続・蛙独言

ひとりごと

「本」

2020-06-18 09:32:25 | ひとりごと

この歳になって「本」を読むことが随分苦痛になってきた。

もともと、「本」を読むのはすきだったし、スピードもはやかったのだけれど。

この頃は、目がよく見えなくなってきて、「ルビ」は小さ過ぎて読めないことが多いし、「パ」と「バ」の区別がつかなくなってきた。

最近、「世界屠畜紀行」を読み終えて、なかなか面白かったし、続けて娘が図書館で借りてくれていた中村哲さんの「アフガニスタンの診療所から」を読んだりしていた。

中村さんは凄い人だと前々から思っていたけど、これまで一冊も読んでいなかった。

これは読めてよかった。

その後、孫と本屋に行って、小学生に人気の「サバイバルシリーズ」を2冊、買ってあげたのだ。

その時、目についた「鏡の国のアリス」を読んでみようかななんて突然、思いついたりしたものだから、別の日にジュンク堂に行った折に、角川文庫の「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」をはずみで買ってしまった。

ちょうどその日にヒントブックスさんが頼んでいた本を届けてくれたので、当分、読書三昧だな。

「アリス」はよく知っている話なんだが、これは子供向けって感じがしない。

それで、wikiとかその他、「アリス」に関する情報を収集していた。

邦訳はこれまでたくさんあったようだが、この角川文庫版の河合祥一郎訳というのはごく最近のもののようだ。

原作が「韻」を大事にあつかっているので、それを尊重する形で訳しているようで、かえって日本語として読みづらいものになっている。

これが、もう40年前なら早速原著を読んでみようとなるところだが、今はそんな元気がない。

蛙がよく知っているのは、子ども向けにリライトされたものとか、ディズニーのアニメなんかだ。

Youtubeで前後半30分ちょっとづつでみることができる。

 

「アリス」以前、子ども向けのお話は、教訓とか、こんなとんでもない話はなかったものだから、これが型破りということで以降、支持されるようになったらしい。

蛙は「レンタル上がり」のDVDでジョニー・デップのAlis in WonderLandも持っている。

これは7歳の時に行った世界に13年後、再び舞い戻るという設定になっている。

 

洋書の子ども向け本は「マザーグース」を下敷きにしているものが多いと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=Bkr2GOhANYM

 

 


保存のために 3

2020-06-05 17:46:27 | ひとりごと

保存のために

「続・蛙独言」 3

一から始める蛙の解放理論 3

花崎皋平さんの「アイデンティティと共生の哲学」(平凡社ライブラリー)から引用しよう。

差別は被差別者の特性や固有性とほとんど無関係である。つまり、その標識は恣意的にえらばれる。差異をあげてその価値づけを理由にするのは、「差別」の仕組みそのものをみえなくさせるための差別者側のワナである。「差別」の本質は、特定のカテゴリーの人びとの「排除」にあり、「排除」の目的にかなえばその標識はなんでもよいのである。女性が男性から差別されるのは、女性としてのあれこれの特性によるのではなくて、男性でないからである。同一性に対して非同一性のカテゴリーに位置づけるのである。
この場合、重要なのは差別する側がカテゴリーを設け、それに命名する権利を独占しているという非対象の関係である。差別する者と差別される者との関係は、名づける者と名づけられる者、区分する者と区分される者という関係である(p218)

花崎さんはもう78歳になられるから蛙とは一世代以上も違うことになるが、直接的でないけれども「書かれたもの」を通じて40年以上も前からの「お付き合い」になるわけで、似たような発想になるのだろう。
もっとも、蛙の生き方など中途半端そのものだから、その「思想」とその具体的な「日常生活」の徹底的な一致を目指された彼の生き方とは較べるべくもないけれど。
彼の場合、日常的には「アイヌ問題」との直接的な関わりということになる。
引用を続ける。

「差別の論理」を支えるこの関係は完全に一方的であるから、区分の特徴は恣意的であって差しつかえない。また、差別する側は自分については自明であるから名づける必要がない。すなわち、差別者のカテゴリーは無徴性であり、被差別者のそれは有徴性である。そのさい、あたかも被差別者側の「実在的な差異」が有徴性の根拠であるかのように関係を指定するのである。ここからあれこれの差別がなぜ不当なのかを理由づける挙証責任を被差別者側に押しつけるという転倒がおこる。この関係そのものの不当性と非対称性を暴露し、問題はカテゴリー権の奪還にあることをあきらかにすることが「反差別」の論理である。(p219)

