続・蛙独言

ひとりごと

閑話休題

2009-11-20 18:58:12 | 日記
今日は休暇を取った。
昼から「同盟」の会議があったからだけど、明日明後日の「土日」は仕事。
実に変な職場だね。
生活のリズムを作るのがなかなか大変だよ。
会議の始まる前に「週刊金曜日」を読んでたんだけど、「読者投稿欄」に「お金を無くそう」なんてのがあった。
若いフリーターからだったけど、蛙と同しこと、思う人がいるんだって、ちょっと嬉しかったなぁ。
そういうこと言う奴ァ大概馬鹿にされるんだけどねぇ。
「・・金曜日」、蛙は、好きな雑誌でないんであまり手に取ることはないけど、この号は「民主党」の話が特集されていた。大した話はなかったと思うが、どちらかといえば、困難な船出をした「鳩山丸」を応援しようという風だったかなぁ。
「朝日」を含めて「ブル新」の論調は「アラ探し」をすることで読者を煽りたて「興味本位」一本槍って印象で、蛙は酷く不機嫌なんだね。
「新しい政権」に「何かをしてもらう」のでなく、「新聞」を含めて「我々が何を為さねばならないか」、問題は「そこ」にあると思うんだけど。
湯浅誠君も「参与」って形で、この「困難」に立ち向かっているようだけど、長い年月にわたって積み上げられてきた「課題」であるのだから、「こと」はそう簡単に片付くわけもない。
蛙も、小さな場所からだけど、精一杯な努力はしていこうと思う。

「ことば」 5

2009-11-20 11:10:56 | 日記
「障害者」という「ことば」は少なくとも江戸時代には無かったのではなかろうか。
戦後の施策の中でこの「ことば」が使用されるようになったかと思われるが、一般的になるのは3、40年前くらいからだろう。
この「ことば」くらい当事者にとって腹立たしいものはないに違いない。
はなから「邪魔な存在」と名指しされることであるからだ。
色々と「言い換え」がなされてきた。
「障碍者」という漢字が使われたり、「障がい者」とされたりしたが、事態に大きな変更となるものでなかったから、「障害を受けている人」などと言われたりするようになったし、当事者から「ピープルズファースト」ということが言われた。「まず何より初めに人間なんだよ」という意味合いであるだろう。
2002年に第6回DPI世界会議札幌大会が開催されたが、この時、蛙は「DPI」という組織を初めて知ることになる。
「DPI」とは「Disabled Peoples' International」の略で「障害者インターナショナル」という訳があてられるのだけれど、「蛙語」では「可能性を制限せられた人々の世界的団結会議」というところか。
「制限している」のは勿論「現世社会の在り様」だ。
歴史を振り返れば様々なことが言われているが、蛙はいつも「現在形」でしか「もの」を考えない方なので、この「現世社会」の「造り替え」が課題なのだろうと思っている。
「資本主義社会」とは「銭儲け」が主題なのであるから、「障害者の解放」は「資本主義」とは相容れないものだろうが、これは「解消論」でもあったように「まず社会主義革命が先であって全ての闘いは資本主義打倒に結び付けられなければならない」などという馬鹿げた話になってはならないだろう。
伊藤光春さんは「ケインズ思想の原点は『倫理』にある」と言われていたし、「社会民主主義が時代の思想」などということを主張される人もある。
蛙は「グラムシ・陣地戦論」であるが、簡単に言えば「当事者側からの『不断の異議申し立て』と『それ』を支持する人々の広範な拡大が目指されなければならない」ということだ。
蛙はまた「科学技術革命」にもおおきな期待を寄せている。
「ろう者」にとって「携帯のメール機能」は相互のコミュニケーションを少なからず容易なものにしたが、「障害者」全てにわたって、この「革命」は「制限せられた可能性」をますます取り払っていくのではないだろうか。

「障害者」と「一括り」に言われるが、「身体・精神・知的」等々、とてもじゃないが、「一括り」にできるようなものではない。
「一括り」に言うこと自体が「現世社会の邪魔者」扱いなのだということに気付かなければならないと思う。
蛙のツレアイは長く「障害児教育」の現場で奮闘してきているし、娘とその相方も「障害者支援事業所」で働いてきていて、色々と話を聞く機会は多いが、蛙自身は「外野席応援団」の域を出ない。
いづれにしろ、「障害者差別の現場をよく知る」ことが一番大切なことなのだろうとは思うのだが。