「あの日」からとうとう百日以上も過ぎてしまったというのに、事態は収拾のつかぬまま、「放射能汚染」はいよいよ拡大をしていくようだ。
やりきれなさで「言うべきことば」もないというところだが、思いつくまま、1.17との比較など、書き留めておこう。
「原因」は「地震」なのであるから、何かしら共通項のようなものはあるかも知れない。
まず「地震そのもの」の相違点だけれど、「阪神淡路」の場合は「直下型」であったから、相当広範囲に被害は及んだとはいえ、「今回」のような「プレート型」の場合では比較にならない程の範囲の広さになったこと、そして決定的な違いは、甚大な「津波による被害」があったことであるだろう。
亡くなられた方の殆どが前者では「建物の倒壊による圧死」であったが「今回」では「水死」が9割を占めるらしいし、人数にしても未だ確定をしていないが「阪神淡路・約6500人」のおよそ3倍から4倍ということになるようだ。
「津波」は「この地」の主要な産業である農業と漁業に致命的な被害をもたらしている。
今回の「災害」で、最も重要な視点は「原発事故」ということになる。
「それ」さえなければ、途方もない時間が必要であったかも知れないが、必ず、「未来」は切り開かれていくはずだった。
「事故の収束」が果たして可能なのかどうか、今ではそういう不安さえ覚え、胸を押し潰す。
「福島第1」では「震度」は「6強」だった。
神戸の「震度7」よりも実は小さかったのだ。
「想定外」などという屁理屈は「原発事故」では通るわけもないだろう。
「原発」を推進してきた自公政権や電力会社は「業務上過失致死罪」が適用されてしかるべきではないか。
「原発」に話が及ぶと、だんだん興奮してきてしまうから、少し話を戻そう。
「阪神淡路大震災の記憶を風化させてはならない」、多くの人々がそのように主張した。
勿論、少なからぬ人々は「その想い」を腹の底において活動を続けてはいる。
例えば「被災地NGO」の村井君たちがそうだし、「被災地障害者センター」もいちはやく「現地」に入っていて、「支援」を続けている。
ただ、と蛙は思う。
言わずもがななことかも知れないが「風化」とは「岩石」などが灼熱の太陽に曝され、雨に打たれ、風に吹かれて「ボロボロ」になってしまうことではないか。
ここで言われる「風化」はどう捉えるべきだろうか。
「風化させてはならない記憶」とはなんであるか、「風化をもたらすもの」が何であるか、それをしっかりつかんでおかなければならなかったはずだったが、既に「風化」は進んでいると言うべきだろう。
「あの時」、蛇口をひねればいつでも水が使え、夜、ウチに帰れば明かりがあり、ガスが使えて食事や風呂も、という「日常」がいっぺんに失われた。
目の前で崩れた家の下敷きになって焼かれて死んでいく身内をどうしようもなく泣き叫びながら見送ったことや、頭が潰された我が子を抱いて「どうしても助けてもらいたい」と病院に飛び込んでくる母親や、それはそれは数限りない「地獄」を確かに見たのだ。
それでも「生き残った人々」は「なぜ、愛する人の代わりに自分が死ななかったのか」と自問しながら、生きていかなければならない。
そして、「癒えぬ傷」にふたをしながらではあるが、「人とのつながり」を頼りに立ち直りを図ろうとする。
そこで、夜の闇がこんなにも深いものだったと知ったことや、夜空の星がこんなにもきれいに輝いて見えるのだと改めて知ったことや、隣近所の人々と、そこいらに山とある廃材で、飯を炊き、鍋を囲む。
また、全国から届けられる、心のこもった「物資」を受け取って、人の温かさに感謝をする。
何もかも失った人々が「そのように集う」現場に蛙もいたけれど、「深い悲しみ」が塗り込められてはいたのだろうが、「そこ」は「解放区」のように自由であたたかな空気が充満をしていた。
そうなのだ。
「何もかもがある」、そういう「日常」が実は「たわいもない虚構」の上に成り立っていたのだということを、皆は感じ取っていたはずだ。
この「解放区」を押し広げていく、そういう「戦略」も「戦術」も誰も見つけることはできなかった。
多分、「文化の作り直し」が求められていたはずなのだ。
そして、16年という時間が経過し、人々は、「大量消費」という「この国の文化のあり様」に飲み込まれ、ついには3.11につながる「現実」に回収されてしまったのだ。
