草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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思考の未熟と指導

2011年05月25日 09時17分04秒 | 
 お早うございます。本日は指導日です。天気は良好のようです。明日からはまた天気が崩れるそうですが、とにかく今日は晴れです。6月1日に配布予定の夏の予定の詰めに苦労しています。目黒区や世田谷区などでは8月24日までということで、他の区では31日までとか28日までなどばらばらです。個人的な事情はなかなか反映しにくく、また例年日光などの修学旅行も考慮の外でした。竹の会はいろんな区から通ってくる子ばかりなので個々の事情に配慮するのにも限界があります。とにかく6月1日には間に合わせたいと思います。
 今日は今の指導のようすから、子どもたちの逃避・回避の傾向というものについて触れてみたいと思います。
 竹の会では、ご存知のようにまず四則混合演算をこなすことが思考訓練のための前提とされております。特に、逆算をマスターすることが割合指導の前提として位置づけられています。竹の会に早くからいる子ですと、たいていは計算をマスターしてしまいます。ほとんどの子たちが苦労の末、いつしか複雑な計算を難なく処理できるようになります。計算の習熟に時間のかかる子というのは経験的に割合などの理解にも困難が予想されますが、導入段階で時間のかかる子、なかなかルールを覚えられない子というのも前途多難です。小6には計算(4問のみです)だけで3時間以上ものんびりとやっている子もいますが、これはさすがに注意の対象です。計算はなんとかマスターした子に中には、なかなか割合の理解ができない子もいます。本当に理解していないなという子がいます。また、国語の問題集を渡したけれどほとんど手をつけられない子もいました。読解ということが全然不可能な子です。ほんとうに読み取れないようです。小学低学年のときから、テレビ、漫画、ゲームばかりで活字を全く読んでこないと、こういうことになります。映像から手で反応するゲームは特に害があります。テレビも映像で脳の想像力はすべて不要としてしまいます。映像というのは、本来文字で表現されている文章の意味するところをすべて制作者側が具体的に映像化してしまっていますから、受け手側は受容するだけです。もともと本を読むというのは、無味乾燥な文字列から様々な「想像」や「創造」をはたらかせて「論理」的に意味ある内容を読み取るという地味な作業です。小学低学年から、最初は特に音読になると思うのですが、こういうことをこつこつと継続的にやって積み重ねてきてないと、一朝一夕には読解力というものはつかないわけです。計算もルールを練習しながら確認し慣れていくという流れですが、読解というのも、文字を読み、意味を考え、想像し、創造しながら頭の中に一定の内容を形成していくという慣れの面が強いのです。こうして小学のときから、ゲームばかりに親しんできた子とこつこつと文字に親しんできた子との差がその子の将来をも決めてしまうほどに大きく影響するということがおわかりいただけるでしょうか。
 ところで、読解の苦手な子は国語を回避する行動を意識的にとります。算数の苦手な子は算数を回避する行動を意図的にとります。これは、幼い子どもたちの未熟な脳がもたらす生存本能的なものです。嫌なものからはできるだけ遠ざかろうとします。生物が危険なもの、嫌なものから逃げるというのは、生命を維持するための本能的な行動です。知能未熟な子というのは、どうしても理解が浅い分、そういう逃避行動をとりがちです。幼児というのは、面白いもの、気をひくものにしか興味を示しません。理性で心を律するようになるほどに成熟しなければ本来勉強というのは無理と思います。
 私はそういう意味で指導には時間というか時がかかると思っています。親御さんたちが単純に「わからないところを教えてもらえる」というような認識をされていますと、まず期待に添えないと思います。「わからない」のは、幼児性のゆえに思考未熟ということだからです。だから指導ではそういう思考の未熟を時間をかけて成熟させるようなはたらきかけをします。思考の未熟のゆえに「わからない」のであれば、思考を育てるほうが、未熟な思考にいくら説明がうまいからといって「教える」よりは、本筋だと思うからです。みずから考えて「わかる」ということを経験させることが思考の未熟にはもっともいい治療と思います。
 3.11の大震災・原発事故の後、天野祐吉氏は「テレビCMの中で商品を持ってにっこり笑ったり踊ったりしているだけのタレントたちがどんな役目を果たしているのか」と違和感を吐露し、「それまでのテレビに戻ってきた普通のCMが以前のようにふつうには見えなくなってしまった」と述懐しています。それは私もずっと感じていたことで、それだけではなく、それまでのテレビのバラエティー番組やお笑い芸人たちのバカ騒ぎや悪ふざけというものが、とても素直には笑えない異常なものとして写り、ふつうには受け入れられなくなってしまっています。特に福島の深刻さが日に日に増す中で、そういうことはもうこの世の中には全くないかのような顔をしたアナウンサーやキャスターたちがニコニコして笑いを振りまいているのが、腹立たしくもあり、とてもふつうには見えなくなってしまいました。テレビに出ている出演者たちが意味もなくにこにこしているのがとてもふつうには思えなくなってしまったのです。ドラマなども何か浮いて見えます。お芝居ごっこに見えてしまいます。
 たぶん私たちには、生存に対するセンサーというものがみな備わっていると思うのです。あの地震で私たちは、ふつうにあると思っていた日常というものの危うさに気づいたと思うのです。福島の人たちが一瞬のうちに生活の基盤を失い、流浪の生活を余儀なくされ、飛散する放射性物質に苦しめられているということを私たちは人ごとではないと思ったはずです。いや人ごとどころか、放出を止めない放射性物質は次第に東京にも深刻な影響を及ぼしつつあります。事態は深刻さの度を強めつつあるのです。
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