「黒川みどり」批判ということが念頭にあるのだけれど、読みかけている「本」が実に読みづらいので、なかなかページが進まないんだね。
向学さんからは、ちと「せっつかれてる」って感じで、お互い「残された時間」も少ないんだから「頑張ってよ」って気持も分かるということはあるけど…
もともと蛙は「学校教育」でも「社会科」ってのが大ッ嫌いだった。
それが「受験」の「ためだけ」のものだったのだから当然な話だったんだけど、出会った「教師」のせいってこともあるんだろう。
狭間先生や石塚先生のようなら、も少し違ったかも知れない。
ほいで、それだから、その「反動」か知れないけど、蛙は「科学少年」として育ったわけで、今でも「量子力学」とか「宇宙論」、「生命科学」といった方面、そういうのを勉強してるのが「至福の時」ってことになってる。
そんな話なら3時間でも4時間でも喋ってて飽きないだろうね。
で、そういうのって「実生活」の場面で殆ど役に立たないんだわ。
(全くってわけじゃない。自身の実践面での考え方において「方法」として随分力になっていると思ってはいるけれど。)
蛙が最も尊敬しているのは花崎晃平さんなんだが、それは「何故か」といえば、自分の「思想」「学問」と自分が毎日生きている「実生活」とを「ひとつこと」として追求されておられるからだね。
黒川女史に限らず、「部落史」を「専門」とする「全ての学者」においては、蛙が見てきた限りには、「未来を切り開いていく実践活動」と切り離されて、「学問は学問」という立場が宣言せられているかのようだ。
「そんなものはクソの役にも立たない」ってのが蛙の立場で、向学さんの場合、「そりゃ『学問』としても事実に反するし、却って『差別』の拡大再生産につながるんではないか」ってことになるらしい。
蛙は「読了後、まとめて」って考えているわけで、今のところ、著書の五分の一くらいなんだけど、三重の「歴史的事実」の「検証」ということらしいが、「博士課程」の「論文」ということでは(蛙には縁のない話だけど)微に入り差異を穿つものとして「高得点」を得ることはできるのかも知れないと思う。
で、蛙の場合、「それに何の意味があるの?」って根本的な疑問があるわけだ。
現在の「学」自体に対する「絶対的な不信」ということだね。
重要なことは「世界の解釈」でなく「世界の変革」ってことだと思う。
向学さんからは、ちと「せっつかれてる」って感じで、お互い「残された時間」も少ないんだから「頑張ってよ」って気持も分かるということはあるけど…
もともと蛙は「学校教育」でも「社会科」ってのが大ッ嫌いだった。
それが「受験」の「ためだけ」のものだったのだから当然な話だったんだけど、出会った「教師」のせいってこともあるんだろう。
狭間先生や石塚先生のようなら、も少し違ったかも知れない。
ほいで、それだから、その「反動」か知れないけど、蛙は「科学少年」として育ったわけで、今でも「量子力学」とか「宇宙論」、「生命科学」といった方面、そういうのを勉強してるのが「至福の時」ってことになってる。
そんな話なら3時間でも4時間でも喋ってて飽きないだろうね。
で、そういうのって「実生活」の場面で殆ど役に立たないんだわ。
(全くってわけじゃない。自身の実践面での考え方において「方法」として随分力になっていると思ってはいるけれど。)
蛙が最も尊敬しているのは花崎晃平さんなんだが、それは「何故か」といえば、自分の「思想」「学問」と自分が毎日生きている「実生活」とを「ひとつこと」として追求されておられるからだね。
黒川女史に限らず、「部落史」を「専門」とする「全ての学者」においては、蛙が見てきた限りには、「未来を切り開いていく実践活動」と切り離されて、「学問は学問」という立場が宣言せられているかのようだ。
「そんなものはクソの役にも立たない」ってのが蛙の立場で、向学さんの場合、「そりゃ『学問』としても事実に反するし、却って『差別』の拡大再生産につながるんではないか」ってことになるらしい。
蛙は「読了後、まとめて」って考えているわけで、今のところ、著書の五分の一くらいなんだけど、三重の「歴史的事実」の「検証」ということらしいが、「博士課程」の「論文」ということでは(蛙には縁のない話だけど)微に入り差異を穿つものとして「高得点」を得ることはできるのかも知れないと思う。
で、蛙の場合、「それに何の意味があるの?」って根本的な疑問があるわけだ。
現在の「学」自体に対する「絶対的な不信」ということだね。
重要なことは「世界の解釈」でなく「世界の変革」ってことだと思う。