草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

ひとつだけ

2008年04月17日 12時25分54秒 | 
 指導とは, 日々の反省と工夫である。いつも思うことは, 「知識は与えすぎてはいけない」ということか。「知識は広げすぎてもいけない」と思う。子どもに1冊を与えたらもはやなにも与えてもならない。昨今の親は, 子どもにいいと思えば, なんでも次から次に買い与えてしまう。近頃は出版社も普通に作っていては売れないので, 手取り足取りの参考書を作る。便利な「知識のまとめ」から, 確認のためのチェック問題から, とにかくよくできている。この視点からの参考書作りはほぼ完璧な出来であろう。もはや子どもたちは何の苦労もいらない。与えられたものをただ「覚える」だけの作業が残されている。と, ここが問題なのだ。これでは子どもたちに思考の入る余地がないではないか。何かをまとめるという能力は完全に抹殺されてしまう。そもそも何もかも与えてしまうことは, 子どもの思考の芽を摘み取る最悪の選択ではないか。人間というのは, 1つに定まるから, 落ち着いて「考える」ことができるのだ。次から次に「与える」ことは, いつまでも永遠に「定まらない」という教育を施し続けていることになる。だから, 与えるのは1つだけなのだ。いや突き詰めれば一切与えないことのほうがいいのかもしれない。指導というのも突き詰めれば教えないのが指導ということになる。 名工・名匠・名人は弟子に何も教えないという書物を読んだことがある。学問をこれと全く同列に論じるつもりはないが, その心は本質をついたものだと考えている。1つだけ与える。不足だらけの環境の中でこそ「考える」という契機が生まれる。指導の妙味とは何もかもを過不足なく教えることではなく, 本質的な1つだけを与えて, 思考の生じるのを待つ, 思考を生じさせるということではないか, と思う。
 私はシンプルな指導がいちばんという心境にある。与えるのは1つだけにする。思考の芽を出させるというのはそういうことである。最近のテレビは, セリフをテロップでそのまま流す, あるいは音響効果つきで大きな字で字幕が出る。字幕で「つっこみ」を入れる。これはかなりに不愉快だ。なにもかもテレビの側が説明してしまう。見る側は何も考えないでいいようにできている。これはテレビを見る人間から思考の芽を徹底して刈り取るとうことである。批判しない人間にしてしまおうとう意図なのか。とにかく子どもがなにもかも説明づくしの番組を見ることは「バカ」になることは間違いない。
 私が小学生のころよく本を読んだのは, たまたま東京の叔父から買ってもらった1冊の本がきっかけだった。私の家は本を子どもに買い与えるなどの余裕はなかった。私は1冊の本をすりきれてボロボロになるまで読んだ。いつかもっと読みたいと思うようになった。それが私を図書館に向かわせた。外で体を動かして遊ぶことしか知らなかった私が自ら変わっていった。ないからこそそういう考えが生まれる。不足しているからこそだ。なにもかもある環境ではそれだけですべて終わってしまう。家に文学全集の揃っている子どもが全く本を読まないのは, それぞころか本を忌避することさえあるのは, 人間の本性的な帰結のような気がする。もちろん家にたくさん本がある環境で育ったので読書家になったという逸話もよく聞いたことがある。だから飽くまで一般的な話である。
 完璧なまとめなどいらない。個人の能力をはるかに凌駕した整理などいらない。普通のごく普通の文章で語られたテキストでいい。読ませて考えさせるに適したものであればいい。不完全なもの, 不十分なもの大歓迎だ。その分, 思考の芽があちこちに出てくるのだから。世の母親たちの「~しないと失敗する」という強迫観念は, 強固な信仰に近いものもあり, 私を辟易とさせてきた。
 繰り返す。「広げるな」。「基本に執着しろ」。完全なものなどありえない。すべては不完全なもの, 不足があるから「工夫」が生まれる。思考の入るスキマがある。スキがある。
 私がいつも考えていること。それは, 思考の芽を「今日はどうやってひきだそうか」。「わかる」ということを「ほんとうに知る」のはいつの日か。その日が必ず来ると信じて。
この記事についてブログを書く
« 「理解する」こと | トップ | メタボ社会 »