差別糾弾ということでは困難が大きく二つある。
ひとつには、再々言ってきた「差別―被差別の非対称性」だが、糾弾される側に「何故、弾劾されなければならないか」、なかなか理解がいかないということだ。
勿論、在特会を初め、ネットで溢れかえる言質や行為など、意図的で挑戦的なものがあるが、これらについては別稿で扱うことにする。
この困難の克服には、たいへんな忍耐と冷静沈着な対応が求められる。
蛙の経験上、差別者側が「どんな風にと向き合ってきたか」という点検が焦点になる。
大概、親など家族から言い聞かされてきたことや仲間うちの噂話を信じ込んできた場合が多い。
実際に「の人から酷い扱いを受けたことがある」ということも少ないけれど、ない話ではない。
「はこわい」といった印象を持っているわけだが、対話が成立している場合、「民全体がそのように言われなければならないのは何故か」と問われて、答えに窮してしまう。
確かにの側に「悪い人間」はいないわけではないが、全体がそうだということにはならないのだから、実際のと民の現実を知れば、自身の認識がどれ程誤ったものであるか、理解することができる。
差別者が自らを偏見から解放していく過程ということになる。
これは差別者が謙虚な対応を示す場合で、このような「糾弾の成功例」は多くある。
ただ、差別者側が初めっから逃げ腰で、言を左右にしたり、「そのようなことを言った(した)覚えはない」などと嘘をついたりということもまたよくある。
「自分はの友人とも親しく付き合っている」などという台詞もよく言われる。
この国は非常に差別意識が根強くあって、差別に限らず、大方の人は「それ」から自由ではあり得ない。
週刊朝日の橋下徹を対象にした差別記事の例からも分かることだが、「高い教養」を身につけていると考えている人程、差別意識から自由ではあり得ないのだ。
それだから差別糾弾を受けた人は、実は「人間として」恥ずかしくない地点に到達するチャンスを与えられているのだ。
ところが、そんな風に受け止める人は少ない。
誰でもそうだと思うが「自分はそんな悪人ではない」」と考えている。
親鸞は「自分程の悪人はいない」と言っているが、自身の行為や言動が、実は大きな「悪」であるかも知れないと考える「謙虚さ」さえあれば、この「差別のわな」におちいることを避けることができる。
ここに「りんご」がある。
何故、「それ」が「りんご」と呼ばれるかなどと考える人間は、蛙のような変人はともかく、普通はいないだろう。
「ことばは世界を恣意的に切り取る」とソシュールは言っている。
そうだ。それが「りんご」と呼ばれなければならない必然性などないのだ。
勿論、日本語を母語とする話だが、誰もがそのように言うことを「言葉を獲得していく過程」で自然に受け入れていくということだ。
「」もまた、そのようにして人々の中に「差別的な内容」をもって受け入れられていく。
断っておかなければならないが、それは何も「外」の人々に限った話ではなく、当の「」の側でも同様なのだ。
「差別」とはそのようなものなのである。
「大きな困難」の「ふたつ目」は次回。