「報道」についていうなら今回の「検察特捜部証拠改竄」についても触れておかなければならないが、司法当局の姿勢が戦前戦後を通じて何ら変わらぬものであることは強調しておかなければならないだろう。
取り敢えず「教育界」などでは先の「教育基本法改悪」までは一定の「民主主義的改革」の洗礼は受けていたのだけれど「刑法・刑事訴訟法」などは幾度かの「改正」はあったとしても殆ど「戦前」からの非民主主義的な内容を踏襲したままなのだと蛙には思われる。
「裁判員制度」とか「取り調べの可視化」などが求められてきたのはその為であろう。
一般に「犯罪」が行われたとして、その「責任」を追求する権利は「国家」にのみ許されている。「司法権力」である。「法治国家」を標榜しているわけだから厳密に「法」によってそれは規制されているはずなのだ。
けれども実際は「警察・検察」の恣意的な判断に基づいて「こしらえられたストーリー」で「調書」が作成され、「裁判所」は「それ」を基に「裁定」する具合になっている。
「調書主義」と言われている。
多くの人々は「犯罪」と関わりないところで生きているから、その内容を知ることがない。
蛙は「少年事件」に関わってその「調書」なるものを見る機会があったから、事実としてそれがどんなに「えぇ加減」なものであるかはよく「分かる」。
「狭山」について考えてきた人には「警察・検察」がどれほど「えげつないことをやるか」はしっかり理解できるはずだ。
今回の事件はそもそも「民主党対自民党」の争闘が厳しい状況下にあって「検察当局」が「反民主」の立場から「石井はじめ」を狙いうちにするためにということが発端になっている。
「障害者向け団体郵便割引制度」の不正利用に関わって「石井はじめが『口利き』をし、厚労省・村木厚子局長が『認可』したもの」という「内容」が検察官によって「でっち上げられ」ての話だ。
「不正」は確かにあった。
ただ、検察の狙いが以上のようなものであったから「FD改竄」までしてでも「勝算はある」と踏んでいたのだろう。
10年前なら「村木側」は苦境に陥っていたかも知れない。
この間うち続いた「検察」の失態が「世論」を「村木側」の勝利に結びつけたという背景があるのだろう。
ことほど左様に「警察・検察のやることに間違いはない」という意識は強くあったはずだからである。
勿論、村木さんの粘り強い抵抗や支援者の強力な支援があってのことだ。
孤立無援に「警察・検察」と対峙すれば誰でも屈服を余儀なくされる。「冤罪」の全てはそのようにして生まれた。
この問題の核心は、「司法の在り様」の総体が問われているにも拘らず「改竄」した「犯人の個人的責任」に矮小化されようとしている、その一点であるだろう。
「警察制度」「検察制度」の抜本的な改革が求められているはずだ。
それらの行動が「密室」でおこなわれる「仕組み」から、民主的な「場」に改められなければならない。「取り調べの全面可視化」は恣意的な司法の「支配」を覆す、大きな力になる筈だ。
もうひとつ、あまり知られていないことであるが、「障害者団体郵便割引制度」そのものが、この事件をきっかけにして「使い勝手の悪いもの」にされている現状がある。
詳しい「情報」は手に入っていないが、このあたりにも多くの人の注目があてられなければならないのにマスコミにはそういう「視点」が皆目ないように見受けられるのも重大な欠陥と言うべきだろう。
取り敢えず「教育界」などでは先の「教育基本法改悪」までは一定の「民主主義的改革」の洗礼は受けていたのだけれど「刑法・刑事訴訟法」などは幾度かの「改正」はあったとしても殆ど「戦前」からの非民主主義的な内容を踏襲したままなのだと蛙には思われる。
「裁判員制度」とか「取り調べの可視化」などが求められてきたのはその為であろう。
一般に「犯罪」が行われたとして、その「責任」を追求する権利は「国家」にのみ許されている。「司法権力」である。「法治国家」を標榜しているわけだから厳密に「法」によってそれは規制されているはずなのだ。
けれども実際は「警察・検察」の恣意的な判断に基づいて「こしらえられたストーリー」で「調書」が作成され、「裁判所」は「それ」を基に「裁定」する具合になっている。
「調書主義」と言われている。
多くの人々は「犯罪」と関わりないところで生きているから、その内容を知ることがない。
蛙は「少年事件」に関わってその「調書」なるものを見る機会があったから、事実としてそれがどんなに「えぇ加減」なものであるかはよく「分かる」。
「狭山」について考えてきた人には「警察・検察」がどれほど「えげつないことをやるか」はしっかり理解できるはずだ。
今回の事件はそもそも「民主党対自民党」の争闘が厳しい状況下にあって「検察当局」が「反民主」の立場から「石井はじめ」を狙いうちにするためにということが発端になっている。
「障害者向け団体郵便割引制度」の不正利用に関わって「石井はじめが『口利き』をし、厚労省・村木厚子局長が『認可』したもの」という「内容」が検察官によって「でっち上げられ」ての話だ。
「不正」は確かにあった。
ただ、検察の狙いが以上のようなものであったから「FD改竄」までしてでも「勝算はある」と踏んでいたのだろう。
10年前なら「村木側」は苦境に陥っていたかも知れない。
この間うち続いた「検察」の失態が「世論」を「村木側」の勝利に結びつけたという背景があるのだろう。
ことほど左様に「警察・検察のやることに間違いはない」という意識は強くあったはずだからである。
勿論、村木さんの粘り強い抵抗や支援者の強力な支援があってのことだ。
孤立無援に「警察・検察」と対峙すれば誰でも屈服を余儀なくされる。「冤罪」の全てはそのようにして生まれた。
この問題の核心は、「司法の在り様」の総体が問われているにも拘らず「改竄」した「犯人の個人的責任」に矮小化されようとしている、その一点であるだろう。
「警察制度」「検察制度」の抜本的な改革が求められているはずだ。
それらの行動が「密室」でおこなわれる「仕組み」から、民主的な「場」に改められなければならない。「取り調べの全面可視化」は恣意的な司法の「支配」を覆す、大きな力になる筈だ。
もうひとつ、あまり知られていないことであるが、「障害者団体郵便割引制度」そのものが、この事件をきっかけにして「使い勝手の悪いもの」にされている現状がある。
詳しい「情報」は手に入っていないが、このあたりにも多くの人の注目があてられなければならないのにマスコミにはそういう「視点」が皆目ないように見受けられるのも重大な欠陥と言うべきだろう。