続・蛙独言

ひとりごと

「世界」について 2

2011-02-19 14:05:27 | 日記
現に在る「自由」とは、支配階級が民衆を「煮て食おうと焼いて食おうと勝手」であるという意味に他ならない。
現に在る「民主主義」とは、暴力的に維持される圧倒的な「後進」国群民衆の「血と涙」の犠牲の上に立って、それらを「見ないことにする」というペテンの下に成立しているに過ぎない。
「日本国」民衆もまたその「罪」から逃れることはできない。
けれども、そういう現実が「未来永劫」続いていくはずもないと蛙は思う。

ハンチントンは「トンチンカン」だと思っていて「文明の衝突」などの彼の著作を読んでいない。読まずに言うのも何だけど、「キリスト教対イスラム」、西洋文明対ムスリム世界という風に「時代」を解き明かそうということなのだろうかと思っている。
それならば「それは違う」と言わなければならない。
世界の「変転」は「支配階級」と「被抑圧民衆」との「階級闘争」がその動因なのだということを覆い隠す主張であるからである。
「イスラム教」については一度しっかり学んでみなければならないと考えているが、だいたいユダヤ教もキリスト教もイスラム教も「元」はといえば「一っところ」から出たもので、「唯一神」は「同じもの」なのだと思っている。
蛙の理解では、ユダヤ教もキリスト教も「商業活動」とは「親和的」であるが、イスラムの場合、「相互贈与」が主たる経済活動の基底におかれていると思う。
マスコミの論調で「イスラム過激派」が「貧しい人々から支持されている」のは「貧民救済のために食糧・生活物資が給付されている」がためだと強調されたりするが、そしてその基調が「過激派」が「支持を取り付けるためにする偽善」であるかのような主張であったりするが、それはいかにも「ブルジョア道徳」に染め抜かれた者の「ためにする」非難というべきであって、そのようなことはムスリムにとってはごく自然な「生活態度」なのだろうと蛙には思われる。

岩井克人の著作は随分読んだように思っていて「なかなか面白い」なんて思っているが、何が書いてあったか、きちんと覚えてはいない。ただ、「資本主義」のエンジンは「差異」みたようなことを言っていたと思う。
「あっち」で安価な「もの」を仕入れてきて「こっち」で「高く」売るって話だ。
紀伊国屋文左衛門だって「それ」で大儲けをしたんだったし、「大航海時代」も「それ」が支えだった。
「今」だと「あっち」の「人件費」は安くて「こっち」の「人件費」は高いということで「工場」がどんどん海外に出て行く。
中国の「人件費」もだんだん高騰してきたから今度はバングラディッシュへ行こうなどという話も出ている。
また、ある企業が優れた技術開発で他社とコスト面で差をつけて大きな利益を生むという話もある。
これは一層の技術開発競争ということになる。
いづれについても「いつかは平準化する」に決まっている話だ。
「石油」について考えてみよう。
現在は「石油化学文明」の時代だ。
ところで「石油」の価格はどのようにして決まっているのだろうか。
俗流「マルクス主義」の立場では、その「商品」の内にどれだけの「抽象的労働力」が投じられているかということになるのだろうか。
「原油」を採集し、それを「製油所」に運び、精製をして「ガソリン」なり何なりの「商品」として消費されていくわけだが、どう高く見積もってみても「10円・20円」の世界だと蛙は思う。
現在リッター当たり130円から140円くらいだろうが、日本の場合「税金」として「持っていかれる」分もあるわけだが、それにしても途方もない「利益」が「産油国支配層」「石油メジャー」にもたらされているはずだ。
今、その「産油国」あたりで「騒動」が起こり始めた。
(次回につづく)

「世界」について 1

2011-02-17 21:41:09 | 日記
91年のソ連邦崩壊とそれに引き続く東欧諸国解体は「裏切られた革命」として記憶されるべきことであったが、それらは実際のところは「自壊した」のだと言うべきであって、何も「自由主義陣営」=資本主義体制が勝利したわけではなかったのだ。
にも拘らずブルジョアジーの側は「勝利の雄叫び」をあげ、アメリカ一国中心主義と「新自由主義」が世界を席巻しておおよそ20年という月日が経過をした。
さて、どこに立ち至ったか。
現に目の前にある世界は誰の目にも明らかなように「混迷と当惑」が沸点に達していて、「新しい時代」を作り出していくためのどんなイデオロギーも発見をされてはいないというところなのだろう。
「年寄りの繰言」として「昔はよかった」というのがある。
多くはインチキ臭いものであっても、当時の「社会主義体制」は「民族自決」の闘いや「反独裁・民主主義革命」の重大な支えであったし、「先進」資本主義国の労働者階級の闘いの後ろ支えとして充分な機能を果たしてきたのだった。
例えば「ベトナム戦争の勝利」、例えば「キューバ革命の勝利」、例えば「先進」国の労働組合運動の前進などなど…..
「昔はよかった」なぁとつくづく思う。(涙が出そうだよ、ホントにッ!)
この後、ベトナムのドイモイ政策がどのように展開するのか、或いはまた「キューバの未来」がどんなものになるのか、蛙にはよくは分からないが、今のところ一番信頼を寄せているところだし、それだからその「行く末」に対する心配もまた大きい。
「先進」国労働運動の方は「完全に敗北をした」ように蛙には見受けられる。
特に「我が国」ではそうだろう。
「労働基準法」さえ護ることができない「労働者階級の闘い」などというのは蛙の想像を絶する世界だ。
実際、「派遣」労働を巡るこの間の労働側の対応は何だったというのか。
とりわけ「連合」幹部の罪は重いと言わなければなるまい。