この後、「要するに多数者の自己定義は『差異ある者(アイヌ)を除いたあとの、それ以外のわれわれみんな』というかたちをとっているのである。」(p220)といった展開になっている。

蛙は、一般的な「差別の論理」と特殊「差別の論理」とは「集合の全体と一要素」の関係のように捉えていて、その具体的な「在り様」を考えていこうと思うのだ。

 

一から始める蛙の解放理論 4

2009-10-29 17:21:08 | 日記

話し始めると支離滅裂で、あっちこっちに飛んで行ってしまうのだけれど、商売でやってるんじゃないから、読む人の迷惑を顧みずってことで続けていこう。
ごめんなさいね。

差別―被差別の「非対称性」については「旧ブログ」でも書いていたのだけれど、頭に来ていたのは「両側から超える」という「文言」が「解放運動」の一部でもてはやされていたからなんだ。
藤田敬一氏などは、「は実体概念ではなく関係概念である」などと言いながら、「両側」などということを言っているのは、自身、「自爆している」のに全然気づいていないんだろうと蛙は思う。
「両側」という規定は差別者だけがそのように認識するのだと蛙は考える。
花崎さんからの引用でも、そのようになるだろう。

は「実体」としては「無い」、藤田氏に倣えば「関係性の中にしか無い」、蛙の言では「他称語」でしかない、というのであれば「両側」などという「概念」は成立しない。
「両側から超える」ということを言う人は、多分、差別者も差別はやめなければならないが、被差別者も「誤った考え」や「克服すべき弱点」もあるのだから、双方が「きっちり」しなければってなことなんだろうか。
差別者も被差別者も「正道を歩まなければならぬ」なんて意味なら、当たり前な話なんであって、それを殊更、かっこつけて言うようなことでもなかろうに。
藤田氏はご丁寧に「同盟」の内部の「間違った考え」の事例を数え上げてご教示してくれているが、それは誰よりも「同盟」の内部で誠実に運動を進めようとしている少なからぬ人びとが歯噛みする想いで考えていることなのだ。
例えば奈良などでは、不幸な「運動の分裂」などがあるようだけれど、藤田氏は一方の側に「肩入れ」をしているように蛙には見える。
蛙は「事情を知らない」から、ただただ誠実な努力の積み重ねで「再統一」の一日の早いことをと祈るばかりだが、「分裂」の「裂け目」を更に深くするだけのような行為はやめてもらいたいものだと思う。

ついでに、以前にもゆうたことを再度言っておきたい。
藤田氏は、朝田善之助らとの酒席で杯がまわってくる時、「震えがとまらなかった」と言い、それが「自身の成育歴の中で、ことに家族から受け取った差別意識のせいだった」とし、その後「の人びととの交流を通じて差別意識が氷解した」というようなことを言っている。
蛙には皆目理解できない話だ。
なぜ「震え」なきゃなんないんだ!
「の人間」と仲良しになったら「差別意識」はなくなるんか?
蛙には、藤田氏について「自分自身を問う」深い思索が全く感じられない。
それだから、今でも藤田氏の「ものいい」の態度がいかにも「人を馬鹿にしたような」風になるのだと思うのだ。
蛙は、なによりも「謙虚さ」ということが、誰にとっても大切なことだと思うのだけれど。

 

一から始める蛙の解放理論 5

2009-10-30 18:22:02 | 日記

生意気な言い方だけど、にしろ解放同盟にしろ、蛙は一度も「差別」を本質的に捉える「理論」を獲得することはなかったし、それだから「完全解放の道筋」を一度も提示できなかったと考えているのだね。
勿論、蛙にだって「できる」話ではないのだけれど、「そうなのだ」って自覚は大切だと思っている。
それでも、にしても同盟にしても「存在意義」はあったんだ。
何よりも、圧倒的な「量」である「差別者集団」(『敵手』は『全体』なんだから)に抗して、「吾等の団結だけが『それら』に抵抗していく威力(ちから)なのだ」という共通認識。
これは重要なことだったんだ。
人間、「一人ぼっち」って「感覚」ではとてもじゃないが「やってられない」よ。

「被差別・民」以外は知らないだろうけれど、「この地域」に生まれおちた「人間」は、まず最初に「訳の分からぬままに」自身が「そのように呼ばれる民」であることを「思い知らされる」のだね。
そしてそれは、「自分のムラ」だけが「特別視」されているかのように「思わされる」し、そのようであるからして、「多分、こんな感覚を抱かされたことを親・兄弟姉妹にゆうたら、きっと悲しい想いをさせるに違いない」って思うから、ずっと「胸の内、奥深く」にしまって置こうという風に反応するんだ。
長じて「解放運動」に「出会った者は幸いである」と言える。
でなければ、「鬱屈する想い」は消えることが無い。

