続・蛙独言

ひとりごと

訂正

2011-10-26 13:28:17 | 日記
前稿で、広島に投下された原爆(リトルボーイ)で、「失われた質量」が0.7gだったと書いたが、昨日、「脱原発明石・たこの会」の学習会で「小出裕章・福島で今何が起こっているか」というDVDを見たところ、0.7でなくて700gだったと言われていたので、あちこちページを開いて調べてみた。
蛙が前稿を書くにあたって参照したページの方が間違いで、どうやら小出先生の方が正しいらしい。


「原発」

2011-10-24 15:42:49 | 日記
いかにも悲しい話だが、私たちが手にしている「科学技術文明」のおおよそは「戦争に勝ちぬくために」磨かれてきたものなのだ。
「世界最初の汎用コンピューター」とされるENIACは大砲の弾道計算用として開発をされたものであるし、「宇宙開発」もICBM等の技術開発が根底に置かれていたのだろう。
それらを数え上げればきりがないことになる。

20世紀初頭にアインシュタインによって「特殊相対性理論」が発表をされて後、物理学は大きな前進をみた。大層難しい話だから蛙も大雑把なところを理解しているだけだが、ここではそこで明らかにされたことの内の一つの側面である「E=mc²」の話をしておこうと思う。
広島に投下された原爆の場合、ウランは約50kgで、実際に失われた質量は0.7gだったと言われている。たった0.7gの「質量」が「エネルギー」に変換されて放出されただけで、あれだけのもの凄い惨劇をもたらしたのだ。
「原爆」にしろ「原発」にしろ、その原理は共通していて「核分裂反応」で「失われた質量」に見合う「エネルギー」を利用しているわけだ。
「原発」では、それで「湯を沸かして」タービンを回すというだけのこと、「発電」の仕組みは「火力」と変わるところはない。
「原発」の燃料はウラン235であるが、ウラン鉱石の99%はウラン238で、ウラン235は1%にも満たない。
「原発」燃料としてはウラン235の濃度を5%程度までに濃縮しなければならず、「ウラン型原爆」だと90%以上までの高濃縮が必要となる。
六ヶ所村には「濃縮工場」はあるが必要量を賄うに足るものではなく、ほぼ全量を輸入している。
「原爆」の開発過程や「原発」の事故で、これまでも多くの命が失われてきた。
「放射能」という厄介な代物のせいだ。
それ程にも「核」を取り扱うことは技術的にもたいへん困難な仕事なのだ。
ウラン235は、原子炉内で核分裂をし、放射性ヨウ素・セシウムなどを産み、また一方でウラン238をプルトニウムに変換をする。
今回の福島原発事故では大量の放射性物質が外界に撒き散らされることになった。
チェルノブイリでさえ25年経っても、その被害は継続している。
今回の事故は「それ」を上回るものだったように思われる。
この国の全ての人が被災者なのだ。
今後、注意深く対処していくことが求められているのだろうが、この国の為政者や実質的に支配の根幹を握りしめている階層には、「ひとのいのち」を護ろうという「考え方」はないように見受けられる。
彼らには莫大な蓄財があるのだから、必要となればどこにでも逃げられると考えているのだろう。
「どこにも逃げることができない我々こそが立ち上がらなければならない」、今はそういう時に違いない。

