続・蛙独言

ひとりごと

保存のために 3

2020-06-05 17:46:27 | ひとりごと

保存のために

「続・蛙独言」 3

一から始める蛙の解放理論 3

花崎皋平さんの「アイデンティティと共生の哲学」(平凡社ライブラリー)から引用しよう。

差別は被差別者の特性や固有性とほとんど無関係である。つまり、その標識は恣意的にえらばれる。差異をあげてその価値づけを理由にするのは、「差別」の仕組みそのものをみえなくさせるための差別者側のワナである。「差別」の本質は、特定のカテゴリーの人びとの「排除」にあり、「排除」の目的にかなえばその標識はなんでもよいのである。女性が男性から差別されるのは、女性としてのあれこれの特性によるのではなくて、男性でないからである。同一性に対して非同一性のカテゴリーに位置づけるのである。
この場合、重要なのは差別する側がカテゴリーを設け、それに命名する権利を独占しているという非対象の関係である。差別する者と差別される者との関係は、名づける者と名づけられる者、区分する者と区分される者という関係である(p218)

花崎さんはもう78歳になられるから蛙とは一世代以上も違うことになるが、直接的でないけれども「書かれたもの」を通じて40年以上も前からの「お付き合い」になるわけで、似たような発想になるのだろう。
もっとも、蛙の生き方など中途半端そのものだから、その「思想」とその具体的な「日常生活」の徹底的な一致を目指された彼の生き方とは較べるべくもないけれど。
彼の場合、日常的には「アイヌ問題」との直接的な関わりということになる。
引用を続ける。

「差別の論理」を支えるこの関係は完全に一方的であるから、区分の特徴は恣意的であって差しつかえない。また、差別する側は自分については自明であるから名づける必要がない。すなわち、差別者のカテゴリーは無徴性であり、被差別者のそれは有徴性である。そのさい、あたかも被差別者側の「実在的な差異」が有徴性の根拠であるかのように関係を指定するのである。ここからあれこれの差別がなぜ不当なのかを理由づける挙証責任を被差別者側に押しつけるという転倒がおこる。この関係そのものの不当性と非対称性を暴露し、問題はカテゴリー権の奪還にあることをあきらかにすることが「反差別」の論理である。(p219)

この後、「要するに多数者の自己定義は『差異ある者(アイヌ)を除いたあとの、それ以外のわれわれみんな』というかたちをとっているのである。」(p220)といった展開になっている。

蛙は、一般的な「差別の論理」と特殊「差別の論理」とは「集合の全体と一要素」の関係のように捉えていて、その具体的な「在り様」を考えていこうと思うのだ。

 

一から始める蛙の解放理論 4

2009-10-29 17:21:08 | 日記

話し始めると支離滅裂で、あっちこっちに飛んで行ってしまうのだけれど、商売でやってるんじゃないから、読む人の迷惑を顧みずってことで続けていこう。
ごめんなさいね。

差別―被差別の「非対称性」については「旧ブログ」でも書いていたのだけれど、頭に来ていたのは「両側から超える」という「文言」が「解放運動」の一部でもてはやされていたからなんだ。
藤田敬一氏などは、「は実体概念ではなく関係概念である」などと言いながら、「両側」などということを言っているのは、自身、「自爆している」のに全然気づいていないんだろうと蛙は思う。
「両側」という規定は差別者だけがそのように認識するのだと蛙は考える。
花崎さんからの引用でも、そのようになるだろう。

