続・蛙独言

ひとりごと

その十一

2013-09-29 16:01:06 | 日記
大上段に振りかぶって、「マルクスの時代」から「世界史の現段階」てなことを大雑把にでも書いておこうと思ったものだから、脳味噌が爆発してしまって更新がストップしてしまった。こういうのを「フリーズ」って言うのかも知れないね。
ただ、そういうあたりが共通の理解ってことにならないと、「もつれた糸」を解きほぐすことができないという想いはある。
これまでのところ、「解放運動」を語るに、論者の全てにおいて、そういう視点があるようにはとても思えない。
「爆発してしまった脳味噌」の「切れ切れ」を拾い集めて、「ひとりごと」らしく「脈絡のない話」を続けていこう。

「共産党宣言」は1848年であったから、既に160年以上も前に発せられている。
「ロシア革命」が1917年であったから、これもまた100年近くの時間が経過した。
1991年には「ソ連邦」が解体している。
以降、新自由主義が猖獗を極め、労働者階級は「階級」としては粉々に粉砕されてしまったかに見える。
「プレカリアート」という「ことば」が登場してきているが、イタリア語で「不安定な労働者」という意味であるらしい。
「オキュパイウォールストリート」では「1%対99%」というスローガンが挙げられた。

そういう時代の中で、蛙には、「新しい時代」の「影」さえ見ることができないでいる。

この「世界史の現段階」の中で、「解放運動」もその行く末を模索しながら進まなければならない。
ただ、「差別徹底糾弾」と「行政闘争」を「旧態依然」のままに繰り返すだけでは決して「よき日」を手繰り寄せることはできない。

ここに挙げた一つひとつの項目について、思うことは色々あるのだが、今回は「徹底糾弾」ということについて書いておこう。

「糾弾闘争は百害あって一利なし」ということを言う人がいる。
以来、闘いの一等重要なこととして「糾弾闘争」は位置づけられてきた。
その意味は、ひとつには「差別は決して許さない」ということであり、またひとつには、「差別」の前に、ただただ屈し、悔し涙を流すばかりであった「大衆」に「闘う勇気」と「人間としての誇り」を取り戻す、重大な役目を果たしてきたことである。
「一利なし」という人々にも「そのこと」は異議ないところだろう。
彼らにあっては、「今日」という時点ではということなのであろうかと思われる。
一時期、ちょうど「同対審答申・特措法」の出発時点だったと思われるが、相当激烈な糾弾闘争が展開されたことがあった。
そのような「展開」が、「同盟組織の一大拡大」に結んだということは言えるだろう。
全国津々浦々に「差別は許さない」「であることが卑下する必要は何もないのだ」ということを知らしめる大きな成果をあげたのである。
その反動もまた大きかったのかも知れない。
「糾弾」された側で、その意味を正しく受け止め、「解放運動」の側に身を移す例も少なくはなかったが、反撥もまたあった。
この経緯で日本共産党の果たした役割は記憶されなければならない。
「糾弾闘争」の意義を落としこめ、ただの「暴力行為」と言い募ることによって、運動に対する破壊工作に狂奔した。
それも、「日本のこえ憎し」という「党内事情」を持ちこんでする許し難い行為だった。
「行き過ぎた糾弾」があったとすれば、「刑事罰」を求めて告発すればよかっただけのことを、党機関紙などで大々的な攻撃を加えたのだったが、例えば、八鹿闘争の折など、その地に行ってもいない蛙にも同様の攻撃がかけられたということもあった。
それでも、圧倒的な宣伝力をもってする日本共産党の攻撃は「功を奏した」のだろう。
「糾弾闘争」と言えば、広汎に「暴力的なもの」という印象を植え付けることに成功しているようだ。
それだから、運動の内部から「百害あって一利なし」という声もあがることになったのだろう。
蛙の場合、これまでも書いてきたことだが具体的な「差別事件」への対応は「事件解決主義」の批判はあるだろうが、「被差別当事者を中心にすえて」という方針でやってきたから、大々的な糾弾闘争を自身のところでは経験をしていない。
「被差別当事者」がしっかり前をむいて勇気を持って生きていければそれでよいと考えている。
けれども、そういう活動を貫いてあるのは「差別徹底糾弾」の理念である。
蛙は「ここ」が重要と考えている。
具体的差別事件には、それに対する取り組み方が「どんなものであれ」、「徹底糾弾」の意思が貫かれていかなければならない。
「・・一利なし」という考えをされる人々は、「糾弾闘争」の「形」だけを考えていて、それが「解放の思想」として考えられていないということなのだ。

また「差別は日常茶飯のことというのは頷けない」と言う人がいる。
確かに365日24時間、直截に「差別攻撃」に晒されているとは言えないが、今回の「週刊朝日」の佐野眞一の「差別記事」を考えてみれば、この国では「血筋」や「出自」といったことがどれ程一般的・広汎に意識されているかが分かるだろう。
「人」の評価は、その人が「何を言い、何を為したか、或いは何を為さなかったか」、そういうことを基準に判断されるべきであるはずだが、実際には「いつでもどこでも『差別』は具体的な場面で鮮やかに現出してくる」ということだ。
(つづく)


葉書をいただいて

2013-09-18 20:56:20 | 日記
吉田智弥さんからお葉書をいただいた。
蛙からのメールと「蛇行社通信」購読カンパの受領という内容で、こういうのって大概メールで済ましてしまうものなんだろうと思うけれど、「昔人間」なんだなぁって思う。
蛙は年賀状は勿論、一切、「私信」として郵便など使うことがないのは「無精者」なんだからだろうね。

