続・蛙独言

ひとりごと

8月の終わりに

2011-08-30 10:57:21 | 日記
8月も終わろうというところですね。
ツクツクボウシも啼き始めました。
こいつの鳴き声ですが、「ホーシツクツク ホーシツクツク・・・」と始まって、「カターキーヤス カタキーヤス・・」てな具合に終わるんですよね。
蛙の本名の方が「ヤッサン」ってわけで、「なんでおいらが仇なんだよッ!」なんて子どもの頃から、ずっと不満に思ってきましたわ。
夏の終わりから秋にかけて「キノコの季節」になりますが、おとついまで何も無かったウチの庭に、真っ白でメッチャ立派なキノコが三本ばかり…
ネットの「キノコ辞典」などを見ているんだけど、なんて名前なんか分からない。
背丈は10センチばかりだけど、傘の径が20センチ近くもある。
この庭も30年以上なんだけど、こんなのは初めてのこと。
不鮮明だけど、画像を貼り付けたから、名前が分かる方があれば教えてね。

福島辺りから放射線と一緒に胞子が飛んできたのかしらん。
菜の花とかひまわりとかが、放射性物質を吸収して土を浄化するなんてことが言われたりしますが、動物にしろ植物にしろ、全ての生物は放射能を「吸収」するんだよね。
例えば「稲藁」だけど、人間が撒き散らした「放射性物質」をため込んでしまう。
それを牛に喰わせれば、人間にとってはやばいことになる。
なんでもかんでも「人間」を中心に考えるから、「困った話」になるわけで、「地球」とか「自然」とかを中心にすれば、これは、何千年何万年かけての浄化作業なんだ。
「人類はもう滅びるほかないのではないか」とはこれまでもずっと思ってきたところだけれど、自分から「死滅の時期」を早めるような愚かなことをしでかすんだから、開いた口が塞がらないよね。
制御不能な「機械」を作ってはいけないよ。
「地球」あるいは「物質」が形成される時に、「不安定な同位体」が生まれる。
原子番号は同じでも、中性子の数が多かったり…
それらのものは「安定的な元素」に戻るために、「崩壊」して放射線を出す。
太古の昔、まだ人間が存在する以前から、自然界はそのようなものであった。
自然界に存在する「放射能」によっても「全ての生物」はその「DNA」を傷つけられる。
現在、「存在する生物」は全て、「損傷したDNAの修復機構」を発達させてきた。
逆に言えば「修復機構」を獲得した生物だけが生き残ってきた。
ところがである。
この「愚かな人類」は自然界の放射能の何層倍もの放射能を撒き散らし続けてきた。
現在、「癌」が大きな問題になっているけれど、これは、「広島・長崎」の原爆投下や、何遍も繰り返されてきた「核兵器実験」によって、拡散された放射能のせいなのだと蛙は思う。
今回の「フクシマ原発事故」では、「ヒロシマ・ナガサキ」で排出された「放射性物質」の何百倍もの「もの」が出され続けている。
「収束」などというが、それは本当に可能なのだろうか。
少なくとも「福島」は何十年にもわたって「人の住めない土地」になるのではないか。
なんという悲しい話だろう。

昔の映画、見たくなって

2011-08-27 17:11:51 | 日記
なんかこう、昔見た映画を見たくなって、「マルコムX」を買ってしまった。
Amazonで、「税込1178円」だったから、これは安い買い物だ。
93年公開と書いてあるから、18年前に見たんだろうね。
改めて見直してみてもメッチャ「いい映画だなぁ」って思う。
デンゼルワシントンが見事だ。
音楽もいいし、ダンスも素敵だ。
マルコム暗殺の後、実写でキング牧師の「メッセージ」が入っていたり、ラストではネルソンマンデラの反差別の闘士を悼む「演説」があったりってのも凄いと思う。
マンデラが大統領に就任する2年ばかり前の映像だ。
3時間20分という長い映画だけれど、魅せられて、その長さを感じさせない。

デンゼルの映画を初めて見たのは「遠い夜明け」で、南アのアパルトヘイト反対闘争が舞台だったんだけど、リチャードアッテンボロ監督作品ということだったから、大いに期待して見に行ったのだ。
1987年だったらしい。
この時、アパルトヘイトに反対する闘士・ビコ役を演じたデンゼルにも凄いなぁという印象を持ったものだ・
これも相当長い映画だったけれど。

