今日は、遅い時間にブログを書くことになりました。午前中は、メンテナンスでサーバー停止、さらには、所用で不在しました。
今日は塾のほうはお休みです。2月は、比較的のんびりとさせてもらっています。おかげで指導のアイデアがいろいろと浮かび尽きることがありません。人間は、やはり「餓え」がなければ真剣にはなれないのではないか。私たちは知的な「餓え」というものがなければ、本来的には知を求めないのではないか。知的な餓えが人間を知的行動にかりたてるのではないか。知的な餓えを感じない、なにかに満足してしまった人間というのは、進歩することはない。退屈はその徴表であり、怠惰はその徴表であろう。ゲームに興じて時間を浪費するとか、賭け事や享楽的なことに時間を費やして一日を無為に過ごすことが人生であってはなるまい。知的な「餓え」が生きるエネルギーになるということを実感しております。本来の意味の「餓え」の恐怖があるから、人間は常に「食べ」続けるのだし、眠りも生命の存続の「餓え」に由来するのだと思います。去年は、都立小石川合格を果たしたことが、私に充足をもらし、私本来の「餓え」を奪ったのかもしれません。いつものようにアイデアがわき起こってこずなにやら虚脱状態であったのやもしれません。原発事故がさらに私の「餓え」を鈍磨させ麻痺させたようにも思います。
私は何かいつも追い詰められていないとダメなようです。「餓え」ていないとどうもいいはたらきができない。そういうことが今になってわかってきたような気がします。
ところで、「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」と云ったのはパスカルでした。3.11の震災のとき哲学者の鷲田清一(わしだきよかず)さんは、すぐに「パンセ」の中のこの一節を思い出したそうです。私などは、「パンセ」の中から前に見た一節を探すのがもう不可能に近いのですから、さすがに哲学者というのはすごいものです。妙なところで感心しています。パスカルは「パンセ」の中でデカルトのことをかなり悪く云っていますよね。そのデカルトですが、彼は大変な自信家ですが、その彼の書いた本に「方法序説」というのがあります。岩波文庫から出ていますが、その36pから37pにかけてなかなか示唆に富むことが書かれています。私は自分の実体験と照らし合わせて、実に真理をついている格率と感激しています。格率というのは、哲学用語です。この言葉は意味が変遷していますが、近世以後は、「行為や論理の規則の簡潔な準則」といった意味あいに理解してよろしいかと思います。
その格率とは、次のようなものです。
「どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと」というものです。
デカルトは、この格率の意味を説明するのに、「どこかの森の中で道に迷った旅人」になぞらえています。旅人は、いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。
私は、このデカルトの格率をよくこのブログでもとりあげます。国家試験の受験生は「森の中で迷える」旅人に似ています。一度この方法で、この参考書でやろうと決めた以上は、「その方法が、もはや疑わしいものとしてでなく、きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない」ということです。
よく大学受験で直前まで参考書に目移りし、ころころ変える学生がいますが、こういう学生はおそらくは成功しないのだと思います。ひとたびこれでやると決めたら、もう途中で、他にいかにすぐれた参考書があらわれてきてももはや変えてはならないということです。この格率は人生の様々な場面で適用できるはずです。
先の、「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」というパスカルの言葉も同じです。私はこの言葉がどうも人間の心の本質といか、性癖を言い当てているように思えてしかたないのです。
前方に破滅があるということをうすうす感じていながら、「何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して」破滅のほうへ走っているのが人間なのではないかと思うことがあります。若者は破滅があるのを知っていて破滅に向かって突進するという血の気がありますが、子どもたちも危難に直面して「回避する」、「逃避する」などして、親も子を「庇護する」行動に走ります。「絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」のが実際なのではないかと思うのですが。
いやこの言葉はさら深いものを感じます。不治の病魔に侵された人は、「これから死にいく身」の不幸を言葉で納得しようとする姿があります。ふと思います。こういうときに宗教は心の安寧をもたらしてくれるのだろうかと。これさえも、「絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」ことにはならないだろうかと。
人間の心とは厄介なものです。周りからみれば、恵まれた環境にあると思えても、そのことに気づかずに自滅するほうへとひたすら進んでゆくのですから。人間というのは愚かなものですから、いちど絶壁から落ちてみなければ「わからない」という生物です。
