続・蛙独言

ひとりごと

1.17と3.11 (1)

2011-06-30 16:25:06 | 日記
「あの日」からとうとう百日以上も過ぎてしまったというのに、事態は収拾のつかぬまま、「放射能汚染」はいよいよ拡大をしていくようだ。
やりきれなさで「言うべきことば」もないというところだが、思いつくまま、1.17との比較など、書き留めておこう。
「原因」は「地震」なのであるから、何かしら共通項のようなものはあるかも知れない。
まず「地震そのもの」の相違点だけれど、「阪神淡路」の場合は「直下型」であったから、相当広範囲に被害は及んだとはいえ、「今回」のような「プレート型」の場合では比較にならない程の範囲の広さになったこと、そして決定的な違いは、甚大な「津波による被害」があったことであるだろう。
亡くなられた方の殆どが前者では「建物の倒壊による圧死」であったが「今回」では「水死」が9割を占めるらしいし、人数にしても未だ確定をしていないが「阪神淡路・約6500人」のおよそ3倍から4倍ということになるようだ。
「津波」は「この地」の主要な産業である農業と漁業に致命的な被害をもたらしている。
今回の「災害」で、最も重要な視点は「原発事故」ということになる。
「それ」さえなければ、途方もない時間が必要であったかも知れないが、必ず、「未来」は切り開かれていくはずだった。
「事故の収束」が果たして可能なのかどうか、今ではそういう不安さえ覚え、胸を押し潰す。
「福島第1」では「震度」は「6強」だった。
神戸の「震度7」よりも実は小さかったのだ。
「想定外」などという屁理屈は「原発事故」では通るわけもないだろう。
「原発」を推進してきた自公政権や電力会社は「業務上過失致死罪」が適用されてしかるべきではないか。
「原発」に話が及ぶと、だんだん興奮してきてしまうから、少し話を戻そう。
「阪神淡路大震災の記憶を風化させてはならない」、多くの人々がそのように主張した。
勿論、少なからぬ人々は「その想い」を腹の底において活動を続けてはいる。
例えば「被災地NGO」の村井君たちがそうだし、「被災地障害者センター」もいちはやく「現地」に入っていて、「支援」を続けている。
ただ、と蛙は思う。
言わずもがななことかも知れないが「風化」とは「岩石」などが灼熱の太陽に曝され、雨に打たれ、風に吹かれて「ボロボロ」になってしまうことではないか。
ここで言われる「風化」はどう捉えるべきだろうか。
「風化させてはならない記憶」とはなんであるか、「風化をもたらすもの」が何であるか、それをしっかりつかんでおかなければならなかったはずだったが、既に「風化」は進んでいると言うべきだろう。
「あの時」、蛇口をひねればいつでも水が使え、夜、ウチに帰れば明かりがあり、ガスが使えて食事や風呂も、という「日常」がいっぺんに失われた。
目の前で崩れた家の下敷きになって焼かれて死んでいく身内をどうしようもなく泣き叫びながら見送ったことや、頭が潰された我が子を抱いて「どうしても助けてもらいたい」と病院に飛び込んでくる母親や、それはそれは数限りない「地獄」を確かに見たのだ。
それでも「生き残った人々」は「なぜ、愛する人の代わりに自分が死ななかったのか」と自問しながら、生きていかなければならない。
そして、「癒えぬ傷」にふたをしながらではあるが、「人とのつながり」を頼りに立ち直りを図ろうとする。
そこで、夜の闇がこんなにも深いものだったと知ったことや、夜空の星がこんなにもきれいに輝いて見えるのだと改めて知ったことや、隣近所の人々と、そこいらに山とある廃材で、飯を炊き、鍋を囲む。
また、全国から届けられる、心のこもった「物資」を受け取って、人の温かさに感謝をする。
何もかも失った人々が「そのように集う」現場に蛙もいたけれど、「深い悲しみ」が塗り込められてはいたのだろうが、「そこ」は「解放区」のように自由であたたかな空気が充満をしていた。
そうなのだ。
「何もかもがある」、そういう「日常」が実は「たわいもない虚構」の上に成り立っていたのだということを、皆は感じ取っていたはずだ。
この「解放区」を押し広げていく、そういう「戦略」も「戦術」も誰も見つけることはできなかった。
多分、「文化の作り直し」が求められていたはずなのだ。
そして、16年という時間が経過し、人々は、「大量消費」という「この国の文化のあり様」に飲み込まれ、ついには3.11につながる「現実」に回収されてしまったのだ。
(つづく)