「出会った人間」は、まず、「この問題」が「自分のムラ」だけじゃないんだ、全国に「これだけ多くの『同じ想い』を持った仲間がいるんだ」ってことに気付かされる。
69年に天理市で「全国奨学生集会」が開催されて、ここに参加した出身高校生達が「次代」の中心的な「活動家」に育っていったのだろうと蛙は考えている。
40年前になるのだから、このメンバーは、「その時の感動」を腹の底に据えて「一つの時代」を作ってきたし、「彼ら」の果たしてきた役割の評価も大いなるものであったのだけれど、蛙は、「この後の展開」に大きな「疑問符」を感じている。
「自分ひとりじゃない、大勢の仲間がいるんだ」ということは勇気にはつながるが、そこのところからの「一歩」を、今のところ、誰も「指し示してくれてはいない」のだから。

蛙にだって、よくは分かっていない。
ただ、「分かっていない」ということを「認識」することは大事なんだと思う。

本年3月の同盟の大会で、「派遣村に荊冠旗は立っていたのか」という質問をされた方がいた。
納得のいく回答はなかったが、「この時代・この局面」で同盟が「何をなすべきか」、もっと全般的な視野の中で、手探りでもいい、頑張っていくことが「楽しい」、そういう「闘い」を構築していかなければならないのだろうと蛙は思うのだね。

 

「反貧困」を読んだ。

2009-11-01 22:08:46 | 日記

「反貧困」(湯浅誠・岩波新書)は是非読んでおかなければ、なんて思ってたんだけど、蛙が本屋を覗く度に縁が無いというか、なかなか手に入らなかった。いくらでも方法はあっただろうけれど、多分、書かれている内容は蛙の想像の範囲内のことと考えていて、「いつでもいいやッ」ってくらいな気持ちだった。
漸く巡り合えて読み終ったところなんだが、その「頑張り」とか「思想性の高さ」とか、想像の範囲内とはいえ、なかなかなものだったと思う。
例えば「多重債務問題」や「生活保護申請相談」など、蛙が取り組んできた「仕事」と少しは重なるが、そのスケールの大きさとか「意味の違い」など、考えさせられることが多かった。
「福山全研」で「差別・貧困・格差を打ち破る・・」という三つの語句がかくも簡単に並列されることに違和感を覚えたと記したが、「ここ」は難しい話になる。

蛙は自分でも思うのだけれど、悪く言えば「第一主義・排外主義」の傾向が無きにしも非ずというところがある。
「内向き」なんだ。
「自分のムラ」や蛙の手の届く「範囲内」でパーフェクトを目指そうとしてきたのだから、いた仕方ないということもある。
ただ、自身の行為の意味を、世界―日本経済、或いは社会史的な中で、考えていかなければならないとは思っていた。

「差別」と「貧困」とは「次元」の違う「問題」であり、「格差」とは「二種類の問題」なのだということも思う。
それらの構造的な連関を解き明かしていく作業は手順に上っていない。

今のところ、「派遣村に荊冠旗がたつことは無かった」し、「派遣村」には「マイノリティ問題」を考える余裕など無かったのだけれど、それなりに「力」を蓄えてきた「解放運動」の側から「次元を超える取り組み」があってしかるべきだろうし、蛙も何がしかの努力はしていかなければなるまいとも思う。

 

一から始める蛙の解放理論 6

2009-11-05 18:44:55 | 日記

「強くなければ生きてはいけない。優しくなければ生きていく値打ちは無い。」なんて台詞があったような気がする。
蛙がゆうたんでは似合いも映りもせんけど、高倉の健さんあたりがゆうたら「かっこえぇ」んじゃろうけどね。
「解放運動」の「現場」なんてのにおると、「問題は『の問題』ではない。『を差別する人』の側の問題なのだ」だとか、「女性差別の問題は男性の側の問題」「障害者差別は健常者側の問題」なんてことを何遍も何遍も聞かされるわけだ。
これは全くその通りなんであるが、そういう台詞を百千万回繰り返したところで、蛙はちょっとも前に行けるような気がしない。
それよりか、冒頭の台詞の方が「ずうっと大事なんだ」って思う。

