見ていると、このなめらかな話術と同じ臭いがしてならない。
わたしが腹立たしく思うのは、大手に1年も2年も通っているのに、実は、ベタな割合の問題も満足に解けないままに、そして見事に、そのことが露見しないような仕組みになっていることの理不尽だ。
そういうなめらか構造に見事にひっかかる親御さんには気の毒としか言いようがないが、これまでわたしが会った、大手に通う子どもたちは、割合のイロハ、単位あたりのイロハもできていなくて、ましてや思考力などありえない子たちばかりであった。1年、2年かけてそういう子たちを培養するというのは、なんとも恐ろしいことではないか。
竹の会では、例えば、割合の基本問題ができなければ、はっきりとその事実を親御さんにも本人にも告げる。こういう正直なことをすると、実は竹の会を逆恨みし、悪感情を持つ親御さんもたまにいる。ヒステリックな親である。大手のように、調子のいいことを言って、ごまをすればいいのだけれど、わたしはそういうことは性に合わないから、はっきりと言う。それで恨まれる。
しかし、考えてれば、これほど正直な塾はないと思う。できないことを伏してできないままにカネだけとって通わせるなどということを良心からできないと言っているのだから。
ところが、世間というものは、そういう塾ほど疎まれて、偽物でも「なめらかな」言葉を言う塾ほどもてはやされることになっている。
そういう調子のいい塾が、実は、いちばん無責任な塾なのだということが世の親、特に母親たちにはわからないのである。
伸びる見通しもないのに、何とかなるようなことを言って、引っ張る、引き留める、というのは、無責任以外のなにものでもない。
世の中は、無責任が氾濫している。
ぶれないということの裏には、不器用な話し方という裏には、きちんと責任をとる、という意思があるのではないか。
信念のない政治家が、ころころと態度を変えるのを見ていると、正直心は暗い。