草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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◎小説「納谷味先生の独白」(7)訂正版

2010年03月02日 12時52分58秒 | 
本日は記事が書ききれずに, 2つに分割されています。
さらに遡ってご覧ください。


◎小説「納谷味先生の独白」(7)訂正版


 「先生、あっしら貧乏人には死ねということなんですかねー。」
 ゲンさんの声がする。ひょいと庭を覗き込むと、ゲンさんが日あたりのいい縁側で茶をすすっている。ゲンさんは先生出入りの大工さんだ。
 私は、庭の木戸をくぐると、「先生、こんにちわ。ゲンさんどうも。今日はいい天気でよかったですね。ゲンさん、もう終わったんですか。」と声を弾ませる。
 「いや、なに先生にちょっといじってくれといわれて、気に入ってもらえたかどうか。」とゲンさん、謙遜気味に返事をする。
 先生は、ボーッとして顔でお日様を満喫している。機嫌はいいようだ。
 「迷羊さんは、先生の一番弟子ですかね。いやあっしも、京都の宮大工としては名の知れた棟梁の下でなげーえこと修行をしてきましたが、宮大工のする仕事も段々と減ってきまして、飯を食うためとはいいながら、建売りなんかの仕事の手伝いみたいなことをするようになりました。近頃の若けぇー連中なんかは、ろくに仕事も覚えねぇーで、高給ばかりをとりたがる。ろくな技術も身につかねぇーままに、建売りなんかの仕事をする。お上のやることは貧乏人をいじめるばかりで、あっしらの生活も毎日を食べるだけでやっとってとこでさあ。うちのかかあなんかは子供の教育とかに夢中で家の中にあっしのいるところはねえですよ。あっしが病気にでもなれば、いつホームレスになったっておかしくねえってーのに。ときどきこのまま死んでしまったほうが楽なんじゃーないのかなんて本気で考えたりしまっさー。」
 ゲンさん、今日は元気がない。また、おかみさんと喧嘩でもしてきたのだろうか。
 「ゲンさん、どうしたんですか。いつものゲンさんじゃーないですよ。それに私は、先生のお弟子さんというわけではありませんし、・・・」と後の言葉を濁す。
 先生が口を開いた。
 「職人が仕事を覚えるというのはそれは大変な修行がいったらしい。昔気質の職人は決して弟子に教えることはしなかったと聞いています。弟子は親方の技術を見よう見まねで盗むしかなかったんです。こうして、親方の真似をしているうちに、自分なりに技術を身につけてくる。それには十年、二十年とかかるわけです。簡単に口で教えられるほど易しい技術じゃーないんですよね。木の癖、年輪、使われている釘の鉄の良し悪し、かんなくずひとつにしても技術の差が歴然と表われる、そうした本当に細かい諸般にわたることを含めて技術というなら、それは教わるのに年数を要することだと思いますよ。自分が「わかる」というまでにはそれは何年もかかるはずです。」
 「そうなんですよ。先生、それを近頃の若いもんは簡単に苦労しないで技術だけを教えろとくる。ちょっと難しいことを言おうもんなら、すぐ放り出してしまう。簡単なマニュアル本なんかをすぐ欲しがる。そしてそれでマスターした気でいやがる。気に入らなければプイと止めてしまう。全く我慢するということをしらねぇー。親もそんな子供のやることを、子供には合わなかったんだとすぐに理解してしまうものわかりのよさですからね。」とゲンさんも調子がでてきた。
 先生が続ける。
 「確かに、最近の風潮は、個性にあった云々、自分に合った云々、自分探しの云々、自分に合った学校、自分にあった仕事、自分にあった会社、自分にあった教え方の塾、先生とかとにかく自分が絶対的存在だということは動かさない。
