続・蛙独言

ひとりごと

「ことば」 4

2009-11-18 18:38:30 | 日記
人は「ことば」を交わすことによってその「想い」を交感する。
それは、温かく優しいものであることもあるだろうが、また、冷酷無慚なものであることもあるだろう。
「ことば」はもともと「もの」や「こと」に「名付けられ」てあるのであり、そして「ことば」は「もの」や「こと」それ自体ではないのであるから、必ず相互の話者の間に「齟齬」をきたすものでもある。
簡単で単純な「話」であれば「亀裂」は左程問題となることもないのだけれど、途方もない「行き違い」はよくあることなのだ。
また、「ことば」は、話者そのものを「拘束」しもする。
そのように「言った」がために、罠に落ち込んでしまうこともまたよくある。
違う「言語世界」には違う「文化」がある。
外国語を「日本語」に訳する時、難しいことが多い。
例えば「パソコン」なんてのを「日本語」に翻訳することは不可能事といわなければならない。
「マイノリティー」という「ことば」の「理解」はどうだろうか。
「果物」ならば「りんご」や「みかん」などを食べることによって、その概念の「実在性」を共通理解とすることができる。
「マイノリティー」という概念は「これ」とは位相を異にするものだ。
これは「集合」に与えられた名前なのだが、その「共通性」といえば「被差別」ということ以外には何もない。
それだから「被差別グループの総体」ということと同義だろう。
「マイノリティー」などというのは、ただ「かっこつけて、それらしゅうゆうたら『学問的』だわなぁ」ってことなんではないか。
「マイノリティー」って「ことば」は左程厳密な使われ方をしてこなかった、いかにも安直に使われてきた、そんな風に蛙は考える。
勿論、共通する課題はある。
政権交代ということで法相を千葉さんが引き受けてくれたが、例えば「国内人権機関」の創設や「差別禁止法」の制定などが実現をされれば、「大きな一歩」ということになるだろう。
ただ、と、蛙は思う。
それぞれの「被差別グループ」の問題の解決の方法は、ひとつとして同じものはないのではなかろうか。
次回からは、それら一つひとつについて、蛙の「考え方」を披歴していこうと思う。

「ことば」 3

2009-11-14 18:33:13 | 日記
向学さんからコメントをいただいていて、いくつか答えなければならないこともあるけれど、取り敢えず、蛙の「思うところ」を披歴していこうと思う。
いささか遠回りになるが、「ことば」についてということで始めた話でもあるし、「いろは」から。
まず、「果物」について。
蛙がマルクス・エンゲルス・レーニンなんてのを読んでいたのは40年以上も前のことになるから、ほいでもって「だいたい分かった」って程度で、あやしい限りではあるけれど、相当の自負はもっている。
少なくとも「日本共産党」とか、そっから派生したような有象無象の類には辟易させられているというようなこともある。
今、もう一度、マルクスを見直そうという勢いもあって、それはそれでよいことだと思うけれど、「原典」の読解は「難しいだろうなぁ」ということも思う。
蛙自身が「読み返せそうにない」だろう。それだけのエネルギーがない。
マルクスの著作で「聖家族」というのがあるのだけれど、確か、そこで読んだ話だったと思うのだが、ウチの書庫をひっくり返して探していたけど、見つからなかった。
記憶によれば、そこでは「私らは果物を食べるというけれど、実際には『りんご』『みかん』『はたんきょう』などなど具体的な『個物』を食べることをもって『果物を食べる』ということになるのだね」っていうような話があった。
私らは、「ことば」を交換することで、お互いの「想い」を「交感」しあうのだけれど、その「ことば」の持つ「構造」、言い換えれば「人間が処理する情報の処理コード」に深い注目がなされているわけではない。
「ことば」は「外界」に「存在する」「こと」や「もの」に「名前を付ける」ことから始まるのだが、その「こと」や「もの」の「等質性」に着目して、それらを「一括り」にする「抽象力」ということによって、ひとつ「位相」のランクをあげた「新しいことば」もまた「作られる」ことになるのであり、それはまた「等質性」だけに「着目」するのであるから「本質的でないもの」を「捨象」することによって成立するということでもある。
そういう風にして「ことば」は成立をする。
「具体的な」、つまりは「目にみえるもの」としての、一個一個のりんご、一匹一匹の犬、それらはひとつとして同じものでないにも拘らず、感覚のところで、人間にとって「同じもの」として認識をされるので、「ひとつの言語世界(『日本語世界』とか・・)」で「そのような音韻・記号」によって「共有」される。
「果物」とか「ペット」とかという概念は、「集合」に名付けられた「名前」であって、それ自体は「人間の脳の中」にしか存在をしない。
そうではあるが、実際に「リンゴを食う」「犬と遊ぶ」といった行為がその概念の「実在性」の根拠になる。
確かに「果物を食べた」のであり「ペットと遊んだ」と言えるわけだ。
さて漸く「マイノリティー」という話になる。
いつの頃から「マイノリティー」などということが言われるようになったのか、不勉強で、よく分からないけれど、蛙が解放運動に参加した30年ばかり前には、そのようなことはあまり言われなかったと思う。