ハチさん、頼むよッ!

2011-06-27 13:27:01 | 日記
天候不順な日が続きます。
ところによっては豪雨とか強風による被害も出ているようだったり、6月としては記録的な猛暑だったり。
ウチの方では左程のことはなかったとはいえ、この蒸し暑さはかなわないですねぇ。
相変わらず降っていなければ「雑草との格闘」なんですが、今、一番心配なのは「サクランボ」の木で、「青虫」にやられて葉っぱがボロボロにやられていることですかね。
ウチの周りにはメッチャたくさん木はあるわけだから何も「ウチのサクランボ」だけを狙って食わなくてもいいだろうになど思うけれど、多分、一番「おいしい」のかも知れない。
でもホントは虫の種類によって「食性」は決まってるんだろうけどね。
「殺生」はしたくないんだけど仕方ないから毎日10匹以上はつぶすんだけど、ラチがあかない。
夕方になると「蛾」がツガイでやってきたりしているから、まだまだ、被害は拡大するのかも知れない。
「殺虫剤散布」なんてのはしたくないし…
アシナガバチが5匹か6匹か、飛んできては帰っていくから、ちょっと調べてみたら、あれらは「スズメバチ」の仲間なんだそうで、「青虫・毛虫」などが大好物なんだそうだ。しょっちゅう来てくれてるんだけど、どう考えても一日50匹も退治してくれてないんでなかろうか。
百匹くらい来てちょうだいよッって思うよね。
「サクランボ」も負けてはいないで、一杯いっぱい新しい芽を出して、葉を増やそうと懸命なんだけれど、「青虫」に負けて枯れてしまえば、それもまた「天命」ということかも知れない。
「あるがまま、なるがまま」、放置ってのが蛙の態度なんだけど、「それってタダの『無精(ブショウ)』ってことじゃろうがッ!」などと児玉先輩に言いあてられてしまったこともあったなぁ。
あれは蛙が「墓参りはしない」って話の時だったから、ちょっと事情は違うかもだけど、本質的には一緒のことだわ。

うっとうしい日々が続きますね

2011-06-22 20:53:40 | 日記
なんだかだとゆうてはいるけれど、いつも「被災地」の状況が「どうなんだろうか」という想いがのかないで、「チムグルシー」、心穏やかな日などあるわきゃないんだ。
「梅雨」ということで「そちらでは、いかばかり、厳しい日々が続いているのだろうか」など思う。
「目をつぶっていさえすれば」蛙の日常にさして変わることはないのであるから、ただただ「ためいき」が出るばかり…
「詰まらない話」が続くけれど、蛙の日常を報告しておこう。

