子どもというのは、「リスクを回避する」方向に本質的に動くものである。ここでいうリスクとは、「自分が傷つけられる」リスクである。試験が近づくと敵前逃亡する子というのはこの範疇に属する。現代の子どもたちは「傷つけられる」ということにあまりにも過剰に反応的である。この傾向は若者から大人へと広がる。「傷つけられる」系譜というのは、自分が弱者であり、被害者であるという意識下に常にあることを意味する。この被害者意識が逆転した現象も最近の傾向である。現代人は今では自分が「被害者」であるということをアピールするほうが得をするということをよく知っている。クレーマーというのは、被害者が猛威を奮い社会システムをも破壊する現象と位置づけることができる。
さて、今の子どもというのは、「ほんとうの自分」というものを仮想する代わりに、今の自分を否定するのではないか。「ほんとうの自分」というのは、理想の自分であり、完全な存在である。「否定する」というのは、呪いである。呪いというものには内容がない。「呪」も「祝」も語源は同じとされるが、前者は抽象的で内容がないのに対し、後者はどこまでも具体的である。「否定する」「拒否する」という生き方は、そういう呪いにかかった生き方である。
今の自分を「否定する」のは、今の自分が不完全であり、欠陥だらけと思っているからである。こういう生き方をする子というのは、他人に厳しい。他人を全能でないからという理由で否定する。拒否する。なかなかに心を開かない。素直になれない。とにかく何事に対しても「拒否する」という心性が邪魔をする。こういう子の指導というのはうまくいきにくい。
「拒否する」生き方というのは、全知全能の「ほんとうの自分」以外は「否定する」生き方である。もちろん「今の自分は当然否定される」。こういう子が「リスクを回避する」方向へと舵取りをする傾向が強いのは当然である。「今の自分」が世間にさらけ出されることを死ぬほど嫌がる。親はこの理解しがたい行動にしばしば途方にくれることになる。
私は、様々な「呪い」にかけられている子どもというのを随分と見てきた。子どもに「呪い」をかけるのは、母親がいちばん多いであろうが、母親以外の家族、学校の先生、友だち、いろいろな団体と様々である。「呪い」というのは、内容がない。抽象的で断片的な言葉である。根拠のない否定的言説である。
「呪い」を「解く」のは、具体的な事実を述べていくことである。抽象的で断片的な言葉の呪いにかけられた子をその呪いから解放するのは地道に具体的な事実を示していくほかない。
ゲームというのは、呪いの一種である。内容があるようで実はない。時間の浪費は甚大で「否定的要素」は十分である。ひとたびゲームの呪いにかかったら、もはや魔法にかけられて石になったようなもので、石に意志はない。魔法というのは、かけられた者には解くことはできない。だれかが呪文をかけて解くしかない。
塾の先生というのは、子どもたちにかけられた魔法を解く呪文をかける天才でなければならない。
さて、今の子どもというのは、「ほんとうの自分」というものを仮想する代わりに、今の自分を否定するのではないか。「ほんとうの自分」というのは、理想の自分であり、完全な存在である。「否定する」というのは、呪いである。呪いというものには内容がない。「呪」も「祝」も語源は同じとされるが、前者は抽象的で内容がないのに対し、後者はどこまでも具体的である。「否定する」「拒否する」という生き方は、そういう呪いにかかった生き方である。
今の自分を「否定する」のは、今の自分が不完全であり、欠陥だらけと思っているからである。こういう生き方をする子というのは、他人に厳しい。他人を全能でないからという理由で否定する。拒否する。なかなかに心を開かない。素直になれない。とにかく何事に対しても「拒否する」という心性が邪魔をする。こういう子の指導というのはうまくいきにくい。
「拒否する」生き方というのは、全知全能の「ほんとうの自分」以外は「否定する」生き方である。もちろん「今の自分は当然否定される」。こういう子が「リスクを回避する」方向へと舵取りをする傾向が強いのは当然である。「今の自分」が世間にさらけ出されることを死ぬほど嫌がる。親はこの理解しがたい行動にしばしば途方にくれることになる。
私は、様々な「呪い」にかけられている子どもというのを随分と見てきた。子どもに「呪い」をかけるのは、母親がいちばん多いであろうが、母親以外の家族、学校の先生、友だち、いろいろな団体と様々である。「呪い」というのは、内容がない。抽象的で断片的な言葉である。根拠のない否定的言説である。
「呪い」を「解く」のは、具体的な事実を述べていくことである。抽象的で断片的な言葉の呪いにかけられた子をその呪いから解放するのは地道に具体的な事実を示していくほかない。
ゲームというのは、呪いの一種である。内容があるようで実はない。時間の浪費は甚大で「否定的要素」は十分である。ひとたびゲームの呪いにかかったら、もはや魔法にかけられて石になったようなもので、石に意志はない。魔法というのは、かけられた者には解くことはできない。だれかが呪文をかけて解くしかない。
塾の先生というのは、子どもたちにかけられた魔法を解く呪文をかける天才でなければならない。