蛙の「立ち位置」では「差別事件」に頻繁に付き合わされることになるのだけれど、「考えていること」と言ったら、「この人」が「ここ」で踏ん張れるかどうか、それだけなんだ。

実際、今の世の中の在り様からゆうたら、「誰かをメチャンコ踏みつけて憂さ晴らしでもしなくちゃやってられないよ」って気分、分からんでもない。
蛙は「差別者を擁護する」ようなこと、言ってるみたいだね。
「擁護」ってことになるのかも知れないが、「憐れな奴じゃなぁ」ってくらいかなぁ。

まぁ、本音はそうなんだけど、「現実的対応」のところでは、「誰からも理解されるような『言い様』や『立ち居振る舞い』の工夫」ってことになるんだ。
味方の筈の「仲間」を「敵」にまわさんようにはしなくちゃなんないもん。

 

 


保存のために 2

2020-06-02 20:36:36 | ひとりごと

「続・蛙独言」2

「違い」について

2009-10-15 19:45:40 | 日記

生まれおちた「人」の原初体である「あかちゃん」は、どのようにして「成人」していくのだろうか。
蛙は、「差別問題」を考える上で「ここが重要」と考えている。

我が子の「育ち」を振り返ってみるのだけど、もう30年以上も前のことになるのだから、それは「遠く、濃い霧の中に包まれているよう」で、よく分からない。
そこいくと、「孫」のことは「よく見える」ように思う。
埼玉に住んでいるので蛙との距離は遠いが、「IT革命」ということか、「スカイプ」という無料の「テレビ電話サービス」があるので、週に一度くらいは2時間ばかり「孫」と遊んだりしている。
この「システム」は実に優れモノだ。
無料ってのがいい。
上の子は4歳になる。
下の子はまだ10カ月ばかり。
上の子とは、もう一人前な「ことば」のやり取りができる。
ハモニカも随分上手に吹けるようになっている。
下の子はまだ「ギャーギャー」喚いているばかりだけれど、一つひとつの「音韻」は「はっきり」しているから、「ことばを獲得していく」過程には何の問題も無いように思われる。
ここではもう「聴覚」に「障害」があったり「脳機能」に「不都合」があったりすれば、明らかに「マイノリティ」の側に立たされることになるが、蛙の「孫」たちにはそういう兆候はないようだ。
おおよそ3歳までに「脳」と「神経系」の「接続」が「完成」されると言われている。
「人」が形成されていく過程は、おおまかなプログラムが遺伝子レベルで用意されているのだけれど、どのタイミングでどんな風にということは、「順次、状況に応じてスイッチが入っていく」ということに係っていて、「同一のもの」ということが一切無い。
「一卵性双生児」でもそうだけれど、極端には「クローン人間」が実現されることがあったとしても、決して「同一」ということが無い。
大木の数多の葉の葉脈にも、人間の「指紋」にも「同じもの」は決して無いのだ。
「皆が皆、違っている」のが当たり前なことなのだけれど、そのようには「人」は「教育」をされない。
最悪なことに、この「人間世界」では「違っている」ことを忌み嫌う「文化」がある。
「ここ」が「差別」の「始まり」なのだと蛙は考えている。

 

初めに躓いてはいけない

2009-10-16 20:07:32 | 日記

衆議院選挙は民主党の圧勝に終わったのだけれど、蛙は「あまりに永く続いた自民党を主軸にする政権」の「負の遺産」を受け継いでの出発なのであるから、大きな期待を持ってはいないということを言ってきた。
新しい「政権」の「政治哲学」は奈辺にあるのかも分からない段階だから、今の時点で、とやかく論評はできないのだけれど、ここにきて早速の「腰砕け」みたぁな話が出てきているのは悲しい限りではある。
鳩山君は「国民の意思が『赤字国債』は許さないということであれば『マニフェスト』の一部割愛もありうる」などと言っているようだ。
旧政権から引き継いだ「借金地獄」だけれど、そもそもそれはゼネコンを初めとする大企業と「銭ゲバ官僚」の「金儲け」のために結果したことなのであるから、「国民のための政治」に舵を切るならキッパリと「赤字国債も辞さず」というべきだろう。