葉書には二つのことが書かれていた。
ひとつは、「独自の解放論」を蛙が展開しようとしているようだが、「いつも途中で尻切れトンボになっている印象」という話。
それは自分でもよく分かっていることなのだけど、基本的には「総体としての『歴史』或いは『世界』の根本的変革」が可能であるか、そういう中でしか「人間の解放」はあり得ないのではないか、そのような「たいそれた枠組み」で考えていこうとしているということもあるからだ。
これまでの「ブログ」でフーコーの「監獄の誕生」についてふれたことがあったが、「被支配」の側の「身体」が「支配」の側に迎合していくように「構成」されていくメカニズムこそ、決定的に重要なことなのだろうと思っている。
「いじめ」などについて考えてみても、「明治」以来、「学校教育」の果たす役割の持続性の故であるのであるから、これはもう「解体」或いは「破壊」をおいてほか脱出の術はないのではないかなどと、できもしないことを主張していたりもするわけだ。
また、世界史的現段階は「ブルジョアジー対プロレタリアート」という構造を突き抜けて、「新しい時代」ということになったのではなかろうかという想いもあって「アントニオ・ネグリとマイケル・ハート」の仕事を理解しようと努めているところでもある。
というわけで、「尻切れトンボ」は今後も当分続くことになる。

またひとつには
「の子ども達の中から医者や弁護士を生み出すことは高名な解放理論家であるO氏の『夢』でしたが、実際に弁護士になった橋下の『裏切り』をどう捉えておられるのか。どこに間違いがあったのか。そういうことを蛙氏に解明してほしいな、と前から思っていた..」
という話もあった。
O氏って大賀さんのことなのかと思うが、蛙はその「夢」が「どのように語られたか」を知らない。
朝田善之助の3C(教師・弁護士・医師)運動を随分以前に批判したことがあったのだけれど、の子どもたちがそのような力をつけていくことに反対するわけではない。
そのように力をつけても「差別を無くしていこう」とする側に立ちきることがなければ何の意味もないということだね。
ウチの支部の貞ちゃんは言っていた。「識字識字ゆうても字ぃ覚えて字ぃ知らんもんを馬鹿にするようになるんやったらやらん方がましや」と。
それだから蛙は橋下が「裏切った」とか「間違った」とかは思っていない。
出身の国会議員とか各級議員、政令指定都市の首長、大学教授等など、「世間」で言うところの「エライ人」はこれまでもたくさんいたし、これからもそうだろうと思う。
問題は「どっちゃ向いてるねんッ!」って話でしかない。
例えば狭山弁護団の中山さんだが、氏は自身の生い立ちを語られる中で、ご両親の生活と解放運動にかける姿について話されている。
問題は「どんなところでどんな風に生きてきたか」ということなのだろう。
橋下の「憎し」は実は「そこのところ」に鍵がある。
ヒトラーがユダヤの血を受け継いでいるのではないかと疑念をもった話は有名だ。
多分、ヒトラーをモデルにしていると思うけれど、ハリーポッターの敵役、ボルデモートもまた、マグル(人間)との「混血」であることを激しく苦にして「純血主義」を貫いた。
このファンタジーはあまり注目されないが、蛙には「反差別」の物語なのだと考えている。
橋下は「」を否定的に捉えているのであるから、これまでの経緯は必然だと蛙は考えている。

そんなことを言った覚えはないと今では言うかも知れないが、橋下が初めて府知事になった折には、宝塚のある支部では最大級の祝辞があげられたことがあった。
「世間」は知らないが、の側では「その人」が出身かそうでないかは早くから知り得る位置にある。
「」出身者の「出世」は「おめでたいこと」と受け止められることは多いが、「問題」は中身なんだけどなぁ。

映画「SAYAMA 見えない手錠をはずすまで」

2013-09-09 10:24:07 | 日記
フェイスブックに「映画『SAYAMA―見えない手錠をはずすまで』」というページがありますが、そこで「上映スケジュール」がUPされていました。
とても小さな文字で見にくいのですが、いずれ「見やすいかたち」で再UPするとアナウンスされていますから、それを待ってもいいのですが、蛙の方でワードでポイントを大きくしてプリントアウトして宣伝をしているところです。
ついでだから、こちらの方にも貼り付けておきます。
上映の主催は「『SAYAMA』製作委員会」です。

映画「SAYAMA―見えない手錠をはずすまで」

上映スケジュール
〈東京〉
10月31日(木) 開場16時半 開演 17時25分~20時45分
日本教育会館 大ホール 神保町駅下車3分
やくみつる(漫画家)+金聖雄監督+もう1名によるトークイベントもあります。
石川一雄さん・早智子さんご夫妻の舞台挨拶も

11月1日(金)~11月3日(日)
    第1回 開場 14時 映画上映 14時30分
    第2回 開場 17時30分 映画上映18時
YMCAアジア青少年センター 水道橋駅下車5分

関西上映会
(兵庫)
11月12日(火) 2014年1月13日(月・休)
    第1回 開場 14時 映画上映 14時40分
    第2回 開場 17時30分 映画上映18時10分
兵庫県民会館 けんみんホール 元町駅下車7分
金聖雄監督の挨拶あり

(大阪)
11月13日(水) 2014年1月11日(土)
    第1回 開場 14時 映画上映 14時40分
    第2回 開場 17時30分 映画上映18時10分
阿倍野区民ホール 阿倍野駅下車2分
金聖雄監督の挨拶あり

入場料  前売券 1,000円 当日券 1,200円 中高生 500円

この稿をUPした後で「公式ホームページ」の方にもっと詳しい情報があることに気がつきましたので追加で書き加えております。
コメント欄からジャンプできますからご参照ください。
蛙の方でも「自主上映会」を企画していきたいと思っています。

http://sayama-movie.com/