中村一成(イルソン)がマイノリティに対する差別の非対称性について書かれたり、発言をされたりしている。
差別者の側と被差別者の側では、その「重さ」は決定的に違うということだ。
差別者の側では、自分の行為や発言は、それほど大したことではないと思っているのに、それを浴びせかけられた側では、死ぬほどの苦しみを味わわされることになる。
そんなことは分かりきったこととして受け止められるかも知れない。
蛙が解放運動と出会うのは随分遅くて30代なのだが、もう40年も「あれこれ」とやってきて、未だに「確かなこと」をひとつもやり切れてはいない。
それはともかく、その頃、よく、「足を踏んでいるものには踏まれている者の痛みは分からない」という言い回しが言われたものだった。
その意味は、差別者を向こう側に追いやるためにではなく、被差別の側に立たしめるためにという風に蛙は理解してきた。
その理解が間違いだったというのではないが、最近、李信恵さんの闘いを見ていて、蛙の想いなどが如何に軽々しいものであったかと思うようになった。
彼女は「ネトウヨ」からの激しい「ヘイトスピーチ」攻撃にさらされていて、血を流し涙を流す思いで、実際に嘔吐もしながら、潰れそうになりながらでも正面を向いて闘っている。
彼女に攻撃をしかける「ネトウヨ」のひとり一人が、実は「社会からはじきだされた哀れな人間ではないか」という想いもあってか、相手へ語りかけることを忘れない。
彼女の武器は、その「やさしさ」だけなのだ。
話はかわるが、蛙の周りでは安倍自公暴走政権にNONという人ばかりである。
何故、安倍の支持率がこんなにも高いままなのか、不思議だという人は多い。
蛙には不思議でもなんでもないように思われる。
この国は今、「奈落の底」に落ちていく、そんな感覚が支配的なのだ。
それだから、現状をちょっとでも変えることが不安なのだ。
マイノリティに対する差別が強化されていることも、もともとあったこの国の「いじめ社会」的構造が露わになったということなのだろうと蛙は考えている。