蛙の「問題認識」は根本のところで、多分、他の誰とも違っているので、なかなか「討論」は成立しないし、それだから殆ど理解も得られないのである。
例えば、蛙はこう言う。
「差別者の、あの凍りつくような強張った嘲笑を支えている〈もの〉は、実は、の側のあまりに哀し過ぎる〈弱さ〉以外なにものでもないのだ」と。
それからまた、こうも言う。
「差別者もまた〈世界〉から〈疎外〉されている自らを救う術を知らず、孤立感に苛まれている存在であり、自身が〈弱者〉と看做す〈対象〉を恣意的に選択しそれを攻撃することに拠ってのみ〈自己確認〉し得るという〈錯認〉に囚われているに過ぎないのだ」と。
「差別者」側からの陰湿な差別攻撃を我々の全てが「笑い飛ばしてしまう」くらいな偉力(ちから)を持つことができたら、どんなに素敵だろうか。
〈悲しみのどん底〉でうち震え、孤立している「差別者」を懐深く抱え込んでいくような、そんな偉力(ちから)を我々の全てが持つことができたら、どんなに素敵だろうか。
それは「夢物語」なのかもしれない。
少なくとも、「被差別民」は歴史上一度も「身分」であったことはないし、現に今も〈賤しい存在〉である筈も決してない。
ただ、「被差別」に生まれた我々は「ものごころ」もつかぬ内に、その柔らかな肌に「貶められたもの」という〈烙印〉を焼き付けられるので、それを撥ね返していく、如何にも困難な〈個人的闘い〉を強いられる。
蛙は住井すえが嫌いだから「橋のない川」を読んでいないが、その中で「は治るん?」という話が出てくるらしい。
で、浜野などは冗談めかして「わし、もう『』、治ってん」などとゆうたりする。
今のところ、この国では「被差別」に生まれた人間は、苦闘の末に〈対抗する偉力〉を自分で手に入れる他ない。
それは誰にでも〈可能性〉は開かれてはいるが、多くの人に可能かといえば、難しいという他ない。
何故かならば、第一に「問題がそのようには立てられてはいない」からであるし、それだから「公教育」の中で最悪の「自意識」が埋め込まれていくことを阻止し得ない仕組みになっているからだ。
「解放」の前途は、未だ「暗く」、その〈方策〉を我々はなお手にはしていない。
景気づけの「ことば」はある。
「夜明けの来ない夜はないッ!」
蛙としては、その「ことば」をお題目にしながら、自身の信ずる〈途〉を慎重に歩んでいくだけだ。
例えば、蛙はこう言う。
「差別者の、あの凍りつくような強張った嘲笑を支えている〈もの〉は、実は、の側のあまりに哀し過ぎる〈弱さ〉以外なにものでもないのだ」と。
それからまた、こうも言う。
「差別者もまた〈世界〉から〈疎外〉されている自らを救う術を知らず、孤立感に苛まれている存在であり、自身が〈弱者〉と看做す〈対象〉を恣意的に選択しそれを攻撃することに拠ってのみ〈自己確認〉し得るという〈錯認〉に囚われているに過ぎないのだ」と。
「差別者」側からの陰湿な差別攻撃を我々の全てが「笑い飛ばしてしまう」くらいな偉力(ちから)を持つことができたら、どんなに素敵だろうか。
〈悲しみのどん底〉でうち震え、孤立している「差別者」を懐深く抱え込んでいくような、そんな偉力(ちから)を我々の全てが持つことができたら、どんなに素敵だろうか。
それは「夢物語」なのかもしれない。
少なくとも、「被差別民」は歴史上一度も「身分」であったことはないし、現に今も〈賤しい存在〉である筈も決してない。
ただ、「被差別」に生まれた我々は「ものごころ」もつかぬ内に、その柔らかな肌に「貶められたもの」という〈烙印〉を焼き付けられるので、それを撥ね返していく、如何にも困難な〈個人的闘い〉を強いられる。
蛙は住井すえが嫌いだから「橋のない川」を読んでいないが、その中で「は治るん?」という話が出てくるらしい。
で、浜野などは冗談めかして「わし、もう『』、治ってん」などとゆうたりする。
今のところ、この国では「被差別」に生まれた人間は、苦闘の末に〈対抗する偉力〉を自分で手に入れる他ない。
それは誰にでも〈可能性〉は開かれてはいるが、多くの人に可能かといえば、難しいという他ない。
何故かならば、第一に「問題がそのようには立てられてはいない」からであるし、それだから「公教育」の中で最悪の「自意識」が埋め込まれていくことを阻止し得ない仕組みになっているからだ。
「解放」の前途は、未だ「暗く」、その〈方策〉を我々はなお手にはしていない。
景気づけの「ことば」はある。
「夜明けの来ない夜はないッ!」
蛙としては、その「ことば」をお題目にしながら、自身の信ずる〈途〉を慎重に歩んでいくだけだ。