続・蛙独言

ひとりごと

「同盟」は変われるか 8

2010-04-28 13:26:54 | 日記
解放同盟の力に大きな期待を寄せる必要など何もないと蛙は考えている。
取り敢えず、我が身の回りで「必要な情報」を「必要な人」に届けるとか、「困難に直面している人々」の「支え」になれればいいと考えているだけだ。
勿論、「差別」を含めて、あらゆる「差別」を無くしたいという想いは強くあるけれど、「無くする手立て」ということになれば、「解放運動」の延長線上には「単純」には無いだろうと思う。
「ことば」で言えば「被差別統一戦線」みたような運動の構築ということになるのではなかろうか。
それは必ず「グローバル」な展開が要求されるだろうと思う。
また、必ずしも「被差別者」だけに限定されるような「結びあい」ではないだろう。
蛙が接する情報では「札幌自由学校・『遊』」の活動が、「進むべき方向」を指し示しているように思われる。
http://www.sapporoyu.org/
神戸では、「神戸学生青年センター」の取り組みが「それ」に近いように思われるが、
http://www.ksyc.jp/
両者とも、腹の底では「未来を切り開くために」という想いが込められていると思うけれど、随分、控えめな「姿勢」だ。
以前、「被災地NGO」の村井君と話してたんだけれど、「一杯素敵な取り組みはあるんだが、お互いが没交渉で優れた経験は共有されないし、協力関係も築けない」、現在はそんな状況なのだろう。
「この国」の支配の側でも統一した「指令センター」は無いように見受けられるが、古今東西、支配の鉄則である「依らしむべし知らしむべからず」という原則は貫かれているのだから、「反権力の側」がバラバラなままでは対抗などしようがない。
今のところ、「何もない」けれど、「時代」が「新しいナショナルセンター」を産み出すはずだという想いを持って、自身の分野で精一杯な努力を積み重ねていく外ないというところだろう。
現状、解放同盟には大きな期待はかけられない。
「狭山」は「国家とは何であるか」ということを問う闘いであるから、これだけは「民衆の力」を結集して必ず勝利しなければならないが、「同盟」の組織そのものは「贅肉をそぎ落として」もっとスリムな陣形を取る時期に来ていると蛙は思う。
ということで、「変われるか」などという割には大した話にもならなかったが、このシリーズはこれで終了。

「他力本願」

2010-04-27 18:48:09 | 日記
毎日チェックしてるページのひとつに「ストーンリバー」ブログがあって、考えさせられることも多いから勉強にはなっているのだけれど、今日のには「他力本願」という「ことば」があって、「そりゃ誤解じゃがな」なんて思ったので、ちっとその辺りを書いておこうと思う。

旧ブログにも書いたことがあったように思うけれど、「他力本願」という「ことば」の理解は大きな誤解が一般的にある。
元をただせば「浄土宗」「浄土真宗」宗派の「宗教用語」なんだけれど、これは宗派の理念からして、とても大切な「ことば」なんだ。
仏教に限らず「宗教」というものは「安心立命」というか「人間の救済」などということがテーマなんだろうけれど、フツー、「教えに従って戒律を守り自分自身が努力する」ことが求められているのだろう。
旧仏教では「悟り」に至るまでに相当の修行が求められたり、高い「徳行」を積み重ねることが求められたりするわけだけれど、法然や親鸞は「それやったら〈仏の救い〉は遍く人々に行き渡らないではないか」などと考えたようだ。
親鸞は基本的には法然の「教え」に従いながら、もっと過激に徹底的に「全てを阿弥陀仏に帰依する」方式を選んでいる。

一般には、例えば分かりやすい例で言えば、プロ野球の優勝を争うような場面で自身のゲームは既に終わっていて対象のチームの勝敗によって「結果」が決まるというような局面で「他力本願」などという「見出し」がスポーツ紙に踊ることがあった。
浄土真宗教団からは何度も「このような〈他力本願〉という言葉の使い方は遺憾である」旨、抗議が為されてきているのだけれど、あまり一般には理解されていない。
まぁ、「あなた任せ」というか「あいて次第」みたぁな理解なんだろう。

〈救い〉を人自らの〈力〉に頼るのか、それとも一切を投げ出して〈阿弥陀仏の本願力〉にのみ頼るのか、〈他力本願〉という〈ことば〉はそのような文脈でしか使われるべきではないのだね。

蛙も「親鸞の弟子たらん」という想いもあって相当「真宗」理解に努めてきたけれど、〈真実の信心〉というところまではなかなかいかない。

あちゃッ!