もうひとつは、プロボクサー「ハリケーン」の「冤罪」を扱った映画だが、デンゼルは役作りにボクシングのトレーニングでも随分頑張ったようだし、ボクサーって殆ど裸なんだから、その「体型」づくりも、たいへんだったろうなぁ。

この「映画」の重要な場面で、ボブディランが「冤罪をはらすために」唄った歌が入っていて、「ほいじゃ、石川さんの冤罪を晴らすためにボブに「狭山の歌」を唄ってもろうじゃない」って話になって「GoGo岸本ッ!」という企画がされたんだった。

あれからもう10年以上になるんだなぁ。

「仮設」へ

2011-08-24 12:11:18 | 日記
震災から5カ月が経ったわけだけど、なお、避難所の生活は続いているようだ。
ボランティアによる「ダニ退治」清掃から最近では「カビ対策」が問題になっているとかニュースで伝えられたりしている。
前にも書いたかと思うが、避難所などというところでは、とても長期にわたる生活は維持できるものではないのだ。あまりにストレスが大き過ぎる。
現在、どの程度、避難所から仮設住宅への移転が進んでいるのか、こちらからはうかがい知ることができないが、被災地協働センターや「もやい」からの情報では、ボランティアの活動先は「仮設」へ重点が移されてきているように見受けられる。
仮設住宅の建設や入居を巡っての諸問題で、神戸での経験は皆目生かされていない。
避難所では比較的近隣の人々が集合することになるが、仮設入居は「くじ引き」になるので、これは「コミュニティの解体」ということに結果する。
高齢者など、「災害弱者」の「優先入居」は、「良い話」のように見えて、実はそうではなかった。
「仮設住宅」の運営にはそれなりのリーダーシップが求められるからだ。
また、仮設建設の用地の確保も難しいことが多いわけで、これまでの「生活圏」からは途方も無く離れた場所に居住を強いられるケースも多かった。
「買い物」や、とりわけ、「かかりつけの病院」への通院には、随分、苦労をさせられていた。
びっくりしたのは、今頃になって、冬季に備えて「断熱材」の仮設への設置がやられているという情報だ。
そんなこと、初めから分かっていたはずだから、最初ッからやっておけば経費的にも安くついたはずではないか。
殆どの場所で、住宅建設には向かないような場所に「仮設」が建てられるケースが多いから、たいてい「砂利」舗装の上に建設がされるけれど、これは車いすには向かない。
また、玄関の小さな段差も高齢者や障害者にとっては大きな障害になる。
神戸でも「その段差の解消」はボランティアによって取り組まざるを得なかった。
どうすれば過去の経験が生かされたのだろうか。
蛙が思うに、ひとつには、仮設を準備する行政の側に、普段から「大災害に備えるシュミレーション」がなければならないということだろう。またひとつには、被災住民の側に「強固なコミュニティ」が建設されていることも必要なのだろうと思われる。
例えば、長田の被差別の場合、高層市営住宅も全壊したのだけれど、これは「災害救助法」に言う「仮設住宅建設」ではなく、「公営住宅法」を活用して、「被災地」に「2階建て」の仮設を建てさせることに成功している。黙っていて出来たわけではない。同盟の「がんばり」がなければ実現は出来なかった話なのだ。
残念ながら、「住宅入居者」以外の「地区住民」用の仮設住宅建設にまでは結ぶことはできなかったけれども。
「救助法」によれば「2階建て仮設住宅」の建設はできないようだが、そんな「法律」はなんとしても変えなければならない。
そして、「入居者側」の「コミュニティの団結力」の強さで、まとまった形での入居計画が進行するように働きかけなければならない。
それだから、「災害時」ではなく「普段のコミュニティ力」の強化に断固として取り組む必要があるのだ。
地域に組織される「自治会」は往々にして「行政の下請け機関」である場合が多いけれど、「地区」に限らず、一般に「地域住民主体の行動組織」として普段から鍛え上げて行かなければならないのだと蛙は思う。
そうは言っても、現況がこのようであるからには、分厚い「仮設支援」の活動はとても重要なことになっていくだろう。
「仮設」に入居した途端に、「孤独」に苛まれることになるからだ。
生活も「行政からの支援」が途絶えることになるから、たいへんなことになる。
「孤独死」や「アル中」など、あまりに悲惨な経験を繰り返すことになってはならない。

お盆とか...