 自分にあった仕事を探す? 冗談じゃーないよ。自分にあったという「自分」とはいったい何様のつもりなんですか。絶対不滅の変わらない自分、まるで神様じゃーないですか。言い方が悪ければ、不滅の魂んなんかと思っているんじゃーないのか。だから、怪しい占いのセンセーとか、怪しい宗教だとかにわけもなく飛びつくことになる。絶対不滅の自分、そんなもんあるわけがない。だいたい変わらない自分が存在し続けるなら、何を学んでも自分は変わらないことになる。だから、人の意見を聞いて、「あなたの言われることはよくわかりました。それで具体的に何をしたらいいのでしょうか。」などと平気で口をついて出る。変わったなら、本当に変わったなら、変わった自分があるのなら、そういうバカな質問自体がでてくるわけがない。変わっていない、自分が不変という意識があるからも、何様という自分がいるから、そういう質問になる。
 職人が何年もかかって一人前になるというのは、これはその間自分を変えていく時間なんだ。近頃は「わかりやすい教え方」の塾だとか、先生が人気ですが、そういうへらへら媚を売るやからが重宝されるのは、変わらない何様の自分を奉ってくれるからですよ。しかしね、わかりやすい教え方なんてのは、実はだれもが知っていることしか教えていないということなんですよ。お習いになる皆様の自分は決して変えないということですから、教える側がその「自分」様に合わせますと言っているわけです。
 本当に必要な知識を「分かりやすく教える」ことなんてできるはずがない。難しいからまた面白いということがわかりますかね。個性的な教育とかいいますが、個性に合わせてたら、一斉授業はおよそ不可能ということです。世にはびこる個人指導塾なんかも巧みにこのへんのところを利用しているわけです。馬鹿にもほどがある。変わらない「自分」が存在すると信じて、その「自分」に合わせてまわりの環境を合わせるなんて発想が、社会に浸透してしまい、わけのわからないことになってしまっている。
 個性というのは、自分が変わろうと苦労した結果初めてわかるもので、最初の2、3回でもうすべてがわかったような顔をして「私には合いません」などと平気でいうのが今の若い人たち、いや親、先生をも含めた人たちの特質です。「わからない」から個性に合わないなどという。なんと愚かなことなのか。学校の先生もアホが多い。知識の多寡を優秀な先生と考えているのが、先生自身ならず、世間の親も同じだ。これは、親も先生も、ともに「変わらない自分」の持ち主ということを物語っている。知識は増えても、自分はいっこうに変わらないというのだ。知識が多いだけの先生はもちろん尊敬の対象ではない。子も親も先生を尊敬なんかしない。なにしろ何様の自分が一番偉いと思っているからだ。
 フリーターの増加は社会問題化しているが、彼らは、実は本当の自分がほかにいてその自分は変わらない永遠の自分だということで一致している。その自分にあった仕事がないのでとりあえずアルバイトをやっている。しかし, この仕事は本当の自分がやっているわけではないと考えて精神的に安定している。馬鹿をいっちゃーいけない。本当の自分なんて幻想だ。最初からそんな自分なんてありはしないんだ。自分が逃げるのに都合のいい何様の自分を心のどこかに住まわせて、自分を納得させているだけじゃーないか。何が、自分探しの旅だ。マスコミも平気でこんな見出しを使う。いつもいるのは、日々変わる自分だけだ。今、五感で感じている意識の自分がいるだけだ。どこにも本当の自分なんかいやしない。社会が自分に合わせるなんてことはないのだ。自分がかわってゆくしかないのだ。学校の先生も親もこどもも、不変の自分をどこかに置いて今は違う自分がとりあえず何かしてるなどと思いこんでいる。
 ペットは今いる飼い主、家のことしか感覚的に認識していない。決して本来の自分が別にいて、もっといい飼い主が、もっといい家がいつか自分にやってくるなどとは考えていない。今ある環境に自分を合わせるために変えているのだ。飼い主は「動物は従順だ、人を裏切らない」などと無邪気に言うが、それは動物が五感で感じた自分だけしか意識できないからだ。人間のように意識の中に想像力を働かせて、つまりは言語のちからで、別の自分を創ることはできないだけなんだ。