2010-04-27 17:57:41 | 日記
昨日、「辺野古はもう無い」なんて書いたのに最新のニュースでは「桟橋方式」だとか「徳之島抱き合わせ」なんてことで、「おい、おい、おーいッ!鳩山君ッ!そりゃないぜよッ!」ってところだね。
ホントに辺野古ってことになるんだろうか。

アメリカは「日本国」が「基地提供」してくれる上に全ての「経費負担」までしてくれんだから、自分から引きさがることなんて考えてないし「日本国」の事情なんて考慮に入っていないんだわ。
とにかく「海兵隊」が現状のままに機能する条件さえ整備してくれたら万々歳なんだからね。
娘に聞いた話だけど、現在のアメリカの軍事戦略上、「海兵隊」が沖縄に基地を持たなければならない理由など皆目無いらしい。ただ、「思いやり予算」など、多額な「かね」が期待されているからに他ならないということだ。

なんでそこまでアメリカに追従しなきゃなんないんだろうかね。
蛙には皆目分かりゃせんよ。

「普天間」再々度

2010-04-26 19:11:52 | 日記
昨日は沖縄で「主催者発表・9万」の集会があったという。
「基地はいらない」趣旨で、沖縄に連帯する集会が東京・大阪・京都などでも開催されたようだ。
神戸でも規模は小さなものだったが、元町の私学会館で集会があり、蛙も参加してきた。

現状、難しい段階ではある。
蛙は「お気楽」に「普天間はこのまま存続されるだろう」ようなことを以前にも書いている。
自民党政権の折に「普天間」は辺野古移設が決定をされていて、粘り強い反対運動が展開されてきた。
実際、困難は前政権に起因する。
多分、「この線」に戻ることは無い筈だ。
沖縄に一人犠牲を強いてきたことの反省から「県外、国外移設」という話なのだろうが、「この国」のどこに移設することも難しいことだろう。
「手を挙げるもの」など誰もいないのだから。
社民党は「グァム」などを挙げていたようだが、これも当の「グァム」住民の現在でも過重な状況やグァム島先住民に対する「差別」問題を考える時あまりに無責任な論法という外ない。
「本質的」には「海兵隊はいらない」、「武器で平和は作れない」という話であるのだが、「日本国」政権が「今、この時点で」そのように主張することは無理だろうと思われる。

問題は、「この国」の人々が、徹底的な平和主義を獲得できるのかどうかということになる。

「米軍基地」を時間をかけて減らすこと、「安保」を平等互恵な「平和条約」に改変すること、「日中・日朝」間の外交努力で恒久的な「平和条約」の締結を目指すこと、そういう大きな「東北アジア戦略」が「国民的合意」として確立されなければなるまい。

それ以外に「普天間」の解決は無い。

「同盟」は変われるか 7

2010-04-25 19:22:44 | 日記
「解放同盟」の運動が「時代に応じたもの」に変わって行かなければならないという想いは真面目に活動を続けている同盟員の共通のものなのだろうとは思う。
けれども、この「時代」というものが実はよく分からないのだ。
実際、戦争の終わりから長らく続いた「政治」の在り様が「この国」を腐りきったものにしてきたということがあるのだろうし、「政党」も「労組」も「企業」も、「社会」を動かしてきたような様々な「組織」の全てが「腐敗の極み」というところに至っているのではないだろうか。
「政治」の場面では、最も犯罪的なのは「自民党」と「共産党」だろうと蛙は考えている。
証拠など無いが、このトップって東大閥で占められてきたのだし、「誰も知らない裏側」で相互の「利益」を護るために通底してきたのだと思っているわけだ。
「あの時代」の「米ソ」間だって、「対立」は「演出されたもの」だったと思うし、それぞれの支配者の側で最も都合のよい「選択肢」という展開だったんだろうと思っている。

「人間」というものを冷ややかに突き放して見る蛙の立場からは「おおよそ人類は滅亡に向かって疾走しているのではないか」などと思われたりもする。
「それが運命(さだめ)だというならそれもよし」というところだ。
それでも自分としては「ジタバタ」だけはしていたいと思う。
「内容」が伴うかどうか、よく分からないままにでも…

今のところ、「解放同盟」は「変わる」兆しさえ無いようだ。
「中央」の「規約・綱領改訂」も「問題の所在が奈辺にあるか」を明らかにし得ないままに「変更」だけが自己目的化されているに過ぎないように蛙には見える。
「福岡」の事件も内容的に変わることのない「こと」は繰り返し起こる可能性は否定できない。
「似非」などというけれど、そんなものが通用すること自体が「おかしな話」なのだ。
「同盟」組織内にも「似非とどこが違うのか」という「動き」をするものは後を絶たないし、「全国水平連盟」などといった「まことしやかな名前」を名のってするする「団体」も雨後の筍ばりに跋扈するが、それは「この社会」が「差別を容認する構造」を払拭し切れていないということに他ならない。
尊敬する先輩で既に退職をされている元高校教師に聞いた話だが、或る時、教え子の親から「わしゃ〈〉やが」などと凄まれて「それがどないしてんッ!」って切り返したことがあって「後の展開」で良好な関係を構築してきたことがあったという。
〈〉と聞いただけで、それがたとえ理不尽な〈要求〉だったとしても〈屈服〉をしてしまう傾向は確かにあった。
今も、無いわけではない。
「同和問題資料」などという「本」を送りつけられて「高額な請求」に応じるケースなど、未だにあるようだ。
そのような「対応」をすることが「差別そのもの」であることが理解されない。
理不尽な要求には毅然と対抗することができなければならないはずだ。