あまりよくは見えていないが、「東アジア共同体構想」などということも言われている。
それがどのような意味であるかは今のところ不分明だけれど、榊原英輔氏の著作を何冊か読んできて、成程、彼がブレーンだと言われているのはこのことかと蛙は納得している。
反体制・反権力を標榜する蛙とは対極にある榊原氏ではあるが、彼の主張は概ね首肯できるだろう。
圧倒的な「経済力・軍事力」を以って「世界」を牛耳ってきたアメリカに対抗して、ヨーロッパは「EU」という選択肢を選んだのだが、榊原氏の持論は「EU」の「アジア版」の構築ということだった。
アメリカはあからさまな「不快感」を示しているし、当のアジア各国も、それがあの「八紘一宇・大東亜共栄圏」構想とどう違うのか、疑心暗鬼というところだろう。

「資本」に「国境」などというものは無いということは、もともとマルクスが言っていたことだ。
それだから、プロレタリアートの闘いもまた「インターナショナル」が必然なのだということも。
「マルクス以降」の「資本」の側は、マルクスから最もよく学んで、その「危機」を「一国主義的」に回避する道を選んできた。
労働者階級の側は、その「インターナショナリズム」が、「ソ連邦のソ連邦によるソ連邦のためのコミンテルン」に変質をさせられ、徹底的な敗北を喫した。
けれども、時代は進んで、「資本」の側は、「一国主義的対応」で延命を図ることはできない段階に達している。
今、この「国」の労働者は、何年も前から「資本」の側が先行して展開してきた「彼らなりのインタナショナリズム」によって、「賃金切り下げ」攻撃にさらされている。
この「国」の労働者階級が、アジアの民衆との連帯を築こうとしなかった「大いなる罰」なのだ。

榊原氏の構想を逆手にとって、アジアの民衆との恒常的な連帯の闘いを目的意識的に追及する、そういう土壌は既に準備されている。

今のところ、皆目、その兆しは見えないが、必ずそのように事態は展開するだろう。

アメリカに対抗し、内需を中心にこの「国」の経済が活性化されれば、現在の懸案事項も、この10年以内には必ず解決するだろう。
それが、「資本」の側の「思い通り」ということになるのか、労働者の側の「大いなる前進」ということになるのか、気がもめるところではあるが、そのような問題意識が希薄なのであるから、蛙は鬱々として眠れないのだ。

 

 

昨日と今日と

2009-10-18 19:04:14 | 日記

昨日は『在日朝鮮人歴史・人権週間』関西集会というのに出ていて、本日は同盟県連主催の「連続理論学習会」ということで、黒川みどり氏の講演を聞いたり、ちと忙しかったね。
仕事を終えてからの参加だったし、疲れるよ。
前者の集会では、最後の「意見交換」というところで、司会の側から会場にふられたのだけれど、こういう場面で一発目に発言するのは、なかなかたいへんだ。
で、誰も手が上がらないから、蛙が発言をする破目になった。
相当の聴衆の前で発言をするのは緊張もするし、前もっての準備なども無い場合、難しいものだ。
「この日」の蛙の発言について、何人かの人に聞いたんだけれど、「まぁ、まとまってたんじゃない」って評価だった。
ゆうた内容は、「蛙が若かった頃には『在日』の問題は左程『日本人』の間で重要なこととして取り上げられてこなかったように思う。自分自身の経験としても、例えば、会社の慰安旅行のバスの中で『勝新』の『兵隊やくざ』などというバカげたビデオが流されていて、『慰安所』の前に、それも寒さに震えながら兵隊たちが並ぶシーンを見たが、自分はただ単純に「馬鹿な話」くらいに受け止めて流してしまった。
「従軍慰安婦」という「ことば」は蛙は嫌いで、「軍事性奴隷」というべきなのだろうけれど、この『被害』にあった人たちが声をあげて初めて、その「シーン」の意味をやっと理解しえた自分をとても恥ずかしく思う」
と、いったようなことだった。
さて、今日の黒川さんの講演だけれど、蛙には納得のいかない話が多かった。
好意的に評価するとすれば、「差別は、差別する側で、時代の変遷に応じて、都度々々、その『呼称する』『徴し』が『作り変えられてきた』のではないか。そのことにもっと注目すべきではないか」ということなのだろうか。
そういう限定付きであれば、「問題を考える新しい切り口」として評価は出来るかも知れない。
黒川さんの講演から感じた疑問など、この後、何回かにわけてUPしておこうと思う。

 

 