(つづく)
やりきれなさで「言うべきことば」もないというところだが、思いつくまま、1.17との比較など、書き留めておこう。
「原因」は「地震」なのであるから、何かしら共通項のようなものはあるかも知れない。
まず「地震そのもの」の相違点だけれど、「阪神淡路」の場合は「直下型」であったから、相当広範囲に被害は及んだとはいえ、「今回」のような「プレート型」の場合では比較にならない程の範囲の広さになったこと、そして決定的な違いは、甚大な「津波による被害」があったことであるだろう。
亡くなられた方の殆どが前者では「建物の倒壊による圧死」であったが「今回」では「水死」が9割を占めるらしいし、人数にしても未だ確定をしていないが「阪神淡路・約6500人」のおよそ3倍から4倍ということになるようだ。
「津波」は「この地」の主要な産業である農業と漁業に致命的な被害をもたらしている。
今回の「災害」で、最も重要な視点は「原発事故」ということになる。
「それ」さえなければ、途方もない時間が必要であったかも知れないが、必ず、「未来」は切り開かれていくはずだった。
「事故の収束」が果たして可能なのかどうか、今ではそういう不安さえ覚え、胸を押し潰す。
「福島第1」では「震度」は「6強」だった。
神戸の「震度7」よりも実は小さかったのだ。
「想定外」などという屁理屈は「原発事故」では通るわけもないだろう。
「原発」を推進してきた自公政権や電力会社は「業務上過失致死罪」が適用されてしかるべきではないか。
「原発」に話が及ぶと、だんだん興奮してきてしまうから、少し話を戻そう。
「阪神淡路大震災の記憶を風化させてはならない」、多くの人々がそのように主張した。
勿論、少なからぬ人々は「その想い」を腹の底において活動を続けてはいる。
例えば「被災地NGO」の村井君たちがそうだし、「被災地障害者センター」もいちはやく「現地」に入っていて、「支援」を続けている。
ただ、と蛙は思う。
言わずもがななことかも知れないが「風化」とは「岩石」などが灼熱の太陽に曝され、雨に打たれ、風に吹かれて「ボロボロ」になってしまうことではないか。
ここで言われる「風化」はどう捉えるべきだろうか。
「風化させてはならない記憶」とはなんであるか、「風化をもたらすもの」が何であるか、それをしっかりつかんでおかなければならなかったはずだったが、既に「風化」は進んでいると言うべきだろう。
「あの時」、蛇口をひねればいつでも水が使え、夜、ウチに帰れば明かりがあり、ガスが使えて食事や風呂も、という「日常」がいっぺんに失われた。
目の前で崩れた家の下敷きになって焼かれて死んでいく身内をどうしようもなく泣き叫びながら見送ったことや、頭が潰された我が子を抱いて「どうしても助けてもらいたい」と病院に飛び込んでくる母親や、それはそれは数限りない「地獄」を確かに見たのだ。
それでも「生き残った人々」は「なぜ、愛する人の代わりに自分が死ななかったのか」と自問しながら、生きていかなければならない。
そして、「癒えぬ傷」にふたをしながらではあるが、「人とのつながり」を頼りに立ち直りを図ろうとする。
そこで、夜の闇がこんなにも深いものだったと知ったことや、夜空の星がこんなにもきれいに輝いて見えるのだと改めて知ったことや、隣近所の人々と、そこいらに山とある廃材で、飯を炊き、鍋を囲む。
また、全国から届けられる、心のこもった「物資」を受け取って、人の温かさに感謝をする。
何もかも失った人々が「そのように集う」現場に蛙もいたけれど、「深い悲しみ」が塗り込められてはいたのだろうが、「そこ」は「解放区」のように自由であたたかな空気が充満をしていた。
そうなのだ。
「何もかもがある」、そういう「日常」が実は「たわいもない虚構」の上に成り立っていたのだということを、皆は感じ取っていたはずだ。
この「解放区」を押し広げていく、そういう「戦略」も「戦術」も誰も見つけることはできなかった。
多分、「文化の作り直し」が求められていたはずなのだ。
そして、16年という時間が経過し、人々は、「大量消費」という「この国の文化のあり様」に飲み込まれ、ついには3.11につながる「現実」に回収されてしまったのだ。
(つづく)