草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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一心に思う

2007年07月18日 10時29分10秒 | 
 竹の会では, 中学入試に出題された国語の文章から傍線やら記号やらを取り除いた上で「読解百選」として提供しています。これは一重に会員のみなさんの読解に資するためです。家庭での特に「音読」をしてもらうためです。大人がよくやる黙読ではダメなのです。
 次の引用文はウィリアム・W・アトキンソン著(翻訳ハーパー保子)「THe Power of Concentration」の一節です。
「音読すると, 読んでいる内容を覚えやすくなると同時に< 黙読からは生まれ得ない分析能力が生まれるからです。目はページの上を走り, 退屈な部分は飛ばし, 危険なところはさっと通り過ぎるでしょう。しかし, 耳にはすべてが入ってきます。耳は省略ということをしません。耳は目など及びもつかない, 繊細にして鋭敏な, 洞察の器です。目を向けながら気づかずに通り過ぎてしまった言葉も, 声に出して読めば大きな意味を帯びてくるのです。」
 この本はさらに「はるか昔, 知識や経験は, 口から耳に伝えながら受け継がれてきた。」こと, 「音読すると分析能力が生まれ, 言葉の意味が頭に焼きつけられる。」ことを力説しています。
 突然, 翻訳物の引用で申し訳ありません。私は, 商売柄様々なタイトルの本を読むわけです。塾とは無縁のように思われるそれは様々な本を読みます。それで得られるものは実はほとんどないのようにも思えるのですが, そういうことが習性のようになってしまったわけです。様々な専門的な書物にも手を出すのですが, 今ではどんな権威が表した専門書よりも入門書レベルで優れたものが実は真理を理解しやすいのだと思っています。またまた商売柄で申し訳ないのですが, 毎日朝は「朝日新聞」にさっと目を通すわけです。そのときに情報を手に入れるわけです。毎日新聞のニュースマガジンなどを年間購読で申し込んだりしているわけです。あるいは隔日で渋谷のブックファーストや紀伊国屋書店を巡回しているわけです。店内の専門書コーナーと学参コーナーは必ずチェックするわけです。たとえば, 紀伊国屋の方が, 過去問集は充実しているとか, しかし, 入荷はブックファーストの方が早いとか, ブックカバーはブックファーストの方が紙が固く丁寧だとかとにかくTVチャンピオンとまではいかないがかなりに熟知しているわけです。あるいはアマゾンで情報をよく入手するわけです。つまり情報にはかなりに投資しているわけです。竹の会は小塾です。それに何々協会という塾の団体にも入っていません。あちこちの団体からよく入会を勧める案内がくるのですがどうもつるむのが嫌いでだめなんです。また大手のように集めた資金で情報にふんだんにお金を使うこともできません。それで日々情報入手に個人的に奮闘しているわけです。大手と違って過去問でも実際に自分で解きますし, 1冊1冊本は読みますし, 情報は確実に咀嚼しているつもりですけどね。
 さて「音読」の話しが脱線してしまいましたが, 実は先の本を引用したのは, 私自身が高校時代に現代文を得意としていたこと, そしてその原因は毎日教科書を何回も何回も声が枯れるまで音読したことにあるのではないかと思っているからです。よく小声でぼそぼそと読んでいる子がいますが, それではダメです。大声で自分の耳に聞かせてあげてください。同じ文章は頭の中に意味が同期されるように感じるまで繰り返し読んでください。これを休まず毎日続けてください。音読をいい加減にしないでほしいのです。その効果にいつかびっくりすると思いますよ。
 中学のころの私は思い返してみると, なにやら心はいつも何かに囚われていたのではないかと思います。無垢で無知でただ学校の成績で1番をとったというそのことがただただうれしかったのです。狭い視野で狭い世界を見ている自分にまるで気がつかないのです。小学校高学年の頃は学校図書館から毎日1冊借りてきていろいろな本を読むようになりました。家には本らしい本は1冊もありませんでした。図書カードがはんこで埋め尽くされて2枚目3枚目と新しいのに変えられました。それがとてもうれしかったのです。今考えれば小学生でよくあれほど読んだなと思います。近頃の子どもは本を読まないといいます。親がポンと高価な本を子どもに買い与えても子どもはそれを自慢げに見せびらかす程度の使い方しかしません。子どもは自慢が好きですからね。本を読みたいという切実な気持ちはないのですから。テレビやゲームなど昔とは比べものにならないほど進化してしまいましたから 本などに見向きはしなくなったわけです。人間の頭の中には「ことぱ」のみが入り込むことを許されているというのに。そのことばを高度化させることが実はもっとも大切だと思われるのに。
 実は私は高校に入っても自分の狭い世界の中でもがいていたのです。進学校に進んだ私は入学試験の成績がよかったというのでいきなりなにやら委員に任命されたりして期待も大きかったのだと思います。しかし, 私は勉強を放棄してしまったのです。軽症の不登校でした。週に3日は休みましたからね。某大学受験のとき, 年間の欠席が多すぎることを面接で問いただされました。高校の勉強は実質すべて独学でした。ずいぶんと回り道をしてしまいました。いつも思う心は一つでした。「旧帝大に入りたい」「私を苦しめるわけのわからないものから決して逃げない」。一心に思うこと, そしてそのためにいつかは素直に頭を垂れて一心に勉強しなければならないと思いました。一心に思い続けて勉強をしました。旧帝大に合格したときから また一心に思い始めました。私はいつも一心に思い続けてきました。
 一心に思い続ける気持ちを子どもたちにも持ってほしいと思っているのかもしれません。それが竹の会の私の指導の場面場面に現れてきて子どもたちに私の喜怒哀楽がそういう現れ方をしているのかもしれません。
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