は「実体」としては「無い」、藤田氏に倣えば「関係性の中にしか無い」、蛙の言では「他称語」でしかない、というのであれば「両側」などという「概念」は成立しない。
「両側から超える」ということを言う人は、多分、差別者も差別はやめなければならないが、被差別者も「誤った考え」や「克服すべき弱点」もあるのだから、双方が「きっちり」しなければってなことなんだろうか。
差別者も被差別者も「正道を歩まなければならぬ」なんて意味なら、当たり前な話なんであって、それを殊更、かっこつけて言うようなことでもなかろうに。
藤田氏はご丁寧に「同盟」の内部の「間違った考え」の事例を数え上げてご教示してくれているが、それは誰よりも「同盟」の内部で誠実に運動を進めようとしている少なからぬ人びとが歯噛みする想いで考えていることなのだ。
例えば奈良などでは、不幸な「運動の分裂」などがあるようだけれど、藤田氏は一方の側に「肩入れ」をしているように蛙には見える。
蛙は「事情を知らない」から、ただただ誠実な努力の積み重ねで「再統一」の一日の早いことをと祈るばかりだが、「分裂」の「裂け目」を更に深くするだけのような行為はやめてもらいたいものだと思う。

ついでに、以前にもゆうたことを再度言っておきたい。
藤田氏は、朝田善之助らとの酒席で杯がまわってくる時、「震えがとまらなかった」と言い、それが「自身の成育歴の中で、ことに家族から受け取った差別意識のせいだった」とし、その後「の人びととの交流を通じて差別意識が氷解した」というようなことを言っている。
蛙には皆目理解できない話だ。
なぜ「震え」なきゃなんないんだ!
「の人間」と仲良しになったら「差別意識」はなくなるんか?
蛙には、藤田氏について「自分自身を問う」深い思索が全く感じられない。
それだから、今でも藤田氏の「ものいい」の態度がいかにも「人を馬鹿にしたような」風になるのだと思うのだ。
蛙は、なによりも「謙虚さ」ということが、誰にとっても大切なことだと思うのだけれど。

 

一から始める蛙の解放理論 5

2009-10-30 18:22:02 | 日記

生意気な言い方だけど、にしろ解放同盟にしろ、蛙は一度も「差別」を本質的に捉える「理論」を獲得することはなかったし、それだから「完全解放の道筋」を一度も提示できなかったと考えているのだね。
勿論、蛙にだって「できる」話ではないのだけれど、「そうなのだ」って自覚は大切だと思っている。
それでも、にしても同盟にしても「存在意義」はあったんだ。
何よりも、圧倒的な「量」である「差別者集団」(『敵手』は『全体』なんだから)に抗して、「吾等の団結だけが『それら』に抵抗していく威力(ちから)なのだ」という共通認識。
これは重要なことだったんだ。
人間、「一人ぼっち」って「感覚」ではとてもじゃないが「やってられない」よ。

「被差別・民」以外は知らないだろうけれど、「この地域」に生まれおちた「人間」は、まず最初に「訳の分からぬままに」自身が「そのように呼ばれる民」であることを「思い知らされる」のだね。
そしてそれは、「自分のムラ」だけが「特別視」されているかのように「思わされる」し、そのようであるからして、「多分、こんな感覚を抱かされたことを親・兄弟姉妹にゆうたら、きっと悲しい想いをさせるに違いない」って思うから、ずっと「胸の内、奥深く」にしまって置こうという風に反応するんだ。
長じて「解放運動」に「出会った者は幸いである」と言える。
でなければ、「鬱屈する想い」は消えることが無い。

「出会った人間」は、まず、「この問題」が「自分のムラ」だけじゃないんだ、全国に「これだけ多くの『同じ想い』を持った仲間がいるんだ」ってことに気付かされる。
69年に天理市で「全国奨学生集会」が開催されて、ここに参加した出身高校生達が「次代」の中心的な「活動家」に育っていったのだろうと蛙は考えている。
40年前になるのだから、このメンバーは、「その時の感動」を腹の底に据えて「一つの時代」を作ってきたし、「彼ら」の果たしてきた役割の評価も大いなるものであったのだけれど、蛙は、「この後の展開」に大きな「疑問符」を感じている。
「自分ひとりじゃない、大勢の仲間がいるんだ」ということは勇気にはつながるが、そこのところからの「一歩」を、今のところ、誰も「指し示してくれてはいない」のだから。