5月からは完全(不)「自由人」になったのだから八面六臂な蛙の活躍が期待されるところだったかも知れないが、蛙のスタンスとしては「求められる要求には全力を尽くす」けれど、あまり「しゃしゃり出て、なんでもかんでも引き受ける」ようなことはしないというタイプだから、やっぱり「たいした」ことなどできているってことはないんだね。
それだから、ごく個人的な「作業」が中心だ。
例えば「庭の草取り」。
会社勤めがあった頃は放ったらかしだったから、それはもう「ビオトープ」さながらで、草や木や虫たちの天国、蛇やトカゲも走り回っていたんだね。
テントウムシに噛まれたりって人はあまりいないだろう。
こういうのって「蛙の趣味の世界」だもんで、それはそれでちっとも構いはしなかったんだけど、5月一杯は徹底的にそれこそ根こそぎ「ウチの庭」の雑草の撲滅をやって、6月に入ってからは隣の娘ンチに移った。
充電式の「グラストリマー」なるものを買ってきて、ウチの周りの公園の草刈もやったりしている。
エンジン式のは2万円くらいするし、どんくさい蛙が使うには力が強すぎて「ちと怖い」気がしたから8千円ばかりの中国製のを買ってきたんだけど、1ヶ月で壊れてしまった。
「保障期間内」だから交換はきいたからまだいいけれど、こういうのを「安物買いの銭失い」というのだろうね。
サクランボは「なり年」というのがあって「隔年」のようで、今年は大豊作だった。
多分、千個くらいはなったろう。
半分は人間様の口に入ったけれど、後の半分はヒヨとムクがかっぱらって行った。
あいつらは一粒づつついばんでいくからまだいいけど、カラスの野郎は枝をへし折って持って行ってしまったりしたものだ。
かわゆくないよ、全く。
サクランボは2週間くらいで無くなっちゃったけど、少し間をおいてユスラウメもたくさん実をつけた。
こっちは、ちと「甘さ」では落ちるけど、それでも完熟ということになると「そこそこ」なもんだ。
ムクも初めは見向きもしなかったが、甘くなってきてからは毎日10羽くらい飛んできてた。
で、こちらもお終いになった。
この時期、「梅雨」だもんで、雨の日は読書、でない日は「雑草との格闘」って具合なんだが、これは相当辛い作業なんで「少しづつ」。
雑草のほうはめっちゃ元気で、あらかた済んだかと思ったら、一週間前にやったところから、もう「再生」してくる。
蛙は適当にやってるからまだいいけど、「百姓仕事」ってたいへんだなぁって思うよ。

にしても、「原発」はどうなるんだろう。
情報は色々仕入れているけれど、気が重くなるような話ばかりだし…

「黙祷」について

2011-06-18 17:50:57 | 日記
今日、池田さんから次のような質問をされたんです。

「こないだ、ある集会で『東北大震災』で亡くなられた方に対する『黙祷』がやられなかったんで、『どうして?』って聞いたところ、浄土真宗の人なんだけど、『あれは『天皇制』と結びつているから』って言われたんよ。そうなんかしら?」

蛙は、「教団の教義では、死者を悼むために祈る行為は意味がないことになっていると思いますよ。葬儀でも法事でも『亡くなられた方の冥福を祈る』ということを考えてやられているわけではないんですね。葬儀や法事で親類縁者が集まって『お念仏』を申すわけですけど、それは『亡くなられた方』のお陰で『ここ』に『縁』をもって皆が集うことになったのだということ、『南無阿弥陀仏』という『お念仏』の『有難さ』、阿弥陀如来の『我々を救いとってくださるというお約束』に対する『報謝』ということなんですね。『黙祷』が『天皇制』と結び付いているという『そのお方』の言い分は正しいとは思いませんよ。説明するのが面倒だから、そう言われたんじゃないですかね。」

そのように答えました。
で、その「答え」にあまり自信があったわけでなかったんで、ネットで検索をしてみました。
以下は「Wiki記事」からの引用です
ーーーーーーーー・
日本での普及
明治天皇の大喪の礼のおり、1912年(大正元年)9月8日の讀賣新聞に「市民の黙祷と学生」という記事がある。『明治天皇紀』に「市民一斉に黙祷し」と記述された。ただしこれら以外のほとんどでは「遥拝」と記述されている。 日本国内で黙祷が普及したのは、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災によるところが大きい。 関東大震災の1年後にあたる1924年(大正13年)9月1日に東京にて慰霊祭が行われ、その慰霊祭の中で地震発生時刻の午前11時58分にあわせて1分間の黙祷をする催しが行われた。日本で事件・事故・災害の発生時刻に合わせて黙祷をするという習慣はこの時が最初だと言われている。これ以後、毎年9月1日の同時刻に関東大震災の黙祷が行われると共に、他の事件・事故・災害などについても発生日の祥月命日の同時刻に黙祷をする習慣が全国的に広まった。
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外国でも
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silent prayer
1919年11月11日11時、イギリスのジョージ五世発案により第一次世界大戦に対するsilent prayer(黙祷)が行なわれた。
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とありますから、「天皇制」とは無関係なのだと思います。
詰まらない話だったかも知れませんが….


