続・蛙独言

ひとりごと

その六

2013-07-17 14:03:16 | 日記
ずっと以前に「差別―被差別」の関係は「非対称」であるということを書いた。
「右手と左手」とか「コインの裏表」とか、対称的な事例はあげればきりがないが、要するに二つの事象が同等の重さを持っているということだ。
ところが「この関係」では、全く、それが持つ「重さ」はかけ離れたものになる。
「差別する側」にあっては、その行為が「被差別の側」にどのような「重さ」をもって受けとめられるかということは実は分かりようがないのだ。
「いじめ」についても同じことが言えるだろう。
「相手の身になって考えよう」などということが言われたりするが、それは殆ど不可能事なのだ。
先の稿で「つきあっている女性からアイヌであること告白された先輩」の話を書いたが、「相手の身になって」という作業は相当な困難なものになるのだ。
「好もしく思う相手」であるから、その困難に挑戦することができる。
蛙がそのように言うについて「そんなことは分かりきった話だ」と思われるかも知れない。
しかし実際のところ、それが徹底して認識をされているわけではないのだ。
例えば運動の中で「両側から超える」などという馬鹿げたスローガンをあげる人々がいる。
そのような人々には「このこと」が皆目分かってはいないと言わなければならない。
また、「差別問題に中立的立場はない」などということもよく言われたが、そのように問題を立てることもまた馬鹿げた態度というほかない。
「被差別の側」から「そのように問われたら」問われた人はただ口を閉ざす以外に方法はない。
「差別―被差別」の関係が「非対称」であることを徹底して自覚するところから始めなければならない。
常に「具体的事実」に即して対抗策が考えられなければならない。
例えば学校で「いじめ」に直面している子どもがあったとして、必ずその子に寄り添い、話をきちんと聞いていく、そういう作業が決定的に重要になる。
「いじめ」ている側への「指導」も十分な工夫をもって対処しなければならないが、もっとも大切なことは「いじめ」られている側の子に「君は支えられているのだ」ということを強く伝えることだろう。
「差別」についても全般的に支配的な「差別意識」と闘うことは困難なことではあるが、具体的な事例が起こった場合に「被差別の側」をどれほど強力に支えていくことができるか、それが最も重要な話になるのだ。

「差別」をなくすること、解放同盟は「その方策」を行政に求めることを最重要なこととしているように蛙には見受けられる。
「行政」に取り組んでもらう課題はあるだろうが、「行政」に「解放」を期待することは大きな間違いだといわなければならない。
まっすぐに行く道筋は「自力解放」以外ではあり得ない。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-07-18 14:27:10
差別はいけないと皆が言う。
そういう皆が自分だけが正しいと言って、互いにけなしあっている。
差別が無くならない最大の原因がそこに無いだろうか。
けなしあうのでなく、皆が言うところの方法を皆が協力して一つ一つ実践確認すればよいと思う。
世の中に言いたい放題の空中戦で解決したものなんて無いのでは。
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