続・蛙独言

ひとりごと

ちょっとした事情で

2013-01-10 10:52:22 | 日記
「無為徒食」。
「小人閑居して不善をなす」。
為すべきことを為さず、徒に食し、飲む。
全くの「閑居」だわなぁ。

最近の蛙はちょっとした事情で、こんな風な状態。
エンジンがかかるのは14日以降ということになるらしい。
人ごとみたいだけどね。

12日には鎌仲ひとみさんの「内部被ばくを生きる」上映会、13日は「人権協会主催」の講演会に参加する予定だけれど、「自らが動く」という話でもないよね。

性格もよくないし、人間が「チッチャイなぁ」なんて、つくづく思う。

もう引退していい歳なんだからなんて、勝手に納得してるけど、「もう少し」は頑張って生きなくては。
三人も孫がいるんだし、しなきゃならないことはあるはず。

ブログの方は、なかなかだけど、本年もよろしくお願いします。

最近、ちょっと弱っていて。

2013-01-07 19:31:39 | 日記
困ったものです。
蛙は、ちょっと弱った気分。
体調が悪いわけではないのですが、気合いがね。
以下は去年の今日UPしたぶん、いい文章だと思っていますし、基本的には現状、なんら変わることは無いと思うので、再録しておきます。

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時代は大きく変遷をしてきたのです。
1月4日付けの「朝日」で、アントニオネグリのインタビュー記事が出ていましたが、蛙も彼の「仕事」には以前から注目をしていて、ちくま学芸文庫の「<帝国>とその彼方」(上下)を読みかけてはいたのです。
まぁ、「ちと難解か」ということで、置いたままにしておりましたが。
問題意識としては「共通する」ところは多いと考えるのですが、「新しい時代」に相応しい「新しいカテゴリー」が提起されているように思います。
「<帝国>」「マルチチュード」という題で2冊の分厚い本が上梓されていて、3部作の最後「コモンウェルス」が近刊になるようです。
それらを読了後、あらためて再考はしなければなりません。
蛙の考えでは、大雑把に言って、三つの時代区分ができる。
第1は「資本主義の勃興期から発展の時代」。
マルクスは「商品」の分析から始めて「資本主義社会の成立の必然性とその<非人間性>を超克するために」時代に対応する理論を築き上げました。
ちょうどダーウィンの進化論が一世を風靡していたのでしたが、その影響も大きかったと考えられています。
「資本主義から社会主義・共産主義への直線的な発展」というような、今では「夢想」と呼ばれて致し方ない「プログラム」を提起したのです。
それを担うのは「プロレタリアート」。
「パリコンミュン」の経験は「労働者階級の勝利の道筋」を示していました。
けれども「その経験」からたくさんのことを学んだのはプロレタリアートの側ではなくブルジョアジーの側であったと言わなければなりません。
「夢」はいつの時代でも大切なものです。
マルクスの「夢」は、「大ぼら」などではなく、その当時にあっては「僅かな可能性であっても目指されるべき目標」であったろうと蛙は思います。
第2の時代。
「帝国主義戦争を内乱へ」。
レーニンはこの時代を「腐朽しつつある資本主義」「死滅に向かう資本主義」と規定しました。
チャンスはあったと蛙は思います。
残念ながら「第2インター」は「帝国主義」の側に「買収」されてしまった。
この時代ほど「革命と反革命」が直接にせめぎあった時代はなかったのです。
それでも、ブルジョアジーの側は徹底的に傷つきました。
これ以降、「反共」は彼らにとって「至上命題」になりました。
労働者階級の闘いは「ソ連邦防衛」に集約され、「自由主義陣営vs社会主義陣営」などといった馬鹿げた「歴史」が続いたのです。
基本的には両陣営の支配層の安定のために、ということであったのではないでしょうか。
それでも、全く無駄な時間だったわけではなかったでしょう。
その間、労働者階級の不断の闘いによって一定の譲歩は勝ち取られてきましたし、それだから「民主主義」もそれなりな成果を挙げてはこれたのです。
また、反植民地・民族自決権の闘いも大きな成果を挙げてきました。
「死滅しつつある資本主義」と「腐敗を極める社会主義」は「ソ連邦と社会主義陣営の崩壊」をもって「この時代」は終焉を迎えました。
第3の時代は漸く始まろうとしているのでしょう。
一旦は「アメリカ一極支配」が完成したかのように見えましたが、それは「新たな敵」を作りださなければもたない脆弱なものに過ぎなかった。
「9.11」はアメリカにとって最高のシナリオを用意したのです。
短期間、機能したかに見えたアメリカの支配も自爆してしまいます。
資本主義は既に賞味期限を過ぎてしまっている。
この「時代」はネグリの表現を借りれば「逃走する資本主義」ということになるでしょう。
様々な弥縫策が講じられてきましたが、先行きは全く不透明。
事態を楽観的にみるか悲観的にみるか、見解は分かれるところですが、蛙はかなり悲観的な気分ですね。
ネグリ氏は「オキュパイウオールストリート」や「中東革命」を「マルチチュードの現出する一形態」のように考えているようですが、蛙は「アナーキズム」を越えることはないのではないかと考えています。
いづれにしても、「資本主義に最後通告を突きつける」その「刃(やいば)」が発見されなければならないことは言うまでもないことでしょう。
蛙は花崎皋平さんが提起した「ピープルの思想」の世界大での展開に期待するのですが。

さて、時代の変化に対応できていない「解放運動」、ここいらを、もっと突っ込んで考えていきたいと思います。

新年に

2013-01-01 01:45:35 | 日記
新しい年の初めに、とりあえず「生きている」ことを喜びあいたいと思います。

2012年という年が社会的にも政治的にも「希望の兆し」どころか、その正反対な流れで終わってしまったので、とても「おめでとう」を言う気分にはなれないのですが、もう一度、新たに気合いを入れ直して、頑張っていきたいなどと考えているところです。

3.11以降、原発事故の収束はおろか、東電と政府、或いは「原発利権」に群がる有象無象の輩を含め、破廉恥で無責任な対応が続いていて、福島の人々、とりわけ子どもたちの受難は深まるばかりのように思えます。

総選挙の結果も「この国」がどこに向かうのか、たいそう危機的な事態になっています。

鶴海の北川君は「俺は悲観主義者でもなければ楽観主義者でもない。希望主義者なのだ」と言われています。
蛙もそうありたい。

今回の総選挙の投票率を考える時、圧倒的な「絶望」感が多くの人々を支配したのではないでしょうか。
だとすれば、私たちの力が今ほど求められている時はかって無かったということになります。
2012年の様々な人々の努力が「希望」を繋いでくれています。
それはまだ、大きく燃え上がってきてはいないかも知れないけれど、確かな「希望」なのです。

蛙にとっては、「憲法を護る」、「脱原発の流れを拡大する」、そして事件以来50年を迎える「狭山再審の実現」などが中心的な活動の目標になります。

「支配権力の側は人々の力を恐れている。むしろ我々の側が勝利しているというべきである」。
その「勝利」を現実のものとして手繰り寄せるために、一人ひとりの力は小さなものに過ぎないけれども、たゆむことなく闘っていきましょう。