草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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受験英語を極めるのはそんなに難しいことなのか

2015年06月30日 10時17分27秒 | 
 わたしは英語というものをものにすることのできなかった生徒たちのことをよく覚えている。
 中3になって2学期になると英語の過去問でテストする。当時はすべての科目が共通の時代であった。たいてい40点~50点、これが12月、1月になっても変わらない。2学期になって本人もそれなりに英語の勉強をやるわけだが、かなりに易しい読解文の意味をとることができないのであるから、そうした努力も虚しいだけである。
 そういう生徒たちというのは、中1になったときからまともに英語を勉強してこなかったという点で共通している。中には、小6の春休みに栄光ゼミナールに無料体験入塾してそのまま中3の1学期までいたという生徒もいた。竹の会に夏休みになってやってきたその生徒は3人称の単数・現在のSも知らないほどだった。数学は知能が高いのでそれほど困ったようすはなかったが、受験ということでいえば手遅れであった。2年半以上も週に2回も3回も塾に通いながらなんでこんな基本的なことも知らないのか、また親はよくもそういう状態でそのまま塾に通わせたものだと思った。その点を訊いてみると「仲良しの仲間がいたので塾が楽しかった」という言葉が返ってきた。結局この生徒は英語の壁を越えられずに高望みした都立を無理に受けて落ちた。この当時は高望みの都立を受けて落ち、底辺の私立へ行くという生徒がたくさんいた。新宿とか、駒場、広尾や目黒でさえ、憧れだけで受ける生徒が多かった。
 こういう例は実は枚挙に暇がないほどあった。
 受験の英語というのは、怠け者には致命的な科目であった。知能よりも努力、継続の力というものがものをいう科目である。
 共通問題レベルの英語でさえも点がとれない受験生というのは、底辺私立へ流れるほかない。
 独自問題の英語とか、私立難関の英語の過去問を見てみればわかることであるが、中3の夏にはもうそうした英語の長文をすらすらと訳せるほどになっていなければならないとすれば、それまでにどのような勉強をしてこなければならなかったのか、ということは自ずと見えてくることである。
 英語を勉強するということの具体的目的がはっきりとしたならば、それに向けてとにかくひたすら努力するほかない。
 中3の8月には、私立難関の英文、少なくとも都立独自英語の英文は、10分~20分程度で読み下せるほどの力をつける、ということである。
 中3までに履修すべき英文法をマスターし、特に、関係代名詞をよく理解し、多くの時間を英文解釈にかけるということが当然の成り行きである。
 英文法を無駄なく効率よくマスターするというのも当然必須の前提である。
 竹の会はそうした必要を当然の前提として、効率のいい受験用の問題集の開発に取り組んできたのであった。
 とにかく早期に英文読解の環境を実現するという思いがある。
 中2の夏からとことん英文の読解に没頭してもらいたい、そういう思いで指導してきた。
 受験英語を極めるということは、一連の手順をふみ、努力と継続で得られる、そういうことである。
 中3になって突然の勉強でそのような力は得られるべくもない。
 怠け者は中1の後半にはもう死んでいる。少なくとも受験英語ではもう終わっている。

 
 
 教室のベランダの不夜城が花をつけた
 
 ゼラニウム
 
 
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