続・蛙独言

ひとりごと

新連載 3

2017-02-28 11:58:38 | ひとりごと

中村一成(イルソン)がマイノリティに対する差別の非対称性について書かれたり、発言をされたりしている。

差別者の側と被差別者の側では、その「重さ」は決定的に違うということだ。

差別者の側では、自分の行為や発言は、それほど大したことではないと思っているのに、それを浴びせかけられた側では、死ぬほどの苦しみを味わわされることになる。

 

そんなことは分かりきったこととして受け止められるかも知れない。

 

蛙が解放運動と出会うのは随分遅くて30代なのだが、もう40年も「あれこれ」とやってきて、未だに「確かなこと」をひとつもやり切れてはいない。

 

それはともかく、その頃、よく、「足を踏んでいるものには踏まれている者の痛みは分からない」という言い回しが言われたものだった。

その意味は、差別者を向こう側に追いやるためにではなく、被差別の側に立たしめるためにという風に蛙は理解してきた。

その理解が間違いだったというのではないが、最近、李信恵さんの闘いを見ていて、蛙の想いなどが如何に軽々しいものであったかと思うようになった。

 

彼女は「ネトウヨ」からの激しい「ヘイトスピーチ」攻撃にさらされていて、血を流し涙を流す思いで、実際に嘔吐もしながら、潰れそうになりながらでも正面を向いて闘っている。

彼女に攻撃をしかける「ネトウヨ」のひとり一人が、実は「社会からはじきだされた哀れな人間ではないか」という想いもあってか、相手へ語りかけることを忘れない。

彼女の武器は、その「やさしさ」だけなのだ。

 

話はかわるが、蛙の周りでは安倍自公暴走政権にNONという人ばかりである。

何故、安倍の支持率がこんなにも高いままなのか、不思議だという人は多い。

蛙には不思議でもなんでもないように思われる。

 

この国は今、「奈落の底」に落ちていく、そんな感覚が支配的なのだ。

それだから、現状をちょっとでも変えることが不安なのだ。

 

マイノリティに対する差別が強化されていることも、もともとあったこの国の「いじめ社会」的構造が露わになったということなのだろうと蛙は考えている。

 


「新連載」再開しよう。

2017-02-27 11:26:39 | ひとりごと

2015527日に「新連載」と題して、その1を、30日にはその2を書いている。

6月に入ってからは「食道癌」がらみでの投稿が続いて、そろそろ手術から1年半。

「新連載」の続きを書いていきたいと思うようになった。

そもそも「蛙ブログ」は、niftyで「蛙独言」として書き始めたのだったが、niftyのプロバイダ契約を解除した途端に読めなくなってしまったので、こちらに引っ越ししてきて「続・蛙独言」として再出発をしたのだった。

長い年月がたって、蛙の考え方も少しづつ変わってきたところもあるのかも知れない。

 

最近はパソコンに向かう体力が続かなくて、短い文書しか書けないと思うけれど、「新連載」の続きを次回からあげていこうと思う。


小鳥たち

2017-02-12 10:34:08 | ひとりごと

今日(12日)はとてもいい天気のようだ。

外気温が低そうなので朝からこたつの守りなんだが、蛙ンチの庭には色んな鳥たちがお見舞いに来てくれるので退屈をしない。

お米は「玄米」で入手しているので「家庭用精米機」なんだが、これで出る糠は以前から土の肥やしになるだろうから庭にそのまま撒いていた。

よくスズメたちがそれを食べに来ていたのだけれど、今年はいつも見かけるムクとかヒヨのほかにジョウビタキのメスやシロハラという鳥までやってくるようになった。

何故かよく分からないが、いつもより寒い日が多いから餌になるような虫なども少ないからかも知れない。

カメラを持ち出してきて写真をと思うのだが、安物のカメラだからか、いい写真が撮れない。

取り敢えず、昼飯まで、鳥たちの様子を眺めながら、ゴロゴロしていよう。

 


部落差別解消推進法

2017-02-10 21:28:50 | ひとりごと

元気を出さなければなぁ。

2月に入って、ウチから一歩も外に出ていない。

これではいけないと思って駅前の商工会議所まで歩いた。

税の還付申告書を提出しようと思ったからだ。

 

去年は1月からここで受付ていたのに、16日からだという。

よく確かめもせずに行った自分も悪いが、国の予算の切りつめも酷いもんだ。

 

「差別解消推進法」が成立をしている。

これについて、蛙の考えるところを書いておきたいとずっと思っていた。

小林健治氏の記事をあげておくが、小林氏や蛙のように「組織」に責任をもたないものは「お気楽」に批判はできる。

「組織」にそれなりに責任ある人間であれば、第一に実定法で初めて「差別」が文言として入ったこと、第二に「法」をどのように活用していくべきかといった話になるだろう。

 

同盟中央と広島県連との温度差も気になるところだ。

 

小林氏と蛙の考えはおおよそ似たようなものだが、決定的に違うところは「差別糾弾」についてだ。

差別には徹底的な糾弾をもってするのは基本だ。

法があろうがなかろうが、そのことに変わりはない。

「特措法」時代にあっても、「法」に基づいて糾弾闘争が闘われたわけではない。

差別は許さない、必ず正されなければならない、差別に対する怒りが基底に置かれなければならない、ということであったはずだ。

 

まだまだ、「新しい闘い」は、始まっていない。

 

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