今日は塾のほうはお休みです。2月は、比較的のんびりとさせてもらっています。おかげで指導のアイデアがいろいろと浮かび尽きることがありません。人間は、やはり「餓え」がなければ真剣にはなれないのではないか。私たちは知的な「餓え」というものがなければ、本来的には知を求めないのではないか。知的な餓えが人間を知的行動にかりたてるのではないか。知的な餓えを感じない、なにかに満足してしまった人間というのは、進歩することはない。退屈はその徴表であり、怠惰はその徴表であろう。ゲームに興じて時間を浪費するとか、賭け事や享楽的なことに時間を費やして一日を無為に過ごすことが人生であってはなるまい。知的な「餓え」が生きるエネルギーになるということを実感しております。本来の意味の「餓え」の恐怖があるから、人間は常に「食べ」続けるのだし、眠りも生命の存続の「餓え」に由来するのだと思います。去年は、都立小石川合格を果たしたことが、私に充足をもらし、私本来の「餓え」を奪ったのかもしれません。いつものようにアイデアがわき起こってこずなにやら虚脱状態であったのやもしれません。原発事故がさらに私の「餓え」を鈍磨させ麻痺させたようにも思います。
私は何かいつも追い詰められていないとダメなようです。「餓え」ていないとどうもいいはたらきができない。そういうことが今になってわかってきたような気がします。
ところで、「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」と云ったのはパスカルでした。3.11の震災のとき哲学者の鷲田清一(わしだきよかず)さんは、すぐに「パンセ」の中のこの一節を思い出したそうです。私などは、「パンセ」の中から前に見た一節を探すのがもう不可能に近いのですから、さすがに哲学者というのはすごいものです。妙なところで感心しています。パスカルは「パンセ」の中でデカルトのことをかなり悪く云っていますよね。そのデカルトですが、彼は大変な自信家ですが、その彼の書いた本に「方法序説」というのがあります。岩波文庫から出ていますが、その36pから37pにかけてなかなか示唆に富むことが書かれています。私は自分の実体験と照らし合わせて、実に真理をついている格率と感激しています。格率というのは、哲学用語です。この言葉は意味が変遷していますが、近世以後は、「行為や論理の規則の簡潔な準則」といった意味あいに理解してよろしいかと思います。
その格率とは、次のようなものです。
「どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと」というものです。
デカルトは、この格率の意味を説明するのに、「どこかの森の中で道に迷った旅人」になぞらえています。旅人は、いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。
私は、このデカルトの格率をよくこのブログでもとりあげます。国家試験の受験生は「森の中で迷える」旅人に似ています。一度この方法で、この参考書でやろうと決めた以上は、「その方法が、もはや疑わしいものとしてでなく、きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない」ということです。
よく大学受験で直前まで参考書に目移りし、ころころ変える学生がいますが、こういう学生はおそらくは成功しないのだと思います。ひとたびこれでやると決めたら、もう途中で、他にいかにすぐれた参考書があらわれてきてももはや変えてはならないということです。この格率は人生の様々な場面で適用できるはずです。
先の、「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」というパスカルの言葉も同じです。私はこの言葉がどうも人間の心の本質といか、性癖を言い当てているように思えてしかたないのです。
前方に破滅があるということをうすうす感じていながら、「何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して」破滅のほうへ走っているのが人間なのではないかと思うことがあります。若者は破滅があるのを知っていて破滅に向かって突進するという血の気がありますが、子どもたちも危難に直面して「回避する」、「逃避する」などして、親も子を「庇護する」行動に走ります。「絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」のが実際なのではないかと思うのですが。
いやこの言葉はさら深いものを感じます。不治の病魔に侵された人は、「これから死にいく身」の不幸を言葉で納得しようとする姿があります。ふと思います。こういうときに宗教は心の安寧をもたらしてくれるのだろうかと。これさえも、「絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」ことにはならないだろうかと。
人間の心とは厄介なものです。周りからみれば、恵まれた環境にあると思えても、そのことに気づかずに自滅するほうへとひたすら進んでゆくのですから。人間というのは愚かなものですから、いちど絶壁から落ちてみなければ「わからない」という生物です。