 朝、目が覚めたら、すっきりした意識がさっとオンされる。でも、実は昨日の自分と今の自分は別のはずなんだ。意識が勝手に同一の自分をDNA的に了解しているだけなんだ。つまり自分は日々変わっている。意識はいつも新しいものに変わっている。しかし、人間の意識は小学校のころのぼーっと自分、中学のころのやはり単細胞な自分、高校のころの血気さかんな自分、自己主張に明け暮れた大學のころの自分、勉強に明け暮れた、読書に明け暮れたその後の自分、すべて意識は、同一の自分と認識して疑わない。みんな本当に同じ自分なのであろうか。生理学的には細胞は次から次に新しいものに生まれ変わっているから、少なくとも個体的には昔の自分とは構成成分は違うはずだ。しかし、意識は自分の同一性を信じて疑わない。これが自分を社会を維持するための本質的な核でもあった。
 しかし、実は意識は確実に日夜変わっている。昨日の自分と今日の自分は本質的に違う。」
 とそこまで先生が言われると、
 「先生、何を言われたいのか今ひとつわからないのですが」と迷羊君、
 しかし、先生は無視して続ける。
 「人間というものは、DNAというか、予めプログラムされた遺伝子に規定されて行動を余儀なくされています。DNAが意識の同一性を疑わないようにセットしているのだと思います。それはそれが人間の生存にとって都合がいいからではないでしょうか。
 それはともかくとして、私は、変わらない自分なんていやしない。日々変わる自分がいるだけだ。だから、学問を学ぶことによって、自分が変わるということです。天体のしくみを知り、物理の法則を知り、常に自分が変わるのだということです。自分にあった仕事ではなくて、自分が仕事に結局はあわせるように変わるということです。社会が変わらないから自分はニートになるのではなくて、自分が社会に合うように変わるということです。変わるために我慢するということも必要です。教育は人を変えるということなんです。このことは、教育勅語や日の丸論争なんかをみても、自民党なんかはちゃんとわかっている。教育が人を変えてしまうのだということを。最近の大人の失敗は、自分が変わらないとうことを前提にしてこどもを育ててきた。こどもも当然の変わらない自分を当然と思うように成長した。なんでも買い与えるという過保護の一態様は、子供に気ばかり使っている親の態度に顕著ですが、すべて変わらない何様の自分の所有者である子供に合わせているだけです。子供を変えようともしない親が、つまりはこどもを教育してかえるということをしない親その人自身の意識の中に頑として変わらない自分がいるのですから。」
 先生は、私が何を言っているのかわからないといったことにむきになったようです。話し終えると、傍にほうじ茶がないのに気がついて、しかたなく庭の木のそばに立ち、「ふん、ふん」とわけもなくうなずいていました。
 辺りを見ると、いつの間にやら日がかげり始めていました。先生はこれから、本を読むと言われて書斎に入りました。
 帰り道、先生は近頃、躁と鬱の差がはげしいな。苦しそうな先生、ほっとしたような先生の顔がいつも私にかわるがわるに浮かんできました。私もそうですが、先生の家に出入りしている多くの人たちは、きっと先生のお話を聞くことで何かを見つけようとしているのだと思います。その意味では、先生の家に出入りする人たちはみんな人生に真剣に取り組んでいる人たちなのだろうと思うのです。 
 先生が、日々苦しまれていることだけは私たちに伝わってきます。そして、先生のお話を聞いた後いつまでも心に残る何かが私にはかけがえのないもののように思われるのです。

※「納谷味先生」の感想はいかがですか。原文の言葉が過激なところは, おとなしい表現に書き改めました。これから, 私も, 納谷味先生を温かく見ていきたいと思っています。納谷味先生がどのような心境に到達するのか, 最後まで見てみたと思ったのです。これからもよろしくお願いします。
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