「先住民族」で検索して色々読んでみたら、

8月9日の国際先住民族の日は、1994年の国連総会で決定された国際日。1982年の通称国連人権小委員会において、第1回の先住民作業部会が開催された日に当たります。

てな文章もあった。
不確かな記憶だけれど、1992年にコロンブス500年記念行事に抗議する大きな運動があったように思うが、80年から90年頃に「先住民問題」を軸に国連で「マイノリティーの人権」が大きく取り上げられるようになったのだろう。

「マイノリティー」とは「ある集合」に名付けられたものだ。
その「一つひとつの要素」の「共通するもの」によて「一括り」とされて、「ことば」として「成立」しているのであるし、その「共通するもの」といえば、ひとことで言えば「被差別」ということになるだろうと思われる。

そう思うのだけれど、その「使われ方」には蛙は納得がいっていない。
(つづく)

次回にご期待を。

2009-11-12 18:25:45 | 日記
「ちーと難しい話にしてしまったなぁ」って思って、3日間なんてゆうたんだね。
蛙は常時使ってるノートだけど、実に「こまぎれ」な時間しか応接でけない。
会社勤めで「痛勤時間」含めて10時間は「ロス」。
そのせいで「銭金」には困らないんだから「ロス」ってのも変かも知れないけど。
3日もあればちゃんとしたこと言えるかなぁなんて考えてのことだったんだけど、色々グチャグチャ考えてたりはした。
で、やっぱり、結局、なかなかまとまらないんだけどね。
「下手の考え休むに似たり」ってところかなぁ。

Netって無責任でもいいんだってなことゆうたから、向学さんから酷く怒られちゃった。
向学さんにしても蛙にしても「無責任な発言はしない」ってこと、態度として表明してきていると思うけれど、蛙は「間違ったからといって責任を追及することはないですから、できたら自由なコメント、お願いします」ってことで、そんな風にゆうたわけ。

Net上での無責任な発言、とりわけ「差別的な発言」や「個人攻撃」だけど、蛙個人がその「槍玉」にあがったことがないせいか、「御勝手にどうぞッ」ってな、お気楽な気分なんだね。
「人の口に戸は立てられぬ」って昔からゆうじゃない。
勿論、程度ってこともある。
限度を超えたものには「反論」や「法的制裁」ということを考えなければならないこともあるだろうとは思う。
蛙のブログ、「幸いなこと」かも知れないけれど、メッチャ「マイナー」らしいから、「攻撃」に晒された経験が無いんだ。

それはさておき、結果、向学さん以外からのコメントは無かったので、ちょっと残念な気分だね。
もともと「設問」自体、蛙自身「自分の考えも表明しないままに」だったんだから、無理なこと、ゆうたのかも知れないと思ったりもする。

向学さんからコメントで指摘された<沖縄が抜けてるんじゃない>てのはまことにごもっともな話なんで、これは「キーボード」打ってる勢いで抜けてしまったってこと。
それ以上の話じゃない。
「<障害者>をマイノリティの範疇にいれることには賛成しかねるのですが・」というのは、どういう意味か、ちょっと考え込んでしまうところ。
「誰だって<障害者>に<今すぐなる>可能性もあるし、いづれ加齢にともなって<そうなる>はずなんだから」という話なら分からない話ではないけれど、それでも、蛙は「マイノリティ」に「数えるべき」だと思っている。
この「問題」については次回で。