こんなことを考えていて、腹の底からの怒りがこみ上げてくる。

「こどもの本」など

2011-10-19 15:36:57 | 日記
最近の活動レベルはずっと「下がったまま」なんだけど、体調が悪いわけでもないのに、精神的に随分弱っているんだわ。
「悲しいこと」があまりにも多すぎるからだろうね。
それに、「自身ができること」があまりに小さく「情況はあまりに暗い」ということもあるだろう。
「小人閑居して不善をなす」って気分。
どんな風に「閑居」かってーと、ずーとこの頃、「子どもの本」を読み返していたんだ。
ウチの子どもらが小学校時分、読んでもらうに「いい本はないかなぁ」と思って、色々、漁っていたんだ。
一等最初に買ったのは「ぼくのくれよん」という絵本、長新太さんの最高傑作だと蛙は思う。
この人の本は、それ以降、「ちょびひげらいおん」「つみつみにゃー」「ぼくはいすです」等など、相当な数を買ったんだけど、どれもみな、凄い「おはなし」だった。
「おはなし」をどう読むか、それはもう、「読み手」の勝手なんだと思うけれど、たいがいな「本」は、読者の自由な想像力を押さえ込んでしまって、「こうなんですよ」って「おしきせ」の、そう言ってよければ「思想」を強要するものが多い。
長新太さんのは、その反対で、メチャクチャ面白いのだ。
2005年に77歳で亡くなられたのだけれど、こういう凄い「書き手」はもう現れないのではないかと思う。
斉藤洋さんの本も面白かった。
「ルドルフとイッパイアッテナ」2巻物、「ペンギンハウスのメリークリスマス」「風力鉄道に乗って」が手許に残っていたので、読み返していた。
他にもたくさん買ったはずだが、誰かに貸したかあげたかしてしまった。
一々、評をつけたいところだけれど、今は「いい本だ」とだけ言っておこう。
概して、「敵と闘う」という類いのは、あまり好きではなかったけれど、「時間泥棒」と闘う「モモ」なんかは良かったと思う。ミヒャエルエンデのは「果てしない物語」とか「ジムボタン」2巻物も読み返したりしていた。
わたりむつこさんの「はなはなみんみ物語」も好きな本だ。「いちごばたけのちいさなおばぁさん」なんてのもあった筈だが、手許に残っていない。
斎藤 惇夫さんのガンバシリーズ3巻物も面白かった。
蛙の場合、基準がはっきりしていて、「反権力」「反差別」ということと照らして、「おはなし」を読むわけで、圧倒的に詰まらない本が多いわけだ。
大石真さんは田中正造を書いた「たたかいの人」を読んでいっぺんに好きになって、その後、「チョコレート戦争」とか「教室205号」等など、何冊も読んだ。
あと、他にも色々、読んではいるけれど、心底、「凄い書き手」だと思っているのは、山中恒さんだ。
戦時中、「皇国少年」として育った山中さんは、戦後、いけしゃーしゃーと「民主主義派」のような顔を晒す「教師」や「物書き」の理不尽さを許せず、丹念に「資料」を掘り起こして、「戦時教育の中身」を記録し続けてきた。
その成果を多くの本として出されていて、これもたくさん読んだ。
「子どもたち」に向けて書かれたものもあれば、大人向けで「戦争の真実を問う」作品を出されているので、蛙は随分勉強になった。
また、山中さんは「児童読み物作家」と自称されておられて、「あばれはっちゃく」など、めっちゃたくさん書かれているので、その全てに目を通しているわけではないが、蛙が感ずるところ、子どもがまず最初に出会う「権力」である「母親」とか「教師」を「こてんぱんにやっつける」、そんなところがあって、「そやッそやッ!」てな気分にさせられるのが、素敵なんだ。

本屋を覗いてみても「いい本」はあまりに少なくて、蛙のお薦め本など、絶版になってたりで、お目にかかれないことが多いような気がする。

「この国」で

2011-10-16 11:08:09 | 日記
フィデルカストロがまだ元気だった頃、10時間を越えるような大演説をやったりしたものだった。彼の演説の長さは有名だったし、その内容は「帝国主義者共を震撼せしめるに充分なもの」であったから、多くの被圧迫階級からは熱狂的な支持を得ていた。
残念なことに「この国」では殆どの人に理解されてはいない。
彼が「国連総会」で話した内容は、「世界の1%の人間が富を独占し99%の人々が貧困に苦しんでいる」ことを指摘し、富裕層を弾劾するものだったのである。
今、「オキュパイ ウォールストリート」を合言葉に地球を一周した「貧乏人」の叛乱は、フィデルの思想と地続きなのだと言うべきだろう。
蛙は、この「10/15」の日は「脱原発」の小さな集会に出ていたが、「この国」でも東京で三か所、京都や大阪を初め、各地で「呼びかけ」に呼応する様々な取り組みがあった。
時節がら、「脱原発」のスローガンが多かったようだが、勿論、「反貧困」「仕事よこせッ!」といった内容だったのだ。
いまだ少人数の域を脱してはいないが、この流れを大きく育てていかなければならいだろう。
問題は、敵側は「一枚岩」の団結をもって「闘い」を圧殺してくるのに、それぞれの「闘い」が「全体に共有されない」ことだ。
「三里塚」がそうだ、「辺野古」も「上関」もそうだ。
権力の側は直接的な暴力をも動員して、「闘い」を押し潰しにかかってくる。
「人々」はただ「平和で豊かな生活を護ろう」としているだけなのに…
「この国」が「民主主義国家」などと誰が言ったのだろう。
「フクシマ」では「子どもたちのいのち」さえ省みられることが無い。
権力の側は「人のいのち」など、これっぽっちも大事に思うことはない。
「北朝鮮」も「いい国」だとは思わないが、「洗練されたブルジョア独裁」国家である「この国」は、それよりもずっと悪質なものだと蛙は思う。
「対抗する我々の側の闘い」が「大きな一つの流れ」に成長していくために、「何をなすべきか」、皆がみな、その「問い」に答えていかなければならないのだろう。