蛙にだって、よくは分かっていない。
ただ、「分かっていない」ということを「認識」することは大事なんだと思う。

本年3月の同盟の大会で、「派遣村に荊冠旗は立っていたのか」という質問をされた方がいた。
納得のいく回答はなかったが、「この時代・この局面」で同盟が「何をなすべきか」、もっと全般的な視野の中で、手探りでもいい、頑張っていくことが「楽しい」、そういう「闘い」を構築していかなければならないのだろうと蛙は思うのだね。

 

「反貧困」を読んだ。

2009-11-01 22:08:46 | 日記

「反貧困」(湯浅誠・岩波新書)は是非読んでおかなければ、なんて思ってたんだけど、蛙が本屋を覗く度に縁が無いというか、なかなか手に入らなかった。いくらでも方法はあっただろうけれど、多分、書かれている内容は蛙の想像の範囲内のことと考えていて、「いつでもいいやッ」ってくらいな気持ちだった。
漸く巡り合えて読み終ったところなんだが、その「頑張り」とか「思想性の高さ」とか、想像の範囲内とはいえ、なかなかなものだったと思う。
例えば「多重債務問題」や「生活保護申請相談」など、蛙が取り組んできた「仕事」と少しは重なるが、そのスケールの大きさとか「意味の違い」など、考えさせられることが多かった。
「福山全研」で「差別・貧困・格差を打ち破る・・」という三つの語句がかくも簡単に並列されることに違和感を覚えたと記したが、「ここ」は難しい話になる。

蛙は自分でも思うのだけれど、悪く言えば「第一主義・排外主義」の傾向が無きにしも非ずというところがある。
「内向き」なんだ。
「自分のムラ」や蛙の手の届く「範囲内」でパーフェクトを目指そうとしてきたのだから、いた仕方ないということもある。
ただ、自身の行為の意味を、世界―日本経済、或いは社会史的な中で、考えていかなければならないとは思っていた。

「差別」と「貧困」とは「次元」の違う「問題」であり、「格差」とは「二種類の問題」なのだということも思う。
それらの構造的な連関を解き明かしていく作業は手順に上っていない。

今のところ、「派遣村に荊冠旗がたつことは無かった」し、「派遣村」には「マイノリティ問題」を考える余裕など無かったのだけれど、それなりに「力」を蓄えてきた「解放運動」の側から「次元を超える取り組み」があってしかるべきだろうし、蛙も何がしかの努力はしていかなければなるまいとも思う。

 

一から始める蛙の解放理論 6

2009-11-05 18:44:55 | 日記

「強くなければ生きてはいけない。優しくなければ生きていく値打ちは無い。」なんて台詞があったような気がする。
蛙がゆうたんでは似合いも映りもせんけど、高倉の健さんあたりがゆうたら「かっこえぇ」んじゃろうけどね。
「解放運動」の「現場」なんてのにおると、「問題は『の問題』ではない。『を差別する人』の側の問題なのだ」だとか、「女性差別の問題は男性の側の問題」「障害者差別は健常者側の問題」なんてことを何遍も何遍も聞かされるわけだ。
これは全くその通りなんであるが、そういう台詞を百千万回繰り返したところで、蛙はちょっとも前に行けるような気がしない。
それよりか、冒頭の台詞の方が「ずうっと大事なんだ」って思う。

蛙の「立ち位置」では「差別事件」に頻繁に付き合わされることになるのだけれど、「考えていること」と言ったら、「この人」が「ここ」で踏ん張れるかどうか、それだけなんだ。

実際、今の世の中の在り様からゆうたら、「誰かをメチャンコ踏みつけて憂さ晴らしでもしなくちゃやってられないよ」って気分、分からんでもない。
蛙は「差別者を擁護する」ようなこと、言ってるみたいだね。
「擁護」ってことになるのかも知れないが、「憐れな奴じゃなぁ」ってくらいかなぁ。

まぁ、本音はそうなんだけど、「現実的対応」のところでは、「誰からも理解されるような『言い様』や『立ち居振る舞い』の工夫」ってことになるんだ。
味方の筈の「仲間」を「敵」にまわさんようにはしなくちゃなんないもん。

 

 


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