前稿で「つづく」ってゆうたけど、「講演」を聞いて、コツコツ、引っ掛かるところもあったし、向学さんの「黒川批判」を読んでいたり、とりわけ、ネット上で閲覧できる「藤田敬一とのやり取り」などには大きな疑問符のつくところであったから、色々、思うことをUPしていこうと考えてたわけだ。
でも、講演という形式では、話者の側でも充分意は尽くされていないということもあるだろうし、聞き手の側でも誤解はよくあることだから、一度、それなりな「著書」を読み終わってからにした方がいいように考えた。
で、ならば、蛙の「考え方」を一から書いていった方が、「黒川氏」との対比ということになるのかも知れないと考えて「方針転換」しようと思った。

まず第一には、「被差別は存在するか」という設問から始めよう。

蛙の答えは「NON」。

ここは難しいところだけれど、勿論、「差別」は存在する。
これを否定しているのは日本共産党だけだろう。
彼等も完全に皆無って言ってるわけではないが、「それは『遅れた考え』を持つ一部の人々の中にあるだけで、民主主義の側に立つ人々の広範な努力で、そのような『考え方』を孤立させ『絶滅』させていくことができる。問題は、既に『解決済み』のことを仰々しく取り上げて『利権あさり』に狂奔する『解同』の存在であり、これを『殲滅』することが最重要な課題である」という主張になる。
それだから、同盟と日共とは「不倶戴天」って関係になる。
誠実な人々からは、「一致するところで共同行動を」などと言われたりするけれど、共産党の側が態度を改めなければ、一歩の前進も望めない。

「差別」は存在するのに、「被差別は存在しない」という蛙の主張は「矛盾」していると思われるだろう。
然り、これは「矛盾」である。
普通、人々は「矛盾はあってはならないもの」と考えているのだけれど、現実には「矛盾」は存在する。
マルクス主義を学んだことがある人なら、このことは常識ということになるし、それを正しく捉えまえる「方法」の内に「解決の鍵」があるということを知っている。

旧ブログでも言ってきたが、蛙は「被差別」は「他称語」であると考えている。
詳しくは、後述することになるが、それはただ「他者」から「そのように呼ばれている」ことによって「あるように見える」存在であるに過ぎない。
そのものの内実に「差別を受けなければならない」根拠は何もないからだ。
例えば、「実態的差別が心理的差別を生む悪循環」などという言い方があるが、これ程、人を馬鹿にした論法は無い。
蛙の親の世代では、勿論、ムラはたいへん貧しかったが、それだからと言って「貧乏人を差別してよい」という法は無かろう。
「差別」は「差別をしたい人」が「作る」だけのことなのだ。

 

一から始める蛙の解放理論 1

2009-10-23 17:58:54 | 日記

明日から三日間、広島県は福山市で「解放全国研究集会」ってのがあるんで、ブログの方は「お休み」ということになる。
常時使っているのは「ノート」なんだから、持っていってもいいんだけど、1キロを超える荷物はやだからね。
この「集会」、最近、あまり面白くないというか、そんなに「収穫があった」ってこともないんだけど。

さて、「被差別は存在しない」というのであれば、「解放運動」などというものは「意味無いんじゃない」ってことになるかって話をしておこうと思う。

「被差別」と「呼ばれる」地域には、内在的に「差別されて然るべき根拠」は無い。
にも拘らず、この地域に暮らす、或いは、この地域の出身者である人々に対して、「」とか「四つ」などなどという「差別言辞」が投げつけられ、「忌避・排除」ということになる現実はある。
「ならば」その「現実」を「引き受けて行こうではないか」、「そして」そのような「現実」を「白日の下に晒して」、それがどれほどの悪辣な「犯罪的行為」であるかを万人に知らしめていく「徹底糾弾」の闘いを「推し進めていこうではないか」、これが「解放運動」なのだと蛙は考えている。
「」の「意思」も「ここ」にあった筈だ。

「宣言」は、当時、想像を絶する「残虐・冷酷・非道」なものであった「差別」に抗して、「団結して闘おう」という「呼び掛け」であったし、その「現実」を主体的に引き受けて、なお、その先の「吾等は必ずや勝利するに違いない」という「希望」を「指し示した」ものであったのだから、全ての「大衆」を鼓舞し勇気づけたのだ。
それは「言葉にならぬ」程の感動をもって受け止められた。

ただ、と蛙は考える。
「その意気やよし」ということはあるが、「時代」は大きく変わったのであるから、今、必要とされているのは、この「時代」に相応しい新しい「解放宣言」なのではなかろうか。
何事も「歴史的な制約」ということはあるのだ。