「世界」はどこへ 2

2011-10-08 15:52:33 | 日記
周知のように世界のキーカレンシー(基軸通貨)は米ドルであるが、これは「約束事」にしか過ぎない。
ブレトンウッズ協定が結ばれた折、アメリカは圧倒的な「経済力」を保持していたのだから、それはあたかも「自然なこと」として受け止められたのだろうけれど、その「約束事」が、ここにきて「アメリカの没落」を決定付けたそもそもの「原因」となったのだと蛙は思う。
「驕る平家は久しからず」ということだ。
世界の「富」がアメリカ一極に集中をし、アメリカ国民が「消費生活万歳」というライフスタイルを謳歌し、そのことによって「一部」の「資産家」が「全てを独占していく」、そういう過程が行き着くところまで行き着いてしまったのだ。
これは「合法的詐欺」というべきではなかろうか。
以下のページは、見やすいように「コメント欄」にも貼り付けておくので、一読願いたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/osanponikkoonsenmeguri/44763117.html

内容について、全て「正しい」とは思わないが、おおよそのところは「現況」を理解する上で参考にはなるだろうから、見ておいて損はない。

アメリカに追随し、その「おこぼれ」にあずかってきた「我が国」の支配層は、ここにきて、どんな進路を選択しようとしているのか?
「毒食わば皿まで」という具合に、アメリカとともに「地獄まで」お付き合いをしようというのだろうか?
尤も、「地獄に落ちる」のは「一部支配層」ではなく、日米ともに「民衆」ということになるのだが….

蛙は、一応、「マルクス主義者」を名乗ってはいるけれど、左程「分かっている」わけでもないから、幾分かの疑問符はつく。
少なくとも日本共産党の諸君よりは「ちとマシ」かというところだろう。

マルクスは「商品」の分析を通して「資本主義経済」の本質をあからさまに示し、「経済学」そのものを、それだから「世界のあり様」そのものを根底から批判をした。
提起されたのは「人間的社会の建設」であり、「アソシエーション」であった。
「時代」は「ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争」であり、「ブルジョア独裁」を排して「プロレタリア独裁」が目指されなければならない、その道筋は「パリコンミュン」によって示されている、「資本家」は「労働者」を雇い入れなければならず、「工場で働く労働者」はそこで鍛えられ、「革命的階級」として登場する、「資本制社会から共産主義社会への発展は必然である」、概略、彼はそういったのである。

「マルクスの天才」をもってしても、その後の百年を見通すことはできなかった。
時代的制約ということだ。
同時代のダーウィンの「進化論」が与えた影響は大きかったともいわれている。
既に現在のマルクス主義者の間では、「マルクスの進歩史観」は明確に否定をされている。
また、時代は大きく変遷をしてきて、「工場労働」を基軸にする「搾取」の構造自体はそのままにあるとは言え、「IT技術」と「情報革命」が「世界の態様」を凄まじいまでに変革をしてきた。
内容は、「新・金融資本主義」とでも名付けるべきものになっていて、瞬時に「資金」を移動することによって「利益」を強奪していく暴力的過程となった。
「ブルジョア対プロレタリア」という単純な対立は後継に退けられ、「少数の富裕層」と「圧倒的多数の貧困層(=プレカリアート)」の対立という関係に変化してきた。

どういう「闘い方」が有効性を持つのか。
「ウォール街を占拠せよ」という運動は、勿論、蛙もまた、高く評価はする。
蛙は「アナーキズム」と規定しているが、ここでは「権力」の問題が抜け落ちているからだ。
「少数の富裕層」ががっちり「権力の軸心」を握り締めているのであるから、容易には「彼ら」を打倒することはできない。
彼らが「武器」にしてきた「IT技術」が、「彼ら」に対抗する道具として機能するようになったことは「弁証法の実例」として指摘することはできるが、「勝利の道具」までにはならないだろう。
チュニジアから始まった「中東の春」に類比されることがあるが、「そこ」では「あまりに脆弱な権力」の支配があったからであり、何よりも「国軍」が「独裁者」から離反したことが決定的だった。

「勝利の道筋」はどのように準備されるか、今のところ、誰にも言い当てることはできないが、注意深く「状況」を正視し、誰もが「自身に可能な方策」を探し出していく、そういう努力が求められているようだ。