中国の内陸部での緑化協力にかかわる報告です。
続々・黄土高原レポート
118)雁門関

すぐそばを走りながらいつも素通りする雁門関をやっと訪ねました。『楊家将』に刺激されてのこと。山西省北部で二重になっている長城の、内城のもっとも重要な関所がここで「中華第一之関」の巨大な額がかかっています。大同とその周辺が昔から雁北と呼ばれたのは、雁門関の北の意味。余計なことですが、私の本の中国語版の表題『雁棲塞北』もそのことを意識しました。
雁門関に立つと、ここが要衝である理由がわかります。地形は険しく、ほかに道はありません。北からくる軍は狭く急な坂道を登ってくるしかなく、数分の一の兵で守ることが可能でしょう。
歴代の名将が雁門関の守りにつき、また訪れました。周の穆王、趙の武霊王、秦の蒙恬、漢の劉邦……。あの物語の楊家将も。
現地の展示で初めて知りましたが、毛沢東、周恩来、劉少奇といった中国共産党の最高指導部もここを訪れました。国共内戦の後期、共産党中央が延安から河北省の西柏坡に移る途上でのことです。
雁門関の北側のふもとにも城壁がめぐらされ、二重三重の護りがありました。武、営、台などの地名が多いのはその名残です。広武漢墓群は漢代の戦死者のもので、古墳が293もあります。
雁門関の紹介文に「兵家必争之地」とあります。歴史上ここでの戦闘は大小千七百回になるそうですからまさにそのとおり。日中戦争も例外でなかったようです。
【写真】要害の地にあって、北をにらむ雁門関。「兵家必争之地」のことばどおり、戦闘が繰り返された。
(2006年10月15日号)
雁門関に立つと、ここが要衝である理由がわかります。地形は険しく、ほかに道はありません。北からくる軍は狭く急な坂道を登ってくるしかなく、数分の一の兵で守ることが可能でしょう。
歴代の名将が雁門関の守りにつき、また訪れました。周の穆王、趙の武霊王、秦の蒙恬、漢の劉邦……。あの物語の楊家将も。
現地の展示で初めて知りましたが、毛沢東、周恩来、劉少奇といった中国共産党の最高指導部もここを訪れました。国共内戦の後期、共産党中央が延安から河北省の西柏坡に移る途上でのことです。
雁門関の北側のふもとにも城壁がめぐらされ、二重三重の護りがありました。武、営、台などの地名が多いのはその名残です。広武漢墓群は漢代の戦死者のもので、古墳が293もあります。
雁門関の紹介文に「兵家必争之地」とあります。歴史上ここでの戦闘は大小千七百回になるそうですからまさにそのとおり。日中戦争も例外でなかったようです。
【写真】要害の地にあって、北をにらむ雁門関。「兵家必争之地」のことばどおり、戦闘が繰り返された。
(2006年10月15日号)
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