「宣言」には「解放の理論」の裏付けは無い。

蛙が一番厭な「台詞」は「であることを誇り得る時がきたのだ」ってところだ。
これは「その時代」には「大衆」を大きく鼓舞し、勇気づける「アジテーション」として多大な有効性を持ったことは間違いないが、この「台詞」のせいで、今でも「民としての誇り」などという発想が通用しているのは「いかがなものか」と思う。
蛙は、差別に抗して生き抜いてきた「我が父・母」を誇りに思っているし、「ここ」まで「闘い」を導いてきてくれた先達を「誇り」に思っているけれど、それは「民の誇り」などではなく、「人間としての誇り」ということなのだ。
ここのところは、友井さんと話していて、「完全に一致する」ところだということも書いておこう。

 

一から始める蛙の解放理論 2

2009-10-26 18:27:29 | 日記

「福山全研」は、もともと大きな期待を持っていなかったから、「まぁ、こんなものかね」ってことだった。
メインスローガンとして「差別・貧困・格差を打ち破る・・」があげられていたが、その三つの語句が「並列」されること自体に蛙は酷い違和感を覚えるのだが…

それはともかく、始めたシリーズを続けよう。

前稿にジゲ戦記のブーさんからコメントがあって、その「ブログ」を読ませていただいたが、
「差別は何事も根拠のある『ちがい』をめぐる事柄であり・・」
という辺り、蛙の考え方を少しく書いておこうと思う。

「被差別」とそれ以外との間には「何の違いもない」ことは強調されなければならない。

随分以前になるが、全解連の機関紙「解放の道」の記事で、滋賀大の梅田修氏の講演と聴衆の反応を読んだことがある。
氏は「解同の『問題理解』は観念論である」と言い、聴衆からは大きな拍手があったというような記事である。
日本共産党とそれから派生した「共産主義を標榜する」各種「党派」の間では、「観念論である」というレッテルを貼りさえすれば「敵手」を「片づける」ことができ、自らを「科学的党派」=「正義と真実の護り手」と宣言することになるといった馬鹿げた話が通用している。
これをしも「俗流唯物論」という。
これらの人々は、一度もマルクス主義の原典を読んだことがないということを、自身で証明しているようなものだ。
マルクスもエンゲルスも「観念論と唯物論」については、ただ、「物質的存在が第一義」だと言っているだけで、「観念」についても重要な分析・考察を繰り返し論じてきている。

さて蛙が言おうとするところであるが、「差別は、この『国』の人々の『観念世界』の中にしか存在しない」ということだ。
これは、同盟の「考え方」にも背反する。
30年乃至40年前の「被差別」の現実は「万言を以ってしても言い尽せぬ」程の厳しいものであったので、同盟は「差別は、人々の中にある、遅れた『観念』だとすることは間違いである。差別は、現にある『実態』そのものなのであるから」とし、その「改善」、「格差解消」を目指して運動を進めてきた。
その成果は、大きく評価しなければならないが、仮に「格差」が「完全解消」されたとしても、なお、「差別」は無くなりはしない。
蛙は最初に「ボタンの掛け違え」があったと考えている。

最重要な問題は、人々の間に「骨の髄まで沁み込んでいる『天皇制』」だろう。
蛙は、その克服無しには「目的」は達せられないと考えている。
全ての「非合理主義・神秘主義」の淵源はここにある。

蛙がウロウロしている「サン地下」などでも「1街区」から「10街区」まで商店が立ち並ぶが「4街区」と「9街区」は無い。ホテルや病院などでも「4階・9階」が無かったりすることはよくある。「4」が「死」を「9」が「苦」をイメージさせるというのだろうが、「死」や「苦」を「忌み嫌う」文化は馬鹿げていよう。
「ひのえうま」についても以前、言及したことがある。
あれこれ、挙げればきりが無いが、この「国」の文化の総体が「差別」を生み出していく構造を持っているのであるから、目指されるべきは「文化大革命」ということになるだろうと蛙は思う。
「文化」とは民衆の「観念」の総体であり、その徹底的な批判の中からしか、展望は開かれない。

再度言うが、「被差別には『差別されて然るべき根拠』など何もない。」
「被差別」とそれ以外には何の違いも無いのである。

 


保存のために 1

2020-06-02 12:41:25 | ひとりごと

「続・蛙独言」を書き始めたのは2009年10月5日だった。

それまでNiftyで「蛙独言」と題して随分長くブログを続けていたのだけれど、Niftyを解約した途端に自分のブログさえ見れなくなってしまった。

パソコンのこと、よく分かってないから、こんなことになるんだねぇ。

 

https://blog.goo.ne.jp/tadokorokaeru/e/646b7217cb4258a760e08e5c519cab93

 