2011-08-20 12:32:19 | 日記
蛙の辞書には「盆」とか「正月」という「ことば」はないのだけれど周囲の人々ときたらなんだかんだと忙しそうに振舞っていて、いたしかたなく「手抜きのお付き合い」というところだったんだね。
今年も「墓参り」だってしなかったけれど、先に逝ってしまった両親や兄、それらに繋がる脈々と流れる「生命(いのち)」の「全て」は、蛙の外にはなく「内側」にあると思っているからなんだし、親鸞だって「父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて一返(いっぺん)にても念仏まおしたることいまださふらはず」なんて言ってるもんね。
いいんじゃないかなぁ。死んでしまったら帰ってくることはできないみたいだし…
若いときには一度「自死」を思ったこともあったし、事故などで三度ばかり「死の直前」までいったこともあったんだが、その頃だったら「自分の死」を納得して受け入れることはできなかったような気がする。
そういう訳だかどうだか知れないけれど、どうにかこうにか「ここ」まで生きてきて、たいしたことも為した覚えはないけれど、蛙の周囲は取り敢えず元気そうであるから、明日の日に終わりを迎えても、さしたる感慨もないというところだわ。
だけど、今回の震災・津波のようなところで命を落とすなんて、本人にしても身内にしても「とんでもない話」だったろうね。
そのような「命の終わり」を「受け入れる」ことは生半(なまなか)なことじゃできなかろう。
たくさんの「時間」が必要なのだろうね。
それに、その「死」を「無駄」なものにしない「残された側」の責務が「果たされる」ことが求められているのだろうということも思う。
「生きること・死ぬこと」について、柳澤桂子さんや中村桂子さんの本からたくさんのことを教えてもらったと思う。
多くの人に読んでもらいたい、とりわけ「現在」=「生きることの困難が層倍化している時代」では必要な智慧がそこにはある。

にしても、「フクシマ」から垂れ流され続ける放射能汚染は、日を追うごとに一層、厳しく深刻化していくようだ。
蛙が為すべきことはあるのだろうか。

バタバタと...

2011-08-10 17:25:20 | 日記
最近、こちらの更新が止まっていたりで、一部からはご心配をいただいているけれど、蛙はいたって元気ではある。
バタバタとちょっと慌ただしかったんだね。
5日の日には、神戸アートヴィレッジセンターで「幸せの太鼓を響かせて」って映画が「最終日」だというもんだから、見に行ってきた。
長崎の障害者「和太鼓」集団・瑞宝太鼓のドキュメンタリーなんだね。
とても良かったんで、機会があれば見ていただきたいと思う。
中身は「幸せの・・・」で検索していただければ、どんなだか分かる。
せっかく新開地まで行ったんだからと考えて、「被災地NGO協同センター」の事務所も覗いてきた。
あの大忙しの村井君が、たまたま居合わせてくれたもんだから、ちーと「意見交換」。
出発点は違うけれど、「思うところ」は非常に似通っている二人だから、結局、「ため息」なんだけれどね。
直ぐにまた「遠野」行きなんだ。
彼の本を2冊買ったんだけど、細川さんが「せっかくだからサインしてもらったら」なんて言うもんだから、「絆」という「ことば」を含めて書いていただいた。
「絆って、今、はやりで、なんかメッチャ軽く使われてるから、あんまし、好きやないんやけど」なんて蛙はゆうたんやけれど、そりゃ、蛙の「実践の軽さ」なんだろうなって今は思い返している。
ソフトバンク新書から「災害ボランティアの心構え」(730円+税)は手に入りやすいから是非「買って」読んでください。
実に「いい本」だ。
しかしほんとに彼がこれまで積み上げてきた「仕事」の実績は大きいなぁと思う。
「目あて」は「親鸞」という辺りも蛙と同しだわ。

夜は、初めて会う友人を含めて「飲み会」。

7日は、「狭山・兵庫集会」で、久しぶりに石川さんたちと少しだけどお話できた。
「第三次再審」もおおきな局面を迎えることになる。
本腰を入れ直してってところだね。

8日から今日まで、ツレアイに実家に行ってきた。
関東在の息子ンチと広島のジッチャンバッチャン・イトコたちとSkypeで結ぶ「設定」をするために、というのが一番の目標だったんだけど、きれいな画像で安定した「処理」ができていて、よかったというところ。

まッ、暑さは「いやます」という感じだけれど、ボチボチ、やりましょうね。
みなさん。