コメントしてね。

2009-11-09 18:12:18 | 日記
「ことば」ってことを考えていると、実に多岐にわたって「思考」が発散していくのだけれど、まぁ、思いつくままに続けよう。
蛙が「嫌い」な「ことば」のひとつに「マイノリティー」ってぇのがある。
みんなは「これ」をどんな風に受け止めてるんだろう。
「反対語」は「マジョリティー」なんだろうけれど、これを「多数者」「少数者」なんて対比ということにしたら「おんな」は「マイノリティー」でないことになるよね。
そりゃ事実に反する。
普通、「社会的弱者」みたような理解がされるんだろうか。
「被差別」を「弱者」なんて位置づけるのは「差別者側の思想」なんであって、蛙が考えるに、「我々」はちっとも弱くないはず。
「アイヌ」だって「障害者」だって「在日」だって、なんだってかんだって「弱者」と呼ばれる筋合いはないはずだ。
ここにあげた誰もが「あんたは弱い」と言われて腹立たしい想いを持たないものはいないだろう。

と、ここまで書いてきて、蛙の想いを続けようと思ったが、この「ブログ」を読んでいただいている人たちが「マイノリティー」という「ことば」をどんな風に考えておられるか、コメントしていただけたら有難いと考えた。
Netなんて「無責任」なもんなんだから、ご遠慮なしに「何か」コメント書き込んでちょうだい。
ずるいような気がせんでもないけど、三日間、待ってます。

今日は2本目だけど

2009-11-08 18:11:44 | 日記
「黒川みどり」批判ということが念頭にあるのだけれど、読みかけている「本」が実に読みづらいので、なかなかページが進まないんだね。
向学さんからは、ちと「せっつかれてる」って感じで、お互い「残された時間」も少ないんだから「頑張ってよ」って気持も分かるということはあるけど…
もともと蛙は「学校教育」でも「社会科」ってのが大ッ嫌いだった。
それが「受験」の「ためだけ」のものだったのだから当然な話だったんだけど、出会った「教師」のせいってこともあるんだろう。
狭間先生や石塚先生のようなら、も少し違ったかも知れない。
ほいで、それだから、その「反動」か知れないけど、蛙は「科学少年」として育ったわけで、今でも「量子力学」とか「宇宙論」、「生命科学」といった方面、そういうのを勉強してるのが「至福の時」ってことになってる。
そんな話なら3時間でも4時間でも喋ってて飽きないだろうね。
で、そういうのって「実生活」の場面で殆ど役に立たないんだわ。
(全くってわけじゃない。自身の実践面での考え方において「方法」として随分力になっていると思ってはいるけれど。)
蛙が最も尊敬しているのは花崎晃平さんなんだが、それは「何故か」といえば、自分の「思想」「学問」と自分が毎日生きている「実生活」とを「ひとつこと」として追求されておられるからだね。
黒川女史に限らず、「部落史」を「専門」とする「全ての学者」においては、蛙が見てきた限りには、「未来を切り開いていく実践活動」と切り離されて、「学問は学問」という立場が宣言せられているかのようだ。
「そんなものはクソの役にも立たない」ってのが蛙の立場で、向学さんの場合、「そりゃ『学問』としても事実に反するし、却って『差別』の拡大再生産につながるんではないか」ってことになるらしい。
蛙は「読了後、まとめて」って考えているわけで、今のところ、著書の五分の一くらいなんだけど、三重の「歴史的事実」の「検証」ということらしいが、「博士課程」の「論文」ということでは(蛙には縁のない話だけど)微に入り差異を穿つものとして「高得点」を得ることはできるのかも知れないと思う。
で、蛙の場合、「それに何の意味があるの?」って根本的な疑問があるわけだ。

現在の「学」自体に対する「絶対的な不信」ということだね。

重要なことは「世界の解釈」でなく「世界の変革」ってことだと思う。