で、11年書いてきているこの「続・蛙独言」もgooとの契約が切れたら(蛙が死んだらということ)消えてしまうのも残念だから、「大切そうなもの」だけ選んで、ワードの方にコピーを残しておこうと思う。

 

ここから

本名ではないのですが、30年来、田所蛙治という名前を使ってきています。
本名より、こちらの方が「ずっと好き」ってこともありますが、解放同盟の下っ端の役職などもやっていることもあり、本名の方は「そちら」での責任も抱えることになりますから、田所名では「好き勝手」なこと書いていこうという作戦なんですね。
まッ、ぼちぼち、ということで。

 

名前のこと

2009-10-13 17:13:22 | 日記

「田所蛙治」宛で郵便物は届いていたのだけれど、「郵便事業自由化」ということで、宅配の業者の参入ということになって、こちらのは「送り主」に返送されてしまうようになった。
「札幌自由学校『遊』」の「準会員」になってるんだけど、これは「クロネコ便」を使ってて、「本名」の方も併記して「○○方」っていう具合にしてる。
「ここ」の取り組みはとても素敵で、勉強になるんだけど、まさか神戸から札幌にはおいそれと行くわけにいかない。
残念なことだけどね。
「ここ」から送られてくる「資料」は随分勉強になるから、年間3000円の会費で「準会員」登録するのはお薦めだ。

2004年の12月、旧ブログ開設の折に「名前について」ということでUPしたのを再録しておこう。
 ぼくが「田所蛙治」という名前を名乗ったのはもう30年以上も前のこと。
 当時、ベトナム戦争は凄惨な状況を極めていた。
 ぼくは為す術もなくウロウロしているばっかりだったけれど、そして結局何かができ

わけではないけれど、「考え得ること」はやってきたと思う。
 立ち止まったことは一度もない。
 チェ・ゲバラは「第2、第3のベトナムをッ!」って叫んでいた。
 この時のスローガンに「ベトナムはベトナム人の手にッ!」というのがあった。
 今なら「アフガンはアフガンの人々の手にッ!」「イラクはイラク人の手にッ!」ということになる。(民族問題など複雑な状況もあるから単純にはいかないかも知れないけれど)
 「田所蛙治」はこのスローガンの翻訳ということだ。
 「田んぼは蛙にッ!」ってわけ。
 「蛙」についての「思い入れ」が、ぼくにはあった。
 芥川龍之介の「河童」では、河童は「お前は蛙だッ!」という「差別的言辞」を吐かれて、悩み苦しみ、ついには「死」に至ることになる。
 高校生の時に読んだのだ。
 当時のぼくにとっては「蛙」は「エタ」に当たる。
 「そこ」を突き抜ける「思想」が若かったぼくには必要だった。
 うまく「想い」は表現できないが、「田所蛙治」という名前は、ぼくにとっては相当重い意味がこめられている。
 サッカー人気の中で、小中生の中には韓国プレイヤーの名前も浸透してきている。
 今では、在日の3世・4世が「二つ名前を持っている」ことについて、若い世代に「かっこいいじゃんッ!」という雰囲気もあると聞いた。
 けれども、当事者にとって「本名を名のる」ことは今でもたいそう重い。
 「アイヌモシリ」でも「ウチナー」でも「チョソン」でも、「名前」は「日本国」の権力によって奪われてきた。
 「名前」を取り返すこと、「文化」を奪い返すこと、それらは重要な課題であるだろう。
 「千と千尋」でも、支配は「名前を奪われる」ことで貫徹をされ、「名前」を取り戻すことによって「自由を奪い返す」ことが可能だったというテーマも重要な伏線として置かれている。
 それだから、「ハンドル」とか「ペンネーム」などと「ヤワ」な話は「やめてくれッ!」ということも分からないではない。
 けれどもちょっと待って欲しいとぼくは思う。
 「名前」とは何だろうか。
 親は我が子の誕生を言祝(ことほ)ぎ、その生涯に「幸多かれ」との「想い」を込めて「命名」をするのだろう。
 けれども、それは「戸籍」に登録をされ、「支配の枠組み」に組み込まれていくことでもある。

 「名前」なんて「識別記号」に過ぎないとぼくは思う。
 昔、「幼名」というものがあって、「元服」の折に「名乗り」があったのではないかとぼくは思っている。
 それだから、誰もが、自由な意志で「自分の名前を選んでいく」、そういう風になればどんなにいいだろうと思うのだ。