「スタイル」

2011-06-16 12:47:09 | 日記
前稿の予告とは違って、申し訳ありません。
「スタイル」ということですが、蛙の場合、足がとても長いという訳でもなく「イケ面」ということでもありませんから「スタイル」について云々するというのもおかしな話と皆さんは思われるかも知れませんね。
けれども一応、本人は「スタイリスト」なんだって思ってたりします。
何の話よッてことになりますが、これは勿論、「活動のスタイル」っていう話。
今さっき「職安」から帰ってきたところですが、自分自身のことではなく「同盟役員」として「職安」に行くのは久しぶりのことでした・
以前にも言いましたが、蛙は「後先を考えずに思うことを目一杯に主張する」タイプでありまして、それが災いして「当分の間」、「役員」を「馘」になっていました。
「役員」でなければできないということでもなかったかも知れないけれど、「その間」、相当、控えめな気分であって、活動のレベルは随分、低下していました。
それまでは、自分で言うのもなんだけれど、「とてもよい仕事」ができていたと思っているのですが…
「ノーリツ」という会社での「障害者雇用」を巡っての応対とか、東灘区の青年の「就職差別事件」についての取り組みとか、あげればたくさんのことがありましたが、蛙の場合、「名は捨てて実利をとる」という「歩き方」をしてきました。
「闘い方」を選ぶ権利は「当事者」だけに限られる。
「差別に対する怒りは蛙にも激烈なものはある。若し君が望むなら、手が後ろに回っても構わない、肉弾でぶつかって行くことも辞さない。ただ、そのような闘い方は『失うもの』があまりに多く「得る」ものはあまりに少ない。次善の策として、こういう闘い方もあるのではないか」というような話し方を「当事者」に対してはしてきました。
獲得すべきは「当事者」が「差別には屈しない」という姿勢を貫けるかどうかということなのだと思ってきたのです。
「職安」の上級に当たる「兵庫労働局」との折衝でも、蛙は「大きな成果」を勝ち取ってきたと思っています。
「中身」は書けません。
「職安」や「労働局」職員といったところで、実際には「たかが知れた『木っ端役人』に過ぎない」のです。ですが、彼らも彼らなりに「差別はよくない」とは思っているのです。「反差別」の旗を高く掲げて「闘う」などということはようしないけれども、自身の職責の限界の中で「できること」は「したい」と考えているのだと蛙は思っていました。
それだから、「与えられた条件の中でどんなことが可能なのか」ということを相互の討論の中で探り当てていく、そういうスタイルをとってきたのです。
これはもう「信頼関係」をどう作り上げていくのかという話です。
「同盟役員」の中には、「差別解消は君らの責務なんではないか。ならばこういことをしろッああいうことをしろッ!」という風な「まっとうな要求を突きつける」、そういう「一本槍」な「スタイル」があるように思います。
彼らにできることは限られているのです。
「厚労省交渉」ならばいざ知らず、現場での交渉は「現場らしい交渉」でなければならない。
蛙はそう思ってきました。
勿論、そういう「要求の仕方」が不当なものだと言っているわけではありません。
若しかすると「正しい」のは「そういう闘い方」であって、蛙のようなのは「インチキ」なのかも知れない。
たとえそうであったとしても、蛙は「兄弟姉妹が差別の現実に抗して、潰れることなく、生き抜いていくしたたかな知恵を獲得していく」ことを目指す、そういうスタイルでいたいと思っているのです。