「世界」を考える際であるが、「階級的な視点」からものごとを見なければならないということを強調しておきたいと思う。
アメリカを筆頭に中国、ロシア、韓国・「北朝鮮」そして「我が国」、その他諸々の諸国家は「全て」「強盗国家」であり、支配の座についているのは「強盗共」なのだということを忘れてはならない。
例をとろう。
この時期、中国が我が国を抜いて「GDP」で第二位に躍進をしたという報道がなされたが、それをどのように受け止めるべきか。
マスコミは大々的にこれを取り上げているが、何故、大騒ぎをする必要があるのか。
ある組織の基調に「アメリカも日本も、経済的には中国を無視や敵対はできない状況になって」いるというような文言が書かれていて蛙は唖然としたのであるが、マスコミがこのように騒ぎ立てる意図にみごとに嵌められているという他ないというべきだろう。
マスコミは「この国」の支配層の宣伝機関であり、これはあからさまなイデオロギー操作なのであって、それに対抗する「逆宣伝戦」が考えられなければならないはずなのに、だ。
言っておくが、GDPなどという「指標」で世界を評価するその姿勢がそもそも「支配の側に屈服する」ことになるのだ。
GDPとは「国内総生産」のことだから、中国が日本を抜くのは「その人口」からして当然のことなのだ。必ずアメリカをも追い抜くだろう、日本はまたインドにもロシアにも必ず追い抜かれることになる。
その国の「人口」や保有する「資源」からして早晩、それは必然なのだ。
実は、そんなことは大した問題ではない。
「世界」を考える際、我々が「指標」として見定めなければならないのは「平和・人権、そして民主主義」の意識の成熟度なのだ。
中国のGDP第二位だって、「一人当たり国民総生産」を見れば、日本国の十分の一に過ぎない。
大騒ぎをする必要は何もないのに何故、マスコミ・支配層が「こんな話題」を喧伝するのかを考えなければならない。
曰く「中国に負けていいのか。競争に必ず勝つために更に一層の労働者の賃金の低下が図られなければならない。法人税ももっと低い水準に抑えなければならない。世界は大競争時代なのであるから、勝ち残るためにはもっと規制緩和を推し進め、自由経済を進展させなければならない」=詰まるところ徹底した新自由主義の展開というところに結ぼうという話なのだ。
(まッ、このくらいでちょっと休憩)

希望を

2011-02-11 17:55:34 | 日記
世界大でもこの「国」内でも、多分、「腐敗」は「極地」にまで立ち至ったということなのだろうと蛙は思う。
最近、仏教がらみのをよく読んできていて「末法の時代」だなぁなんてこと、つくづく思うけれど、それだからして「個人の救済」などというところに行こうなどというのは「いかがなものか」なんて思うよ。
そこいくと「闘う仏教」の佐々井さんの「非暴力・反差別」なんかはすとんと胸に落ちるわなぁ。
さて、まず「世界」だけれど、「リーマンショック」以来の景気後退について、蛙は「これは恐慌などではない。資本制社会に本来内在する<本質>の展開なのであって、<富>は少数者に更に集中をし<貧困>は更に拡大をする。そのことによって早晩、景気は上昇することになるだろうが、一層の矛盾の集中が<弱者>に襲いかかってくることは間違いない。それはまた支配者層をも震撼せしめる危機を招くことになるだろう。」ということをこれまで言ってきていた。
事態はまさにそのように展開をしている。
エジプトとその周辺国では「民衆の反乱」が激しさを増している。
「世界の盟主」アメリカの都合に合わせて「つくられている世界秩序」がほころびを見せ始めているということに他ならない。
実に残念なことは「ブルジョワ支配体制」に対抗すべき「民衆の側」に「思想」と「方法」が未だ「発見」をされていないことだ。
花崎皋平さんが「ピープルの思想」を提起し、アントニオ・ネグリが<マルチチュード>を提起しているが、今のところそれらは「大衆的に承認をされていない」し、対抗思想が「ムスリム」をおいて外に無いというのが現状だろうか。
翻って、我が国においても、アメリカ追随を更に強めながら、資本の側は一層、その力を、その富を増大させ、民衆は更に追い詰められてきている。
「対抗する力」の弱さが「小泉」や「石原」「橋下」などのポピュリズムをのさばらしてきたわけだが、今のところ「極右」的展開が大きな流れにはなっていない。
一番心配なのは、民衆の怨念が「そのようなもの」にすくい取られることだろう。
果たして「我々の側」が未来を勝ち取れるのかどうかよく分からないが、少なくとも「小さな流れ」に過ぎないとはいえ「反権力・反差別」の闘いは<それぞれのところ>で拡大してきているのだから、それらを集中していくような地道な行動が求められているのだろうと思われる。
希望を失う必要はないッ!